科学的研究プログラムの方法論
科学理論の評価/あるいは対立する複数の理論間の優劣の判定に関し,ラカトシュ(Imre Lakatos)は,すでに提案されている諸家の理論を批判し,「科学的研究プログラムの方法論」なる考えを提案する(☆).研究プログラムとは発展しつつある理論の系列のことである.理論評価の単位はこの系列なのであって,孤立して取り出された仮説あるいはその結合体ではない.
☆I. Lakatos, The Methodology of Scientific Research Programmes (1978)/村上陽一郎・井山弘幸・小林傳司・横山輝雄訳『方法の擁護』新曜社(1986).以下の本文における〔〇〇頁〕は本書日本語版での頁を示す.なお,ラカトシュによる諸理論の批判については本ブログにおいて別に掲載の予定である(→「イムレ・ラカトシュによる諸家の”科学論”批判」).
研究プログラムは「堅い核」と「防御帯」から成る構造を有する.ニュートンの研究プログラムを例にとれば,前者には三つの運動方程式や重力の法則が含まれ,また後者には大気中における光の屈折の理論をはじめとする膨大な補助仮説の群が含まれる.研究プログラムに対する変則事例が出現した場合,それは通常,堅い核に対する反駁とは見なされず,防御帯の中の仮説を修正することによって対応がなされる〔262-263頁〕.
研究プログラムは前進的かそれとも退行的かによって評価される.個々の修正によって新たな予測が導出された場合,そのプログラムは理論的に前進的であるといわれる.また,その予測のいくつかが験証された場合,そのプログラムは経験的にも前進的なのである.自分のプログラムを適当に調節することによって所与の変則事例を処理することは常に容易である.この場合,その処理によって変則事例とは別に新たな事実を予測できるのでなければ,そのプログラムは退行的なのである〔263-264頁〕.
ラカトシュは以上の枠組みに基づき,プトレマイオスとコペルニクスの二つの対抗するプログラムを評価する.
ラカトシュの分析によるコペルニクス研究プログラムの優位性
プトレマイオスの研究プログラムもコペルニクスの研究プログラムも共にピタゴラス・プラトン的プログラムから生まれたものである.このプログラムは,天体の完全性に基づき,あらゆる天文学的現象はできる限り少数の一様な円運動あるいは軸のまわりの一様な回転の組合せによって記述されるべきであるという発見法的原理を基本とする.この原プログラムでは宇宙の中心がどこであるかの指示は何も含まれていない〔265-266頁〕.コペルニクスは,プトレマイオスおよび彼の後継者の手にかかって,そのプログラムの基本原理が退行していることを認識したのである.ひとつは,プトレマイオスによるエカント(☆)の導入である.プトレマイオスはこれにより,惑星の見かけの速度変化を説明することに成功した.しかしこれは,一様な円運動の原則からは逸脱しているように見える.また,太陽年と恒星年にずれがあるため,彼は恒星天球に二つの別個の運動を与えなければならなかった.日周回転と黄道の軸を中心とする回転である.最も完全な物体であるはずの恒星が単一で一様な運動をしていないのである! しかも,天動説がこれだけその基本原則を侵犯しても,それは経験的には退行的であり続けた.すなわち,何ら新しい事実を予測できなかったのである〔267-268頁〕.
☆円周上を移動する惑星の速度は実は一様ではない.それを説明するためプトレマイオスにより導入されたのがエカントである.エカントは円内の中心から離れた位置に存在し,それに対する惑星の角速度が一定となるのである.
コペルニクスは天文学のこのような状態に対してピタゴラス・プラトン主義を甦らせようとし,しかもそれに成功したのである.彼はエカントを取り除いたが,それにも関わらず,プトレマイオスの体系とほぼ同数の円しか含まないような体系を生み出した.またそれは,現象との一致につき,プトレマイオス流の天文学に劣るところがなかったのである〔268-269頁〕.
コペルニクスのプログラムはこのように発見法的に前進的であったのみならず,また確かに理論的にも前進的であった.それは以前には知られていなかった金星の相の変化(満ち欠け)を予測したのである.しかし,それは1616年まで験証されなかった.「それゆえ,科学的研究プログラムの方法論は,コペルニクスの体系がガリレオの時代まで,・・・・・十分に前進的とは言えないという点で反証主義の立場に同意する.コペルニクスの体系はプラトン主義的伝統のなかで発見法の前進を構成し,理論的にも前進的であったかもしれないが,1616年までこの体系の名誉となるような新しい事実はなかったのである.コペルニクス革命は1616年に初めて十分に一人前の科学革命になったが,そのときには新たな力学-主導の物理学のためにその大部分が放棄されてしまったように見えるのである」〔270頁,下線は原文での強調〕.
この「歓迎すべからざる結論」は,プログラムが前進的かどうかの評価の基準となる事実の予測を時間的に新しいものにのみ限定してしまったためであるように思われる.そこで,ザハール(E. Zahar)が,コペルニクス革命の歴史とはまったく独立な考察から提案した新たな基準を受け入れ,科学的方法論の基準に「重要な修正」〔271頁〕を加えなければならない.ザハールによれば,時間的には必ずしも新しい事実でなくても,理論を《劇的に》験証することはできる.たとえば,その現象自体は100年以上前から知られていたにしても,アインシュタインの一般相対性理論は水星の近日点の移動現象を予測し,それによって《劇的な》験証を受けたということができる.なぜなら,アインシュタインの最初の企図においてその現象の変則性は何の役割も果たしていなかったからである〔271-272頁〕.
