唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

今こそ「仮説実験授業」.(2)民主主義教育あるいは倫理教育としての意義

2023-04-12 | 日記

〔「今こそ“仮説実験授業”.(1)その方法」からのつづき〕

 「仮説実験授業」の創始者・板倉聖宣は,「いったんこの授業が実際に行われてみると,当初の意図を越えた大きな成果の得られることが明らかになった」という趣旨を記している[1].すなわち児童たちは,科学の基礎的な概念を確実に理解しうるようになっただけでなく,科学的な考え方,態度というもの,創造的に考える方法というものを身につけ,さらには民主主義というものがいかなるものであるかをしっかり感じ取るようになったという.このことは授業における児童たちの発言,思考方法,行動,さらには感想文からも知ることができる.

 板倉によれば,科学というものは,互いにすぐれたアイディアを出し合い,批判し合い,誰にも納得のいく理論をつくっていく過程であり結果である.仮説実験授業の骨組みは,この考えにもとづいてつくられている.また,人間というものはもともと社会的存在で,民主的な協力関係をもちたがっている存在である.したがって,この授業は基本的に,創造的な思考や民主主義というものとは深いつながりがあるはずのものであり,得られた成果は偶然の結果というわけではない.

 仮説実験授業を受けた子供が強く印象づけられることの一つは,「真理は多数決では決まらない」ということである.この授業を何か月かやると,クラスの少数派が正しくて,多数派が間違いであるということが何度か起きる.子供たちは少数派の意見をバカにしてはいけないということを思い知るのである.

 もちろん,多くの場合は多数派が勝利する.多くの児童が問題に対する十分な理論的見通しをもつようになれば,みんながその意見に賛成できるようになる.この授業を受けた子供たちは,どのようなときに多数意見が正しく,どのようなときに少数意見が正しいことがありうるか,ということについての見通しをもつことができるようになるのである.民主主義の根本には「多数決原理」というものがある.しかしそれは,少数意見の尊重に対しての正当な理解を必要とする.仮説実験授業はこの民主主義のもっともむずかしい微妙な事柄を感動的な仕方で教えてくれるのである.

     *

 ここで,私の観点からも,仮説実験授業の意義を敷衍しておきたい.すなわち,その倫理(教育)的意義である.

 私は,倫理的選択に関わる議論では,その選択の背景となっている考え方を

(a)事実と対応していること(実証性)

(b)首尾一貫していること(合理性)

(c)一般性を有すること(普遍性)

の三つの要求にもとづいて評価すべきことを主張している[2].これはまさに,仮説実験授業での「討論」にあたる.「討論」では各自の予想の理由や考え方をぶつけ合うのであるが,そこに動員されるのは,知識や経験(事実)であり「理屈」(論理)である.

 仮説実験授業の場合,一つの決定的事実(最後の実験で明らかになる「答」)を軸にプロセスが組み立てられているので,社会一般における倫理的問題の場合に比較してまとまりがつけやすい.したがって,倫理的問題の検討に対するよきモデル(演習問題)となっているのである.

 民主主義の本質は,仮説実験授業が明らかにするように,「討論」にある.「多数決」は「討論」が成功裏に進行した結果によって支持されるに過ぎない.ところが,現在の社会では,討論(異なる考え方とのぶつかり合い)自体が避けられる傾向にある.さらには,事実の捏造,改竄,隠蔽が公的機関においてすら堂々と行われ,また首尾一貫した思考は軽視されて,その場しのぎの説明,あるいはあからさまな説明拒否がまかり通っている.

 民主主義の危機は社会の危機である.そして,これからを生きる子供たちは,人生のさまざまな局面で,異質な思考との対面を要求されるであろう.討論が嫌いとか苦手では通用しない.この意味でも私は,仮説実験授業が現在の若い世代の教師にまで拡がっていき,活発に展開されることを期待している.

唐木田健一


[1] 本ブログ記事の内容は主として,板倉『科学と方法』季節社(1969)所収の論文「仮説実験授業とは何か」の中の「民主主義教育としての仮説実験授業」にもとづく.

[2] 本ブログ記事では,「倫理的問題の評価において要求される項目」.


コメントを投稿