goo blog サービス終了のお知らせ 

(新)漕ぐ、歩く、走る、我がボート人生徒然草

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
学生時代の漕艇部活動を、停年退職後に再度始めた、その日々の記録

開発進む戸田コース周辺

2020-02-14 10:44:59 | 日記


 桐友会漕艇実練も、2月13日より新年活動を再開した。当日はC松岡、S藤波、3大木、2富安、B橋爪のクルー7で、長い冬休み明けということもあり、この日は足慣らし程度に軽いノーワーク主体で終始した。オール休めて艇上で話題になったのが、コース周辺の開発あるいは再開発の動きである。上の画像のように、急ピッチで建設が進んでいる。建設現場で進んでるのが、住宅・マンション・高層マンションあるいは製造系工場か、コース上からは不明だったが、いずれにせよコース近辺で新たな開発の動きが始まってるのは事実だ。これを機に、戸田近辺の開発の歴史と将来の展望を検討するのも一考だろう。
  荒川を挟んで赤羽から戸田周辺は、東京の最北部、埼玉の最南部にあたり、工業区分的な正式な呼び名は不明だが、便宜的にここでは荒川北部産業地域とでも名付けておく。東京からは北部であるが、関東あるいは首都圏からみればほぼ中心に位置し、利便性は絶好のゾーンである。がその割には開発の遅れが目立ち、インフラの核の土地なども相当割安に放置されてきたと言える。この地と対照的なのが、東京南部城南地域から神奈川北部川崎方面の、いわゆる大田区工業地域である。ここは大正期頃までは牧歌的な田園農村地帯で、主に東京中心部へ生鮮食料品等を供給する農業地帯であった。工業としては僅かに麦稈産業(ムギワラ帽子)等があるくらいであった。それが、大正中期から昭和初期にかけて一気に工業化が進み、戦時中から戦後にかけて我が国有数の機械加工業が濃密に集積する、いわゆる”大田区の工業”としてノミネートされるまでの工業地域として発展した。この地は、上記で機械加工業が濃密に集積と記したが、先導的ないくつかの有力機械工業企業が立地すると、そこから派生される下請業務によって、次々と梯子状に下請企業が集積し、全体として下請加工中心の工業地帯を形成してきた。そうした企業として、東京計器(現トキメック)・東京機器工業(現いすず)・東芝・北辰電気(現横河電)等々が知られている。
  荒川北部産業地域も戦後の1950年代末頃までは、かっての大正初期の大森・蒲田地区に似て、農業主体の地域であった。しかしその後のこの地域の歩みは大森・蒲田のそれとは違って、工業化とかに大きく変身することなく、表現は酷だが旧態依然と言える状況で長く終始してきた。大田区に於けるような有力企業が見当たらなかったとも言えるわけで、こうした背景は産業立地論の視点からも検討対象となるのでは。以上の視点は、サンウエーブ(サンウエーブ工業戸田製作所)の形成と撤退に見ることができる。我が国キッチン業の歩みは、サンウエーブと切り離せないといわれるくらい、当社は該業界のパイオニア企業であり、当初住宅公団納入の木製シテムキッチン製造で大きく成長してきた。サンウエーブ戸田工場は当社の中心工場として、システムキッチンの扉を年間40万枚、人造大理石天板を年間4万台生産し、システムキッチンの生産工場である深谷製作所および社製作所(兵庫県加東郡社町)に供給してきた。しかしこうした扉や天板生産は完結型業務で、周辺の下請企業を必要とし、あるいは発注することはなかった。サンウエーブをトップとする中小零細の下請企業体系も工業地帯も周辺に形成されることもなく、技術革新によって深谷製作所が扉や天板生産までも一貫生産で全て生産するようになると、戸田工場もその役割を終え、工場敷地売却し移転となった。こうした経過は、荒川北部産業地域の他の大企業にも見ることができる。明治(旧明治乳業)も、この地域を代表する大企業であるが、食品業の特質上当社も完結型企業で、周辺に下請企業を必要とする状況ではない。
  戸田コース周辺に今新たな開発の動きがあるが、いかなる方句を目指すのか、注目が集まってる。

 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ハイブリッド クルー | トップ | 梅花考 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

日記」カテゴリの最新記事