ちびたの日常

のんびり息子と猫たち&イギリス人ハニスケと

力になれてよかった

2009-09-30 | 私の愛する仲間たち
朝、「makiさんありがとうございました」と突然言われて「はい?」とビックリしていると「僕、久しぶりにぐっすり眠れました。あんなに朝まで一度も起きないで寝られたのはきっと昨日僕の話を聞いてくれたからです」そういって彼は涙ぐんでいました。

この彼は不眠症に悩み、市販の薬を使っても治らずに逆にその副作用で全身が痛くなるということにまた苦しんでいました。
どうして自分が寝られないのかわからずに、私にそのことを相談してきました。
いろいろ話していると、彼がいつもにこにこ笑っている陰で大きな重圧を感じているような気がしてきました。

「今まで一番寝られたときは、何をした時だった?」と聞くと 「知り合いのカウンセラーに相談した時です」とそういいました。

その瞬間、たぶん彼の家の中でしょうが こたつを蹴って怒っている男の人がいてトイレの隣にあるドアがすごく気になるんですよ。
私はたまにこういうことがあります。人とは話していると見たことがない風景が見えてくることがあって、たいていその話している人と関係があるんです。

「家の中に短気な人でもいるの?」そういうとすぐ、「実は兄が働いてなくて・・・」と言い始めました。
「あっ。そのことを親が言うとお兄さん怒るんでしょ。自分が悪いのに言われると腹を立てるのね。」

「そうなんです。椅子とか蹴って怒鳴り出すんです」
「あなたが腹を立てているのはお兄さんだけじゃなく親にもだね。甘やかすのは勝手だけど無責任だよって思うのよね。自分だって同じ子供なのにまっとうに生きているからって大人として頼られてばかりで辛いのよね。俺に言わないで兄さんに言えよって思うことたくさんあるでしょ」

「そう。うちの中がもうめちゃめちゃで。腹が立って仕方がないんです」
「そんな人は世の中にたくさんいるのよ実際。下手すると50歳くらいになっても70や80歳にもなる親の年金に依存する人だっている。お兄さんはいい年でしょ。筋金入りね。簡単には治らない。あなたは自分の人生を大切にしなきゃ馬鹿馬鹿しいでしょ。あなたは何にも悪くない。なのにとばっちりだけくるのよね。」

彼の顔に血の気が出てきて「そうなんですよ。ほんとは出て行って欲しい。もう親だって体が悪くてそんなに働けないみたいなんです。」

「これは酷なことだろうけど、お父さんたちとお兄さんの関係は身から出た錆のようなもので、甘やかしているから当然なのよ。ぶっちゃけ何とかなる。あなたが生活をしょわなくても何とかなる。親戚とか公的な補助とか。好き勝手に生きているつもりでも、お兄さんは周りの人生を踏み台にしていることに気がつかないのだからあなたももう自分を解放してあげなきゃ。連帯責任を取る人がいるならそれは両親でしょ。」

そして彼は「そうですね。そうなんですね。僕、すごく嫌な気分でうちへ帰っても全然楽しくなくて。だらだらしている兄を見てもう見るだけで腹が立ってきて。」そう言ってなぜだか顔は笑顔になりました。

「そんなものだよね。そういう人ほど堂々としている。年を取っていくほど情けなさが浮き彫りにされてしまうね」というと
「僕、自分が一人じゃない気がしてきました。」と言ってくれました。

その夜、彼は不眠症に勝ちました。私に話すことで受け止められたと思ってくれたのでしょうか。

今朝、「弟がこんなに悩んでいたのに兄貴はさっぱりだったんだね。ほら、あほらしいでしょ。」というと「そうですよねえ」と本当に晴れやかでした。

眠れる。それって本当にうれしいことなんですね。

ところでトイレの隣のドアというのがなんだったのかというと、そのお兄さんの部屋のドアらしいんです。いつも中でゲームばっかりしているらしくて、弟の彼はその扉をいつも蹴っ飛ばしてやりたいと思ってしまうんだそうです。
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子ども達のお手柄

