春は名のみので、梅も3分咲き、春満開は未だ先の本日、待ち切れずに秩父路を歩きました。長瀞駅から少し宝登山に向けて上った途中に新井家住宅があります。1700年代半ばに建てられた旧い建物で、元々長瀞の中野上にあったものを、長瀞町(現在長瀞市)に寄贈されたのを機に、1975年に現在の地に移築され、国指定重要文化財として一般公開されるようになったものである。新井家は江戸時代には、代々名主をつとめてきたような有力農家で、内部の造りは農家とはいえ、随所に家柄や格式を物語る造りになってる。奥の畳が敷き詰められた客間の”でえ”など、今でいえば応接間で、農家とはいえ上層階層との折衝があったことを物語る。家の全体的形状からいえば、典型的な養蚕農家の造りで、1階も2階も養蚕を前提とした造りである。構造材は、30センチ角の欅の大黒柱が見事で、同様な柱が随所に使われ、2階を支える梁や桁も同じ位の太さの材をつかってる。300年近く経ても、基本的な構造はビクともしない造りであり、部分的には3度の改築工事を経てるが、今後も家としては全く問題ないだろう。最近のツーバイホーやプレハブ、あるいはコンクリートの建物は、果たして到底300年近くも続くのだろうかと、疑問もった。


秩父には、江戸から幕末にかけて、新井家のような有力農家が、豪農あるいは草莽層と言えるかも知れないが、あちこちに居たと思う。そうした秩父で、1883(明治16年)に困民党という農民蹶起がおきるが、こうした歴史的事実は、新井家のような豪農層の存在と如何なる関連あるのだろうか。あるいは、豪農層は農民蹶起に支援する側に立ったのか、中立だったのか、批判する側に立ったのか、家の構造から触発された一考に過ぎないが、経済史研究の視点からは、興味が尽きない。

更に宝登山に向けて上ると、宝登山神社に出た。本殿の彫り物の見事さは、秩父というより関東を代表する神社と思うが、本殿の西側に、今は取り外されてるが、数年前までは大きな扁額が数枚掲げられていた。明治10年代半ばに当神社に寄進した、近在の農民の名が何百名と記入されてた。ここでも又明治10年代の秩父農民蹶起との関連に思っ至ったが、これだけの寄進が出来る農民の資力、それと明治14年の松方デフレによる一気の通貨縮小。農民の気持ちとしては、2階に上げられてハシゴを外されたような気だったのだろうか。秩父を歩くと、歴史研究の糸口が、随所に尽きない。
更に上ると、火祭り会場に出た。秩父路に春を呼ぶ長瀞の火祭りとして、近在に定着しつつあるが、この日は西の高野山・金剛峰寺でも同じイベントが催ようされたようだ。関東の当イベントも、近在の善男善女の賛同を経て、隆盛になりつつある。小生も善男善女に交じって、裸足になり火渡りしたが、何か自律神経が刺激されたような気がして、風邪ひきなど追い払う効用を感じた。