戦後生まれの人口が全体の8割を超えたと言う、当然に戦争体験者も急減し、戦争といっても「記憶」から「歴史」へと変わりつつある。戦争の惨禍を次代に伝えていく取り組みは、今後益々重要になる。本日の日経電子版は、2019年度に恩給を受給した旧軍人は9500人で初めて1万人を割り込んだ。2010年度の13万3千人から10年間で14分の1に減少したと、伝えている。

(出所:8/15日経電子版)
戦後生まれが多数になっただけでなく、旧軍人も急減しつつあることは、戦争を肌感覚で語れる者も急速な減少をも意味する。最近ノモンハン事件が各メデイアで取上げられ、参加兵士が縷々証言しおるが、本当のところの戦場の恐怖、残酷さ、あるいは戦場の臭いや音等々は、到底語れるものでないだろう。例えば砲撃というと、通常ドカーン・ドカーンというイメージだろうが、相対した敵のソ連側の砲撃は法華太鼓流に連続音の斉射で来たとか。それだからこそ、戦争体験者が減り、戦後生まれが増えつつある状況で、戦争の悲惨さ・愚劣さを後世に伝える作業は、肌感覚では到底伝えられないにせよ、繰り返すが益々重要であろう。
1945年を境として、それ以前を戦前の範疇に括ろうとしても、物心つくという問題があるから、1940年前後生まれで分けるのが妥当か。この頃の生まれなら、敗戦1945年前後は、4才・5才・6才頃だから、戦争が実体験として朧ろげながら記憶にある。小生は1941年の世田谷区玉川瀬田町生まれだが、戦争が知識としでなく、実体験として幼児期の記憶として多少ある。1945年は、年初よりB29の帝都空襲が始まり、爆撃を終えたB29は一旦西方へ富士を目指し回避したらしいが、その西へ回避するB29を帝都防空部隊が幾条もの探照灯で照射し捕捉した状況を、世田谷・瀬田町くんだりから見ていた記憶がある。その他、庭に掘った防空壕へ、“空襲だ!”の声で転がり込んだとか、徴兵された兵隊は各民間の家庭へ分散宿泊の通例もあり、我が家にもデパートで購入したばかりのピッカピカの軍刀を身に着けた兵隊が宿泊していたとか、結構戦争が実体験として身近にあった。小生は、東京方面へ戦禍が更に近づいたとうことで、1945年早々に群馬に疎開し、東京空襲などは回避し、以後敗戦から戦後の東京の状況は、経験としてはない。この辺は、ヒルトン・ヘッドの島田先輩が、Give me Chocolate!で進駐米軍と調布在等で関わったことが、以後の人間形成に影響受けたと、回想してることとの違いである。

画像は、帝都近傍図1/4万の世田谷区近辺表示図であるが、着色部は米軍爆撃焼失部である。世田谷方面は、渋谷に近い主要駅に爆撃はあったが、それ以外のローカルな部分は免れた状況が分る。瀬田町の北隣の用賀には、東条英機の邸宅があり、東条が責任とって辞任後は、開戦の責任から民衆の不満を集め、屋根に小石を投げつけられる等のこともあった、後に親から聞いた。
明治は遠くになりにけり、と言う言葉がかって流行ったが、昭和の戦争を同様に葬りさることは、余りにも重い体験である。本日8月15日を機に、反省した次第である。

(出所:8/15日経電子版)
戦後生まれが多数になっただけでなく、旧軍人も急減しつつあることは、戦争を肌感覚で語れる者も急速な減少をも意味する。最近ノモンハン事件が各メデイアで取上げられ、参加兵士が縷々証言しおるが、本当のところの戦場の恐怖、残酷さ、あるいは戦場の臭いや音等々は、到底語れるものでないだろう。例えば砲撃というと、通常ドカーン・ドカーンというイメージだろうが、相対した敵のソ連側の砲撃は法華太鼓流に連続音の斉射で来たとか。それだからこそ、戦争体験者が減り、戦後生まれが増えつつある状況で、戦争の悲惨さ・愚劣さを後世に伝える作業は、肌感覚では到底伝えられないにせよ、繰り返すが益々重要であろう。
1945年を境として、それ以前を戦前の範疇に括ろうとしても、物心つくという問題があるから、1940年前後生まれで分けるのが妥当か。この頃の生まれなら、敗戦1945年前後は、4才・5才・6才頃だから、戦争が実体験として朧ろげながら記憶にある。小生は1941年の世田谷区玉川瀬田町生まれだが、戦争が知識としでなく、実体験として幼児期の記憶として多少ある。1945年は、年初よりB29の帝都空襲が始まり、爆撃を終えたB29は一旦西方へ富士を目指し回避したらしいが、その西へ回避するB29を帝都防空部隊が幾条もの探照灯で照射し捕捉した状況を、世田谷・瀬田町くんだりから見ていた記憶がある。その他、庭に掘った防空壕へ、“空襲だ!”の声で転がり込んだとか、徴兵された兵隊は各民間の家庭へ分散宿泊の通例もあり、我が家にもデパートで購入したばかりのピッカピカの軍刀を身に着けた兵隊が宿泊していたとか、結構戦争が実体験として身近にあった。小生は、東京方面へ戦禍が更に近づいたとうことで、1945年早々に群馬に疎開し、東京空襲などは回避し、以後敗戦から戦後の東京の状況は、経験としてはない。この辺は、ヒルトン・ヘッドの島田先輩が、Give me Chocolate!で進駐米軍と調布在等で関わったことが、以後の人間形成に影響受けたと、回想してることとの違いである。

画像は、帝都近傍図1/4万の世田谷区近辺表示図であるが、着色部は米軍爆撃焼失部である。世田谷方面は、渋谷に近い主要駅に爆撃はあったが、それ以外のローカルな部分は免れた状況が分る。瀬田町の北隣の用賀には、東条英機の邸宅があり、東条が責任とって辞任後は、開戦の責任から民衆の不満を集め、屋根に小石を投げつけられる等のこともあった、後に親から聞いた。
明治は遠くになりにけり、と言う言葉がかって流行ったが、昭和の戦争を同様に葬りさることは、余りにも重い体験である。本日8月15日を機に、反省した次第である。