1857(安政四)年4月20日夕刻、武州桶川宿の新築後数年の武村旅館に3人の男衆の旅人が止宿した。一人は40才台で、連れ合いの2人はもう少し若く、3人ともたいして荷物持たず軽装で、ほぼ手ぶらに近い様相であった。着るもんは共に着流しに近い小袖で、足元は皆草鞋がけであった。晩飯には一献つける注文あったが、明日の出立が早朝とか、晩飯も早々に床についた。江戸を発ったのは今日の早朝であったとか、明日は高崎に出て、三国街道を猿ヶ京から三国峠越えて湯沢へ抜け、越後長岡を目指すという。宿帳には年長者は天野宗歩、年下は渡瀬莊次郎と市川太郎松と記した。すなわち3人は将棋指しで、宗歩は今を時めく棋界の有名人で、江戸のみならず関西方面にもその名は届き、当時“棋聖”とまで称されていた。時に宗歩42才、莊次郎は30才代だが太郎松は29才であった。若い2人は、宗歩の付け人格だったが、宗歩の四天王と言われた4人の弟子の中の2人だった。
天野宗歩の来歴をみると、兎に角旅が好きで、物心ついてからは居所の江戸にじっとしてることは、殆どなかったといってよい。最初に旅で上方に向かったのは1833年18歳5段の時だったが、この時代は旅に出て他流試合するのが将棋の修行であったから、この時の上方行は理解できるとして、以後も江戸と上方方面行きを数年おきに繰り返していた。こうした頻度からみると、他流試合の修行以外の別の何かがあった気がする。一つには宗歩は、江戸風の将棋の指し方が嫌いであった。江戸風とは、長考というか数手さしたらその日は差し掛けで、翌日又数手指す、そうした長考を繰り返えし、一局に何日もかけるものだった。これに対し宗歩は早や見えで、手番がくると瞬間にパッパッと指す、そうした早指しが得意だった。何日もかけて将棋を指す、そのような間延びした将棋が耐えられなかったらしい。上方への旅を繰り返しただけでなく、越後や奥州方面にも何回となく将棋行脚したのは、一つにはそげんな間延びした将棋を指したくなかったからであり、旅に出て地方の強豪と自分が指したいような流儀で将棋を指したかったからでないか。地方行脚の際は、多くの場合は中山道を通ったから、武州桶川宿近辺が第一日目の宿となった。上尾宿や北本宿方面に止宿の時ももあったろうが、いずれにしても宗歩は桶川に再三足跡を記したことになる。
天野宗歩は、1816(文化13)年江戸本郷菊坂の小幡甲兵衛の次男として生まれ、幼少から将棋に非凡な才能見せ、江戸で評判となり“菊坂の神童”と言われた。のちに天野家に養子に行き天野姓名乗ったが、1820(文政3)年には5才で将棋所家元の11代大橋宗桂に入門し、大橋家の一門となった。将棋所というのは、江戸城内で将棋を指すいわゆる“御城将棋”が允許された特別の将棋家元で、大橋本家・大橋分家・伊藤家の三家が独占しいた。宗歩は幼名は留次郎であったが、その後富次郎と改名し、1851年35才で剃髪して宗歩と名乗った。こてれは「別家」を許され御城将棋に出勤するためであった。御城将棋でもメキメキと腕を挙げ、更に名声が内外に響くと、次第に師の大橋宗桂とシックリ行かなくなっていったと言われる。宗歩が江戸に居ることを好まず、各地への旅を好んだのは、こうした師匠との確執もあったのだろうか。
翌日1857(安政四)年4月21日、宗歩一行は桶川宿を発ち上州を経て、24日に越後長岡に着いた。地元有力者の歓待受け指導将棋を指し、酒・料理の接待を堪能し、翌る1857(安政四)年4月25日に、天野宗歩は弟子の渡瀬莊次郎と左香落で将棋を指してる。これは142手で弟子の莊次郎が勝ったが、名局といわれる一局だが、渡瀬莊次郎は将棋の研鑽・造詣が深く、『将棋必勝法』などの必死図をまとめた書物も著わしてる。
武村旅館の現状を画像紹介する。
参考文献:中原誠『天野宗歩』日本将棋大系11、筑摩書房、昭和54年
門脇芳雄『続詰むや詰まざるや、古典詰将棋の系譜』平凡社、昭和53年
渡瀬莊次郎『将棋必勝法』


天野宗歩の来歴をみると、兎に角旅が好きで、物心ついてからは居所の江戸にじっとしてることは、殆どなかったといってよい。最初に旅で上方に向かったのは1833年18歳5段の時だったが、この時代は旅に出て他流試合するのが将棋の修行であったから、この時の上方行は理解できるとして、以後も江戸と上方方面行きを数年おきに繰り返していた。こうした頻度からみると、他流試合の修行以外の別の何かがあった気がする。一つには宗歩は、江戸風の将棋の指し方が嫌いであった。江戸風とは、長考というか数手さしたらその日は差し掛けで、翌日又数手指す、そうした長考を繰り返えし、一局に何日もかけるものだった。これに対し宗歩は早や見えで、手番がくると瞬間にパッパッと指す、そうした早指しが得意だった。何日もかけて将棋を指す、そのような間延びした将棋が耐えられなかったらしい。上方への旅を繰り返しただけでなく、越後や奥州方面にも何回となく将棋行脚したのは、一つにはそげんな間延びした将棋を指したくなかったからであり、旅に出て地方の強豪と自分が指したいような流儀で将棋を指したかったからでないか。地方行脚の際は、多くの場合は中山道を通ったから、武州桶川宿近辺が第一日目の宿となった。上尾宿や北本宿方面に止宿の時ももあったろうが、いずれにしても宗歩は桶川に再三足跡を記したことになる。
天野宗歩は、1816(文化13)年江戸本郷菊坂の小幡甲兵衛の次男として生まれ、幼少から将棋に非凡な才能見せ、江戸で評判となり“菊坂の神童”と言われた。のちに天野家に養子に行き天野姓名乗ったが、1820(文政3)年には5才で将棋所家元の11代大橋宗桂に入門し、大橋家の一門となった。将棋所というのは、江戸城内で将棋を指すいわゆる“御城将棋”が允許された特別の将棋家元で、大橋本家・大橋分家・伊藤家の三家が独占しいた。宗歩は幼名は留次郎であったが、その後富次郎と改名し、1851年35才で剃髪して宗歩と名乗った。こてれは「別家」を許され御城将棋に出勤するためであった。御城将棋でもメキメキと腕を挙げ、更に名声が内外に響くと、次第に師の大橋宗桂とシックリ行かなくなっていったと言われる。宗歩が江戸に居ることを好まず、各地への旅を好んだのは、こうした師匠との確執もあったのだろうか。
翌日1857(安政四)年4月21日、宗歩一行は桶川宿を発ち上州を経て、24日に越後長岡に着いた。地元有力者の歓待受け指導将棋を指し、酒・料理の接待を堪能し、翌る1857(安政四)年4月25日に、天野宗歩は弟子の渡瀬莊次郎と左香落で将棋を指してる。これは142手で弟子の莊次郎が勝ったが、名局といわれる一局だが、渡瀬莊次郎は将棋の研鑽・造詣が深く、『将棋必勝法』などの必死図をまとめた書物も著わしてる。
武村旅館の現状を画像紹介する。
参考文献:中原誠『天野宗歩』日本将棋大系11、筑摩書房、昭和54年
門脇芳雄『続詰むや詰まざるや、古典詰将棋の系譜』平凡社、昭和53年
渡瀬莊次郎『将棋必勝法』

