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(新)漕ぐ、歩く、走る、我がボート人生徒然草

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学生時代の漕艇部活動を、停年退職後に再度始めた、その日々の記録

猛暑の中、三田高クラス会開く

2024-07-22 19:09:06 | 日記
 都立三田高校1999年度学年クラス会が7/21(日)の11時~15時に、東京神田三省堂近くのレンタルルームで開かれました。コロナ禍経て久しぶりのクラス会でしたが、変わらずの元気なを一同確認でき、実に楽しい一時を過ごせました。背景の画面に映し出される一人々々の三田高時代のプロフイール画像に合わせて、各自近況交えてスピーチの趣向でしたが、なかなか面白かった。高校時代と、体形など含めて変わって見える者もいたし、殆ど変わってみえないも者もおり、面白かった。今回の料理というかアルコール類の肴は、幹事役の小山さんの取引会社の特注弁当で、自然食品系の安心できる弁当で大変よかった。小山さんは、こうした無農薬無添加系自然食品の販売に従事してるとか、その合間に今回も幹事役だったわけで、そのエネルギーは凄い。参加男子組は、正社員一本組もいたし、転職して心機一転の者もいた、総じて正に現役の中堅層であった。女子組は、子育て組もいたし丁度子育て終えて多少のゆとりある者もいたし、独身主義もいた。画像を見て下さい。


 一枚目は左から、長野県安曇野に一家で転居し豊か都な自然の中で子育て中のSさん(旧姓豊田さん)、その右は残念ながら氏名失念だが、自分のポリシーに忠実に生きてるとの発言でした。その右は、こちらも氏名失念ですが神奈川県警交通シロバイ隊員で、自分らに関わりもつなと強調でした。更に右は岸君で私が3年時に担任でしたが、現在介護施設勤務で、その内幕暴露でした。真夏の怪談はホラーだが、そんなん柔に言えるくらいの話があり、冷や汗が出ました。更に右(手前)は亀井先生で、まだまだ若いですね。
 


 二枚目は、左は西岡先生で、相変わらず女性組の人気は抜群でした。右列の女性組の氏名失念ですが、西岡先生フアンでした。尚、奥にテレビカメラが見えますが、神奈川テレビ(tvk)勤務の某君(氏名失念)が今回のクラス会状況を撮影し、後日youtubeで発信とのことで、楽しみにして下さい。猛暑さかりの中、幹事役の小山さん含め参加者全員本当に御苦労さんでした。
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”文芸桶川”に投稿

2024-07-04 19:35:32 | 日記
 長らくご無沙汰していますが、この度下記文章を、桶川市の年次学芸誌である”文芸桶川第45号”に投稿しました。採用されても、発刊は来年春ですが、一応紹介しておきます。内容は、2018/01/21 日付の『桶川と軍需工場』を元に、大幅に手直しと追加したものですが、憲法9条改悪とか世界的にも戦争の足音が聞こえる今、過去を振り返ることは無意味でないと信じてます。


                 戦争と樋川ー戦時下の三井精機工業(株)


