大妙寺
『大妙寺
妙音山と号する日蓮宗の寺である。
当寺は、暦応三年(一三四〇)、日朗門下の九老僧の一人である妙音阿闍梨日行(みょうおんあじゃりにちぎょう)を開基とし、室町時代には洛内法華宗二一本山の一つに数えられていた。
しかし、天文五年(一五三六)の天文法華の乱で七堂伽藍ことごとく焼失し、後に豊臣秀吉の都市計画により、上京区寺ノ内新町の地に再興された。
寺内には、伝教大師の作といわれる三宝荒神像が安置されている。
平成三年(一九九一)に上京区から樫原に移転した。
京都市』 (駒札より)
樫原地区を走る国道9号線の南側に位置する。このあたり一帯は緩やかな傾斜地の上の方にあり、付近のお寺や神社、公園などからは京都市内の主に南部が一望できるような場所だ。
大妙寺の由緒については上記の駒札の通りとなる。鎌倉時代の終わり近くになって、いわゆる鎌倉仏教と言われる様々な仏教の宗派が立ち上がり、その中でも異彩を放つ日蓮が起こした日蓮宗のお寺として、日行が開いた。当時は今現在の京都市内の中心部の方にあったが、ずっと後豊臣秀吉の京都改造計画によって再興され、近年になって今の場所に移転したと言う。
従って本堂をはじめとする伽藍はかなり新しく、お寺全体が山門も含め境内も見た瞬間に分かるほど新しさがよくわかる。そのぶんある意味すっきりした印象だ。
戦国時代に各地の武士や大名たちが群雄割拠の世の中にあって、勢力争いを繰り広げていた。そのことは同時に多くの農民たちを苦しめることにも繋がっており、更には人々の間に広まっていた浄土宗、あるいは浄土真宗の教えに団結した農民たちの、一向一揆のような動きが各地で散発する。そんな中、日蓮宗そのものが他の宗派を攻撃し、いわば唯我独尊の教義を広めることを目指すことによって、他宗派との対立が鮮明になっていく。つまりこの時代は仏教の世界においても宗派の違いによる、いわば一種の宗教戦争的な対立が始まっていたのだ。
そんな中で起こったのが天文の乱(法華の乱)であり、元々比叡山延暦寺の僧と法華宗の僧とがお互いの宗派の教義内容について論争し、延暦寺側が破れた。元々が日蓮宗は他宗派への攻撃的な性格を持っており、いやが上にも対立構造があった中で、このような論争が行われ破れた延暦寺側が、法華宗の寺院を襲撃し、焼き討ちにしたという事件だ。
結果的に京都の中心部は焼け野原となり、乱そのものは収束したものの幕府及び延暦寺側からの強い弾圧を法華宗が受けることになり、その後何年間にも渡って京都における日蓮宗の活動は禁じられることになった。被害状況は数十年前に起こった応仁の乱をもを上回るものであったと言われている。
そして豊臣秀吉が天下を治めた時点で、日蓮宗の活動も復活し秀吉の京都改造計画により、改めて大妙寺も以前の近くに復興されることになった。日本の歴史の中では数少ない宗教戦争と言っていいのかもしれない。
『大妙寺
妙音山と号する日蓮宗の寺である。
当寺は、暦応三年(一三四〇)、日朗門下の九老僧の一人である妙音阿闍梨日行(みょうおんあじゃりにちぎょう)を開基とし、室町時代には洛内法華宗二一本山の一つに数えられていた。
しかし、天文五年(一五三六)の天文法華の乱で七堂伽藍ことごとく焼失し、後に豊臣秀吉の都市計画により、上京区寺ノ内新町の地に再興された。
寺内には、伝教大師の作といわれる三宝荒神像が安置されている。
平成三年(一九九一)に上京区から樫原に移転した。
京都市』 (駒札より)
樫原地区を走る国道9号線の南側に位置する。このあたり一帯は緩やかな傾斜地の上の方にあり、付近のお寺や神社、公園などからは京都市内の主に南部が一望できるような場所だ。
大妙寺の由緒については上記の駒札の通りとなる。鎌倉時代の終わり近くになって、いわゆる鎌倉仏教と言われる様々な仏教の宗派が立ち上がり、その中でも異彩を放つ日蓮が起こした日蓮宗のお寺として、日行が開いた。当時は今現在の京都市内の中心部の方にあったが、ずっと後豊臣秀吉の京都改造計画によって再興され、近年になって今の場所に移転したと言う。
従って本堂をはじめとする伽藍はかなり新しく、お寺全体が山門も含め境内も見た瞬間に分かるほど新しさがよくわかる。そのぶんある意味すっきりした印象だ。
戦国時代に各地の武士や大名たちが群雄割拠の世の中にあって、勢力争いを繰り広げていた。そのことは同時に多くの農民たちを苦しめることにも繋がっており、更には人々の間に広まっていた浄土宗、あるいは浄土真宗の教えに団結した農民たちの、一向一揆のような動きが各地で散発する。そんな中、日蓮宗そのものが他の宗派を攻撃し、いわば唯我独尊の教義を広めることを目指すことによって、他宗派との対立が鮮明になっていく。つまりこの時代は仏教の世界においても宗派の違いによる、いわば一種の宗教戦争的な対立が始まっていたのだ。
そんな中で起こったのが天文の乱(法華の乱)であり、元々比叡山延暦寺の僧と法華宗の僧とがお互いの宗派の教義内容について論争し、延暦寺側が破れた。元々が日蓮宗は他宗派への攻撃的な性格を持っており、いやが上にも対立構造があった中で、このような論争が行われ破れた延暦寺側が、法華宗の寺院を襲撃し、焼き討ちにしたという事件だ。
結果的に京都の中心部は焼け野原となり、乱そのものは収束したものの幕府及び延暦寺側からの強い弾圧を法華宗が受けることになり、その後何年間にも渡って京都における日蓮宗の活動は禁じられることになった。被害状況は数十年前に起こった応仁の乱をもを上回るものであったと言われている。
そして豊臣秀吉が天下を治めた時点で、日蓮宗の活動も復活し秀吉の京都改造計画により、改めて大妙寺も以前の近くに復興されることになった。日本の歴史の中では数少ない宗教戦争と言っていいのかもしれない。