本記事は『柴谷篤弘対談集 ネオ・アナーキズムと科学批判』(リブロポート,1988)のII章 桂愛景との対談「パラダイムとのりこえ」の一部(73-76ページ)にもとづく.文中の〔 〕内は,ここに掲載するにあたって私が挿入したものである.
桂愛景(唐木田健一)
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〔前略〕
科学革命と「通常科学」
柴谷 〔桂さんの『戯曲 アインシュタインの秘密』(サイエンスハウス,1982)を読んで〕非常におもしろいと思ったのは,第一幕.これは非常にわかりやすかった.この第一幕で気がついたのは,これは,クーンの〔著書『科学革命の構造』(本記事文末の追記参照)における〕パラダイムのことを,パラダイムという言葉を使わないで書いておられるんだなということです.
桂 今,柴谷さんがおっしゃったとおり,私はパラダイムという言葉を,今まで,フォーマルには使ったことがないんです.非常にポピュラーな用語になって,それに関するペーパーも,本もたくさん出ていて論じ尽くされたという感じになってますけれども,私にフィットする議論というのは,まだ出てきてないと思うんですね.
これから柴谷さんとお話をするにあたって,クーンのパラダイム概念というものを,私がどう考えているかというのを明らかにした上で,議論を展開していきたいと思っています.
柴谷 結構です.
桂 私がクーンの本(日本語版・中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房,1971年)を最初に読んだのは,76年で,翻訳書が出てからも,だいぶたったときだと思うんですけれども,非常に感心したんです.何かというと,「ノーマル・サイエンス」という概念です.これは,私が,71年以降,日常科学――勝手にローマ字の名前をつけて,Routine Scienceと呼んでいたんですけれども,それとぴったり重なる概念である.71年というと,私,実は大学院で,カッコつき「研究」を始めていた時期なんですけれども,こんなものが研究なのかというのが常に頭にあった.自分のやっていることも,周りの人がやっていることも,こんなことが研究なのかと思っていた――ということは,実は,研究というものはこんなものではないはずだと考えていたわけですね.
だから,自分や自分の周り――つまりほとんどの研究者がやっていることを,私は,日常科学と呼んで軽蔑していたわけです.
柴谷 その雰囲気は,確かに日本の中にあることはあったんですね.
桂 こんなものを一生やる気はないというのが,常に頭にあったわけですけれども,76年にクーンの本を読んで,ワッと感心したのは,私なんかよりも極めて明快に,日常科学を,ノーマル・サイエンスという概念で論じているのですね.「ノーマル・サイエンス」という言葉――「通常科学」と訳されていますが,柴谷さんは「正常科学」の方がいいとおっしゃってますね.
柴谷 いいと思う.英語の原語から言えば.僕は通常科学という訳語から逆に「オーディナリー・サイエンス」と言っちゃったんです.それは違う,「ノーマル・サイエンス」と言い直さなくてはと思ったので.
桂 その正常科学.非常に明快に書かれていますし,それから考え方によっては,クーンの方が,私よりはるかに過激なことを言っているわけです.なぜかというと,私は,研究,あるいは科学とはこんなものではないんだと,自分のやっていることや,周りを見て思っていたわけなんですけれども,クーンはそうじゃなくて,それが,科学なんだと.
柴谷 そうです.
桂 ほとんどの科学者はそうやっているんだ,と.
柴谷 そうです.
桂 「ほとんどの科学者のやっていることは,パズル解きである」などという過激なことを言った人は,クーン以前には多分いないはずで,それは非常に感心しました.
特に,通常科学が,パラダイム――彼のキー概念ですけれども,パラダイムに基づいて,いかに遂行されるか,あるいは,あるパラダイムから別のパラダイムに基づいている活動を見たときに,いかにちぐはぐなことが起こるか,実に明快に書かれているんです.すばらしい本だと思いました.ただし,気にくわないのは,クーンは革命については何も書いていないということです.これが私の印象,感想です.
柴谷 それは私も肯綮〔こうけい〕に値するというか,思いあたるところがあります.私が気にしてきたのも,クーンが書いていないから,よくわからなくてうろうろしていたということになるんだろうと思うんですね.しかも,クーンの本の表題は『科学革命の構造』で,これは具合悪いですね.
桂 そうです.それが気にくわない.だから,The Structure of Normal Sciencesというタイトルの本であれば,彼は私の同志として,いまだに,私が頻繁に彼を引用したはずなんですね.ところが,そうではなくて,私によって無視されちゃった.彼にとっては痛くもかゆくもないでしょうが‥‥.
I章の吉岡斉さんとの対談の中でも柴谷さんは,「クーンは,転換のプロセスを分析して,それをちゃんとプレゼントするということを余りはっきりしていない」と言っていらっしゃいますね.私の感じたのも同じことでした.
私にとって,革命というのは何かと言うと,クーンの用語に基づけば,あるパラダイムから別のパラダイムへの転換のプロセスをいうんだ,と.パラダイムが二つあって,それを結ぶ移行の過程が革命なんだと.ところが,クーンは,あるパラダイムと別のパラダイムの転換過程の非連続性のみを記述している.
柴谷 クーンがその連関のことをいっているところが別の本であるんですけれども,それについては,また後でふれましょう(☆).
桂 また,柴谷さんは,『私にとって科学批判とは何か』〔サイエンスハウス,1984〕の中で,「パラダイム」から,「パラダイム転換」への,パラダイム転換が大事なんだと,それに関心を持っているとおっしゃっていますけれども,それもたぶんその辺,つまりクーンによっては移行の過程が全然明確にされなかった.つまり革命が明確にされなかったというところの反映なのではないかと,私は感じております.
〔後略〕
☆これについて柴谷はすぐあと(78ページ)で,次のように発言している:
クーン自身はほとんどそこのところを書いていないんだけれども,後に書いた”The Essential Tension”(1977)という論文集を見ると,パラダイム転換というのは,外国語を習うようなものであって,初めは,ボツボツ苦しくやっているんだけれども,あるときから,突然自由にその言葉で考え始めるようになってしまう.これが,パラダイム転換だと言うんです.〔後略〕
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2023年8月における追記:
トーマス・クーンおよび彼の『科学革命の構造』(Thomas S. Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions, 1962, 1970)については,まずは藤永茂氏の二つのブログ「私の闇の奥」および「トーマス・クーン解体新書」における「君はトーマス・クーンを知っているか」参照(この記事については,両ブログとも同一内容).また藤永氏は,彼の『トーマス・クーン解体新書』(ボイジャープレス,2017)において,徹底的なクーン批判を行っている(本ブログ記事「藤永茂『トーマス・クーン解体新書』の“出版によせて”」参照).
私のクーン批判については,本ブログに「渡辺慧教授の論文“求む:理論変化の歴史的・動的見解”に答える」,などがある.
柴谷篤弘氏については,本ブログ記事「理論変化の問題と柴谷篤弘『構造主義生物学』」および「柴谷篤弘氏のこと」参照.
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