 桶川の軍需工場は、三井精機と三菱金属であるが、今回は三井精機を検討する。我が国の精密測定器工業(precision)・精密機械工業の歴史は三井精機の歴史と言われるくらい、当社がこの業界で果たしてきた役割は大きい。1928年(昭和3)に東京の蒲田区雑色町195に、津上退助が資本金15万円で設立した、測定器具製作会社の津上製作所が三井精機のルーツである。津上製作所は、製品需要増につれ暫時業容も拡大し、資本金増等を行い、会社も成長した。1936年(昭11)に、当社の事実上のスポンサーであった三井資本と津上の経営陣の対立があり、創業者津上退助が退社することになった(津上氏は同時に新潟・長岡に別個に津上製作所を設立、現在の東証一部(株)ツガミ)。これに伴い津上製作所も改名する必要がおき、東洋精機(株)となった。当社は創業以来海軍との繋がりがあり、具体的には魚雷部品製造で海軍の依嘱受けていた。当社は、魚雷発射に必要な動力源である高圧空気を作る圧縮機を製造していたたわけである。当時軍と繋がるということは相当なステータスで、検査・基準も厳しく、それだけに原材料供給等でいろいろ優遇もされた。
 魚雷発射は、何百気圧もの高圧空気を使うが、我が国の魚雷は当初から、航続距離・速度・破壊力等の点で、英米を遥かに凌駕する、海軍自慢のものであった。それを更に決定的にしたのが、酸素魚雷の開発と製造であった。従来魚雷は、艦艇搭載大砲の砲弾に比し、到達距離とスピ-ドで劣っていた。この難点を解決したのが酸素魚雷であった。これは燃料に灯油を用い、これに高圧酸素加えて燃焼させ、これで内燃機関を動かすものであった。灯油は多量の水素を含有してるので、酸素と化合すると水になるため、排気ガス少なく、魚雷発射の際の航跡を残さない利点があった。こうして酸素発生装置と酸素圧縮機が時代の脚光浴びたが、当社東洋精機は昭和10年よりこうした革新的兵器の製造に着手していた。
 この頃当社東洋精機は、三井資本との繋がりを更に深め、名実共に三井資本の傘下に入った。1941年(昭16)の大平洋戦争開戦直前の10月に、業務を拡大すべく、国鉄(現JR)高崎線桶川駅の西口に隣接する15万坪の工場用地を入手し、東洋精機(株)桶川製作所建設に着手した。同時に、同じ三井資本系統の三井工作機(株)と合併することになり、この際新社名をと、三井精機工業(株)と変更した。これが現在の社名である。三井精機は、魚雷関連等兵器部門は主として東京・本社方面で製作し、桶川製作所では精密機器製作関連の技術を生かし、航空機等兵器製作に必要な工作機械関連部品を製作した。これら製品の納入先は、主に中島飛行機であったから、当桶川製作所も立派な軍需工場であった。
 敗戦と同時に、人員整理の問題が起こった。東京の本社方面を含めグループ全体で1万人弱(9402名)の労働者を抱え、いかに整理するかの問題が起こった。GHQの方針は民需転換を認める方向だったので、新生平和産業民間会社として、最終的に2千人前後の労働者体制の平和産業会社としてスタートした。桶川工場は千人弱の人員による再出発であったが、当面何で利益を得て労働者に賃金支払うかが問題であった。当社は、元来が精密測定機器製作で起業した会社であり、故に平和的産業の技術蓄積もあり、それらを生かす方向に進むことになった。当面社員に賃金支払らわねばならず、紆余曲折経て自動車生産に活路見出したが、具体的にはオート三輪(オリエント号)生産で社員給与を稼いだりした。その後、魚雷関連高圧空気取扱い技術を活かして産業用高圧コンプレッサー生産に活路を見出したが、本業の精密機器生産企業として軌道にのったのは、昭和30年代後半であった。更に業容拡大目指し1981年(昭56)には、桶川工場を桶川から荒川越えて20キロ西方の、越辺川に隣接する埼玉県比企郡川島町に移転し、三井精機川島工場と改称 し、現在に至っている。現当社の所在地は、自然的な山林原野が良好に保存されてる静謐な環境保護地区であり、精密機器生産には最適な地である。隣接する越辺川には、例年コハクチョウが飛来する自然豊かな地である。
 桶川の軍需工場では、もう一つ三菱金属桶川製作所(現三菱マテリアル)がある。当社の詳細な資料が手元にないので、現状ではコメントできないが、戦時下で当社が生産していたのはゼロ戦の引き込み脚であり、数千の社員・工員が生産に従事する軍需会社であった。ゼロ戦といえば二大生産メーカーば、三菱重工業と中島飛行機であったが、その中島飛行機が航空機増産のための工場用地として眼を付けたのが当桶川であった。三菱金属の南側に隣接する広大な土地を、工場予定地として確保していたが、新工場建設の直前に敗戦となり、工場予定地はそのまま放置され松林となっていた。泉2から上日出谷・下日出谷の一部である。余談だが、その松林が切り売りされた際に購入して造成したのが、現在の小生の宅地であるから、中島飛行機(現富士重工業)との何かしらの縁を感じる。下の画像が、中島飛行機が撤退したまま放置され、我が家が購入した松林である。

