『真宗興正派 本山興正寺
当寺は、阿弥陀如来を本尊とし、親鸞聖人を開祖とする真宗興正派の本山である。
興正寺の寺号は、日本に仏教をひろめた聖徳太子の事績にちなみ、「正しき法を興しさかえさす」との意味が込められている。
創建は鎌倉時代にさかのぼり、京都の東、山科の地に建立されたと伝えられている。
南北朝時代、寺基は、山科から渋谷へと移り、その際、阿弥陀仏の放つ光明にちなみ、寺号を 「佛光寺」と改めた。 佛光寺は多くの門徒をかかえ、隆盛を極めた。
室町時代、蓮教上人は、本願寺蓮如上人と歩みを共にし、佛光寺を弟に譲り、再び山科に 「興正寺」を興した。
その後は、本願寺と歩調を合わせ、度重なる移転にも行動を共にした。桃山時代、現在の地 へ移転したのも本願寺との深い関係を示している。
明治九年(一八七六)には、真宗興正派の本山となり、現在も「興隆正法」という願いのもと興正寺の歩みは続けられている。
京都市』 (駒札より)
興正寺は京都駅から北のほうへ徒歩約10分。西本願寺の南側に隣接している。同じ浄土真宗のお寺ということで、今はこの地にある。
歴史は古く上記駒札にある通り鎌倉時代といわれる。細かな創建年代については諸説あるが、親鸞聖人が建暦2年(1212年)に山科の地にもとになるお寺を開いたのが始まりと言われる。後に移転を繰り返し、最終的には桃山時代終わりの頃に、現在の西本願寺の南側に移転し今に至る。
その後、明治時代になってその後期に火災によって、ほとんどの伽藍を焼失。現在の阿弥陀堂、御影堂などは、その後に再建されたものだ。西本願寺の阿弥陀堂などは国宝に指定されているが、この興正寺のものも当時の建築であれば、同様に国宝になっていたかもしれない。真宗派の大きなお寺であり、各お堂も巨大なもので、境内も広く迫力がある。大半の人は西本願寺の一部だと勘違いして、こちらにはなかなか入ってこないようだ。
興正寺の梅は山門を入ったすぐのところに、左右対になって2本の木がある。それぞれ紅梅と白梅であり、巨大な建物と広い境内の割には正直、これだけかと思うかもしれないが、何でもかんでも数多くあればいいというものではない。わずか2本の紅白が意外と目立つポイントになっていて、しかもこれが山門の外側から少し見えているので、それに引かれて入ってくる人もいるようだ。
特にこれといって梅の名所というわけではないが、お寺の存在感とともに、梅がいい役割を果たしているので、ちょっとした穴場という感じがした。