「だろう」運転はいけません!と教習所で習ったなぁ。
行けるだろう、曲がってはこないだろう、飛び出してはこないだろう・・・
こういう運転が事故を引き起こす。
だから運転するときは必ず「かもしれない」運転を心掛けるように。
曲がってくるかも知れない、飛び出してくるかも知れない・・・この心
掛けが事故を防ぐのだと。
確かにその通りで、俺は運転免許を取ってほぼ30年、ずっとそれを
心掛けて運転してきたので、人身事故は一度もなく、物損事故が
たった一度あるだけ。それも信号待ちからの発進時にちょっと油断し
て前の車に軽く追突したというもので、当然相手に怪我はなく、相
手の車はわずか数万円で直るような事故やった。
だから、車の運転についていえばこの心掛けには大賛成やし、大切
なことやと思う。
でも、言葉は悪いけど「人の運転」についてはどうやろう?
人生において人と付き合うということは相手を上手に運転して、
自分も上手に運転してもらうということでもあるように思う。
こんなことをしたら相手が傷つくかも知れない、気分を悪くするかも
知れない、だからやめておこう、また逆にしてあげよう、と、かも知れな
いという気持ちをもって運転する。分かりやすい言葉に直すと「思い
やり」ということになる。
車の運転の理屈からすれば、この「かも知れない」を持ってすれば、
人間同士の事故(=もめごと、けんか等)なんか、ほとんど起こらない
はずやねんけど、ところがどっこい、そううまくはいかんところが人は難し
い。
まず他人の心が分かることなど絶対にない、という大前提がある。
これは至極単純に他人は自分じゃないから。
他人が分からないものであるということに加えて、全く分からないうち
から、だろう運転をすると相手を傷つけるし、自分も傷つくから、とり
あえず他人には最初のうち、かも知れない運転で乗ってみるのが通
例。
けど、そのうち付き合いが長くなればなるほど「かも知れない」ことが
はっきりしてきて、それが減ってくる。そして最後には、こいつにはこう
いうことを言っても大丈夫だろう、大丈夫に決まってるという「自分の
判断」に戻ってくる。
つまり思いやりの正体は自分以外にない。で、他人は自分じゃな
いから、どんなに長く付き合っても、どう工夫してもうまくいかんことも
あるわけよ。
ほな思いやりなんか必要ないのかと言えば当然そんなことはなくて、
だろう運転もしなくなって、自分のやりたいように運転し始めたら、こ
れは事故ばっかりでそのうちどっちもスクラップや。
だから、人とうまく付き合おうとすれば、結局はだろう運転に習熟す
るしかない。かも知れない運転でも付き合えないことはないけど、そ
れだと、ドライバーの神経が持たへんから。
そないしてみると、ホンマに人の運転ってのは難しいねぇ。特にちょっ
とボディーラインの凹凸がきつい車は特に難しい。
どうやっても、これでいいという運転方法はないんやから、少々運転
を間違えても、時にはわざと事故を起こしたりもしちゃっても、だろう
運転を続ければ、それはきっとそれでいいの「だろう」。