 
 桶川が米軍の空襲受けなかった件について、付け加えておく。熊谷空襲があったのが昭和20年8月15日で、米軍は次に桶川の大空襲を考えていた。熊谷を襲ったのは100機弱のB29で、徹底的に街を破壊したが、桶川も空襲されれば同じことになっていた。日付みれば分かるように、熊谷が空襲されたのは8月15日に切り替わる夜中の0時半から1時半の約一時間であった。この日の昼頃にポ宣言受諾の玉音が流れ、我が国の無条件降伏が決まった。あと数日降伏が遅れれば、桶川空襲が実施され、三井精機や三菱金属だけでなく、市街地も相当破壊され少なくない住民犠牲も出たろうと言われている。米軍が熊谷を襲ったのは、精密な調査によって、中島飛行機関連の下請部品工場が多く展開してることを掴んでいたからである(利根川を挟んで真北の群馬の太田が中島飛行機)。同様に、米軍は桶川の三井精機や三菱金属に関する詳細な情報把握していた。参考までに、ウイキ資料で熊谷空襲に関するコメントを紹介する。

<熊谷空襲
1945年(昭和20年)8月15日0時23分から1時39分にかけてアメリカ軍により行われた埼玉県熊谷市に対する空襲である。太平洋戦争最後の空襲かつ埼玉県内における最大規模の空襲であり、熊谷市は県内では唯一の戦災都市に指定された。

アメリカ軍の作戦計画 8月13日、アメリカ軍第20航空軍司令部は、第58、第73、第313、第314、第315爆撃航空団に対し山口県光市にある光海軍工廠、同岩国市にある麻里布操車場、大阪府にある大阪砲兵工廠、秋田県秋田市にある日本石油製油所、群馬県伊勢崎市と埼玉県熊谷市の2都市に、動員可能な最大限の航空兵力による攻撃命令を下した。本作戦と並行して連合国と日本との間で終戦交渉が進められていたが、第20航空軍司令官は「交渉は日本側によって遅延させられている」と見なし、期限間近に迫るまでに最大限の航空兵力を発進させる準備を進め、諸作戦を8月14日から8月15日にかけて実施するように命じた。4施設と2都市が第1攻撃目標として選定された理由については、4施設に関しては重要な正照準攻撃目標のうちこれまで作戦が成功していなかった点、2都市に関しては攻撃目標として設定された180の小都市のうちこれまで作戦が成功していなかった点が挙げられ、光海軍工廠と麻里布操車場と大阪陸軍工廠に対しては昼間の攻撃計画が、日本石油製油所と伊勢崎市と熊谷市に対しては夜間の攻撃計画が立案された。作戦当日の気象状況が芳しくない場合、昼間作戦は翌日に延期されるが、夜間作戦については気象状況に関わらず決行される予定となっていた。
 戦後、米国戦略爆撃調査団によりまとめられた調査報告書には次のように記されている。熊谷は前橋、高崎、大宮、伊勢崎、館林、桐生、尾島、足利などの小都市と共に中島飛行機の航空機生産にとって必要不可欠な要素を含んでいる。これらの小工場は、その中心となる太田と小泉の大規模な最終組立工場の破壊にもかかわらず、航空機生産の継続を可能とする。生産の多くは大規模な部品工場に寄与する小工場において行われるため、これらの都市を攻撃目標とする価値は、流通される小部品や部分組み立て品の分散または複製を阻止するという事実によって強固なものとなるだろう。 熊谷は中島飛行機の部品製造ネットワークの中枢を成している。市内の多くの下請け工場は、下記の識別可能な主要部品工場に寄与しているものと考えられる。識別可能な工場として秩父鉄道石原駅のすぐ南側に位置する市内月見町の熊谷航空工業、市街地の東端に位置する市内末広の理研工業熊谷工場、国有鉄道熊谷駅と貨物ターミナルのちょうど南東に位置するhinode works(原文ママ)を挙げている。その中で特に熊谷航空工業については中島飛行機の子会社として部品製造やエンジン製造に関わり、中島飛行機太田製作所や小泉製作所や大宮製作所などの主要工場に付属する施設であると特定し、攻撃目標90.13-1650番に指定した。工場爆撃を目的とする場合は高高度からの精密爆撃が行われるのが常で、その際にはM64 500ポンド爆弾などが使用されたが、熊谷市に対する攻撃に際してはM47、M69焼夷弾が主に用いられるなど、あらかじめ住宅地域を対象とした作戦となった。                   
       参考資料 社史編集委員会『三井精機35年社史』昭和35年10月
                                             (日本経営史学会々員) >
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