2009-09-27 | 子育て日記
昨日は地域の十五夜まつりでした。

うちの地域は子供会と公民館の仲がそんなにいい方ではなく、まあお年寄りvs若い人である意味対立しているわけです。

表向きは公民館の言うことを聞いているのが今まででしたが、去年から「自分たちの地域は自分たちで住み良く変えて行こう」という意識が高まり、私はその代表をしています。

地域との交流を掲げる公民館ですが、それ以前に親同士の交流もなく 子どもは警察ざたを起こしたりと「これが交流できていると言えるの?」と思わざるおえませんでした。

地域以前に家族が交流していないんです。

「まずは自分のうちの中からでしょう」と少子化で学校と地区の仕事がブッキングしながら共働きで忙しく、家庭を顧みる暇がなくなって来ていることもあって子供会の仕事を減らし、残ったお金はみんなでバスで遠足に行ったりお互いのうちでお茶会を開いたりと家族揃ってできることにかえてきました。

それは公民館にとって嫌だったようで、公民館長との対立が始まりました。

しかし、子どもの親達は子供会のことを以前より喜んで協力してくれるようになって「今までやらされている感じがあったんだけど今じゃ全然そんなことないの」と言ってくれているんです。

昨日、御神輿を担いでみんなでパレードをしているときに公民館長さんは毎年来ていたのにも関わらず今年は「俺の出番なんかないんだから」とすねて迎えに行っても来てくれませんでした。
心の中で「どうか公民館長の心の中に日がさしますように…」と祈っていました。

その後、公民館で綱引きをしているときに3度くらい行ったり来たりしている館長を見ました。
子ども達が大騒ぎをしていることをみてやっぱり気になっているようでした。
相撲が始まろうとするとき、とうとう我慢できずに声をかけてきました。
「行司は?誰がするの?行司は?」と叫んでいます。
ほかのお父さんがすることになっていたんですが、そこはすかさず「館長さんがしてくれませんか?」とほかのお母さんが言ってくれました。
嬉しそうに「仕方がないがね」と(とっとと裸足になっていたんですよね)やってくれました。

次から次に子ども達は「僕も相撲がやりたい!」と両手を上げて大騒ぎをしています。
「がんばれええええ!!!!」とお母さん達も大騒ぎです。
どんなに転んでもゲラゲラ笑って「もう一回!!」となんどもなんども相撲を取ります。
「真剣にやらんかああ!水が入るぞ!!!」とどんどん館長も本格的になります。
館長の顔はもうずっとニコニコとしています。

もう渡す景品が無くなっても子ども達は相撲がしたいといい、館長も「ヨッシャ3人抜きだぞ!」と暗くなるまでやり続けていました。
そしてとうとう子ども達が「館長さんと相撲がとりたい!!」と言い出しました。
館長は「おお!!じゃあみんなで来い!」と言うとたくさんの子ども達が一斉に館長へ抱きついて行きました。
館長は満面の笑みで子どもを抱きしめました。

館長さんへお礼を言うと、子ども達もみんな大きな声で「ありがとうございました!」といい、館長さんも「いつまでもいい子でいてください」と嬉しそうでした。


相撲が終わったあと、館長さんは私に「ごめんね。いろいろ手違いがあって」と言いに来ました。私も「いいえ、手紙を渡しておいたけどその後もう一度お願いしにいけばよかったんです」と言って仲直りしました。

帰るとき、お弁当や飲み物を渡すと「本当はね、もうちょっと相撲をとっていたかったんだよ」と館長さんがいいました。

私はみんなに「さっきね、館長さんが謝りに来てくれたの。今回一番の手柄は子ども達だったね」と言うとほかのお母さん達もみんなうなずいていました。

まっすぐで純粋な子ども達のおかげで私たちは素直になれたのだろうと思いました。

館長さんといっしょに子どもが喜ぶ顔を見られるように、これからちょっとやり方を変えてみようと思います。


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7回忌

2009-09-23 | 家族のお話
私の従兄弟は 癌で亡くなりました。
とても頭がいい人で、テレビ局に就職したのちアナウンサーになりました。
若くで出世してできる人だったのも関わらず、そのことを鼻にかけることも無く誰からも好かれる優しい人でした。
しかし、結婚が決まりその半年前に癌が末期だとわかってその1ヶ月後に亡くなりました。
38歳でした。

昨日はその従兄弟の7回忌で、私はお寺に行きました。

いろんな話しをしていて、とにかく昨夜は従兄弟の友達も兄弟も交えて楽しく話しをして その楽しげな姿を従兄弟に見せてあげたいと全員が思っているかのように大騒ぎして笑いました。