事実の予測をそのように解釈すれば,コペルニクスの体系は,たとえば,惑星の留と逆行(☆)を示すということを《予測》できた.この現象は,プトレマイオスの枠内においても注意深く観測され,その説明のために手が加えられていたのである.一方,コペルニクスの体系においては,この現象は原モデルの単純な論理的帰結である.同様な事実としては,外惑星の公転周期は地球から見た場合一定でないことを含めいくつかをあげることができる〔272-274頁〕.
☆惑星は通常,西から東に向かって動いている(順行運動)が,しばしばその動きを止め(留),その後しばらく西に向かって動き(逆行運動),もうひとつの留を経由して順行運動にもどる.
まとめれば,コペルニクスのプログラムは,プトレマイオスのプログラムに比較して,理論的にも,経験的にも,そして発見法的にも前進的であったのである〔279頁〕.すなわち,「コペルニクス革命は,・・・・・単に科学的に優越していたがゆえに,偉大なる科学革命だったのである」〔277頁〕.
ラカトシュ的方法論の混乱
我々は,孤立した命題ではなく研究プログラム,すなわち(時間の)系列としての理論を評価の単位とすべきであるというラカトシュの提案は重要であると考える(☆).しかしながら彼の方法論は,すでに破綻しているように見える.前の項では彼の論旨展開のエッセンスをきわめて忠実かつ正確に紹介したが,それを見ただけでも破綻は明らかであろう.
☆本ブログ記事「“社会構築主義”的問題:理論評価に対する“社会的要因”の関与について」および「日本の地質学界におけるプレートテクトニクス受容過程の理論科学的考察」において私は,理論に対して要求される項目を示すとともに,理論評価は時間軸上で継続されることの重要性を強調した.
ラカトシュの方法論は,彼を彼にとって「歓迎すべからざる結論」に導いた.そこで彼は,ザハールの提案を受け入れ,自己の基準に「きわめて重要な修正」を加えた.それによって彼は「1543年(☆)の状況を眺め」〔272頁〕,プトレマイオスよりもコペルニクスの体系に支持を与える諸事実を見出すことができたということになっている.これらの事実は,プトレマイオスの体系では,パラメターを調整するなど技巧的にしか処理できないのに,コペルニクスの体系では,「単純」に,「当然のこと」として説明できるのである〔273頁〕.
☆1543年はコペルニクスの『天体の回転について』が出版された年である.
しかしながらこれは,ラカトシュ自身が厳しく批判した単純性主義そのものではないか? 「コペルニクス理論は確かにいくつかの問題をプトレマイオス理論よりも単純なやり方で解いたが,その単純化の代償として,他の問題の解き方は予想以上に複雑なものとなっている・・・・・」.そこで,「プトレマイオスの体系とコペルニクスの体系の“単純性-差引勘定”は大体とんとんと考えるのが妥当・・・・・」〔255頁〕のはずであったのではなかったか.
あるいは,それら諸事実は他の事実よりも《本質的に》重要であると主張されるのかも知れない.しかしながらそれは,クーンにならっていうと,地動説のパラダイム(およびそれを擁護したがっているラカトシュ)にとってのみ本質的であるにすぎない.さらにいえば,ある種の現象が地動説によって単純に説明できることなど,板倉によって引用されたプトレマイオスが大昔に気づいていたことなのである(☆).それよりも何よりも,ある種の現象が地動説によって自然に説明できるのは結構として,この我々の大地(地球)が動いているという余りに《不自然な》主張自体はどう擁護されるのだろう? これに関するラカトシュの言及はない.これが問題なのに!
☆板倉聖宣『科学と方法』季節社(1969),99頁.
ラカトシュによるコペルニクス理論の考察において,我々は次の点で彼に同意することができる.それは,プトレマイオスの体系が自己本来の基本原理を確実に逸脱しているということをコペルニクスが認識していたという点である.この天動説内部の矛盾こそがコペルニクスを地動説に導いたのであり,我々は板倉においてみる通り,そこに着目してのみコペルニクス革命の偉大さを理解できるのである.
(本記事は1989年4月作成の未発表原稿に基づく)
唐木田健一
最近では あまりきかないが
光粒子は光速故に 光粒子崩壊の時間が永遠に停止して真空中をどこまでもつき進む?
一方でブラックホ─ル中心は 無限の重力で? 時間が完全停止している?
私には どちらも疑問だ
光粒子が完全時間停止とは とても思えない 何千億光年とつき進む内時間のとても遅い経過の上で いつかは崩壊すると私は考える
一方でブラックホ─ルを考えると相対性理論の見地からも どれだけ強力な重力で超密度となってもその物質としての空間がある以上必ず時間が存在し すなわち完全時間停止はありえない
ただし今のところ光粒子とブラックホ─ルのその奥深い時間についての関係性が 私にはまだよくわからないため光粒子の時間経過による崩壊が立証できないが 一応光粒子自体にもその空間があると考えると やはり完全時間停止は あり得ないでよいのだろうか
ライゴ、カグラなど なぜマイケルソンモ─リ─の稚拙な原理で重力波が観測できると考えるひとたちがいるのか
ひょっとしたら 重力が空間を歪め光は重力場でも絶対速度一定で直進していると考えてないだろうか
光は重力場で必ず遅くなり
すなわち湾曲する
ブラックホ─ルを考えれば明らかなこと
恐ろしい錯覚が無駄な税金の浪費にならなければよいが 大人のオモチャにしては高過ぎないか
まあ数十年後か 宇宙空間に稚拙重力波望遠鏡を作れば 地球振動を観測していたことは明らかになるのでないか