従兄弟は末期癌という診断がくだされる前、職場で定期検診がありました。
結果は異常なし。その3ヶ月後に末期癌だと分かったんです。
異常なしですよ。そのあとすぐがんで死ななくてはならなかった。
亡くなる1ヶ月ほど前に転勤先から宮崎へ里帰りしたときはもう倍に腫れた足で黄疸もはっきりでていました。
それをみたおばさんは空港からすぐ病院へ直行。そしてすぐ入院になったのです。
だれも見てくれていない。こんなに見てはっきり分かるほどおかしかったのに。と、そう嘆きました。
従兄弟もまさか自分が死ぬような病気だと思っていなかったのでしょう。

いろんなことが見逃されました。死に急ぐように分かりやすいサインさえ見逃されていたんです。
そして従兄弟は亡くなり、みんなは後悔の気持ちでいっぱいになりました。
みんな自分を大事にしなきゃこんなにも苦しい思いを家族や友人にさせるのかと、その死から嫌というほど感じました。ある人はすぐに癌検診へ行ったりしてみんなそれぞれ考えました。


従兄弟は生前、北海道へ旅行した際に1本のウイスキーを作りました。
10年後の自分へのプレゼントだったんです。
妹の名前で実家へ送られるように自筆で申込書を書きました。
そして昨日、「あの子が残したウイスキーがあと2年で飲めるようだから、みんな元気でまた集まろうね」と話しがありました。


毎年いろんな人がお参りに来てくれます。亡くなってみてその人の偉大さがわかるものなんだと思いました。
それでは遅いんですが。


人は独りよがりで不満をもって、被害妄想だったりいろんな人がいるけれどそんな人生の使い方に価値があるのかあらためて思います。
明日、急に自分が死んでしまうことになっても自分は安らかに眠れるのだろうか。
自分の欲を果たすことと幸せになることは違うねと そんなこと思いました。
誰かが亡くなったり、痛い思いをしたり、そんなことがないと気がつかないのかもしれませんが できればそんなことがなくてもあと少し自分を大事にできる人生を送れたらいいのにとか まじまじと考えた一日でした。
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きよちゃん

2009-09-19 | 私の愛する仲間たち
小学校からの友達から電話があって来月会いましょうという話になり、ちょっとうれしい感じです。

きよちゃんは私が学校を転校して最初の友達で、今は大阪にいるんでめったに会うことがありません。というかたぶん10年ぶりかも。

お互い母になり、彼女も大阪で一人子供を育てています。

子供を持ってからの私たちは それまでよりもっと連絡を取らなくなってしまって年賀状のつきあいになっていました。

私はいつも「大阪で辛くなったら私のところへ帰っておいで。」と言っていました。

彼女には実家がありません。

彼女が帰ってくるところになろうという気持ちがあります。

きよちゃんは「そうだね。そのときはそうするかも」と笑います。

きよちゃんはとても優しくておとなしい人で、とても家族に苦労させられた人だったんですが母になって強くなりました。

子供ができると言うことは30年も40年も生きていて、もしかすると一生かかってわかることを一瞬で理解できるようになる。

そんな人としての進化をすると思います。

私は子供いるからわかることという事柄が山のようにあって、それまでの私を反省させるし、人の痛みがわかるようになったり、まわりのことに真剣になったりする気持ちが強くなったりと子供が私に与える影響は本当に大きいものです。

きよちゃんは、いつも私が守らなければならないような子供でした。
それが今では二人の子供を抱えてちゃんと生き抜いています。

きよちゃんが何年かかっても強くなれなかったことを、彼女の子供がいっぱつで変えたんですよね。

私はうれしくなります。

愛を注ぐ命があるということが こんなにも人を変えるんですよね。
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ソテツ

2009-09-17 | 私の愛する仲間たち
師匠にソテツをいっぱいもらったらありすぎて植えるところがないと話すと、「そんなにたくさんどうするんだよ。実も食べられないのに。葉っぱだった痛いんだろ。何がいいんだっけ?」といわれて「南の植物が好きなのよ」と答えた
そのせいなのか どこでどうゆがんだのか「おまえ食虫植物好きだよな」と聞かれた。

そんなことは一度も言ったことがない。むしろ嫌いだ。
多肉植物はかわいいけど・・・

師匠に「ソテツは虫を捕ったりしないよ」というと「ああ。そうだっけ」と言った。
あほか・・・・

今、家はプチ南国。

自分のうちに帰るのが楽しみな感じだ。

ソテツのおかげで。でも多すぎる・・・・

もっと南国な感じにしてやりたいな。
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