ちびたの日常

のんびり息子と猫たち&イギリス人ハニスケと

更年期ではなく変声期

2008-01-30 | 体のこと
冷凍庫より寒い日の薄着がたたってまんまと風邪を引いてしまった。
みるみる声がかれて、ただいま20%程度まで声量が落ち込んだ。
日頃の行いが悪いせいかまわりには「酒焼けか?」と聞かれるしまつ。でもそっと机の上にのど飴と栄養ドリンクが置いてあった。それからホッカイロも。
やさしい人ばっかりで「面倒かけてすいません」と頭が下がる。
早く復活しなければ!!
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ライブ見学行ってきます。

2008-01-27 | バンド活動など
ひさびさのライブ見学です。なんとおばさんバンド!推定平均年齢50歳。
おとといチケットをもらったので急遽行くことになりました。
ギターを弾くのか!!ドラムを叩くのか!!もう興奮します!
ジャンルはジャズのようです。
嬉しいくなるバンドです。
この都城の田舎でこんな面白い人間がいるのかと思うとこの町の住人で良かったとすら思えてきます。
おばちゃんは、みんなで6人。子供のPTAの集まりからできたようで、それがまたありがちで面白い。とりあえずNHKのローカルコーナーにでも取り上げられないかな。
もう子供たちは大きくなったけど6人は仲良しで、これからも頑張るんだといってました。
「あんたは招待客だから着物で来なさいよ」と私は何者だ!的な扱いをされているけれど日頃は普通のおばさんで、私が「さみー」と小さく歩いていると「走らんかぁ」と大笑いしながら叫んでいる人です。
最近では旦那さんが大物を釣り上げたとかで、二人いっしょに庭ででかい鯛をさばいていました。
そんなごく普通のおばちゃんは、ある瞬間からミュージシャンになるんです。
こんなおもしろおばちゃんがいるだろうか。
「回覧板見たかぁ。次のゴミの日書いてるぞ」などといってるおばちゃんはステップを踏みながらキーボードを弾くんです。
もうすげぇ!と にやけずにはいられません。下手だろうがメタボリックだろうがかまいません。
バンドでジャズをやろうとする気合いがうさんくさくてかっこいい。
私の母親だったらいいのに。私も仲間に入りたいなあ。
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私は知ってるよ。

2008-01-24 | 私の愛する仲間たち
私が高校のころバイトしていた大型のディスカウントショップにとても優しいおばさんがいました。
そのディスカウントショップはその頃一番安いので毎日人がたくさん来て、授業員もたくさん働いていました。
安さのせいでもあるのですが安いこと意外に何の取り柄もない店で、従業員の教育の悪さと来たらバイトの私が恥ずかしいくらいでした。
思いやりだの真心だの全く無縁で、お客さんも事務的に割り切っている雰囲気でした。
あるときその優しいおばさんがパートで入ることになり、挨拶に来られました。
私は仕事中で、あまりその時は話さなかったのですが もの静かですこしおどおどしているような印象でした。
毎日休憩室で会うのですが 私たちの話しに混ざることもなく静かに笑っている人でした。
私は人見知りするタイプではなかったので、そのおばさんに自分の家族のことや学校のことをよく話しました。
あるときおばさんがレジ打ちをしていたとき、荷物がたくさんになって持つことがやっとのおばあさんがいました。
おばさんはレジを離れてしまい、そのおばあさんの荷物を一緒にもって車の荷台へ積んであげました。
そのとき隣のレジのバイトの人が「どこにいったんだ!」とどなりました。
私が代わりにレジに入って次のお客さんをしているとおばさんが帰って来て「ありがとうね」とまた代わりました。
それを見ていた別の店員が二人がかりで「客にあそこまでする必要はないんだ!」とおばさんに怒りました。お客さんがたくさん見ている目の前で。
おばさんは小さく「すみません」と言いました。
お客さんはみんな顔を見合わせていました。そんなあり得ない発言に耳を疑うでしょう。
私は休憩のとき「おばさん悪くないのに。なんで謝ったの?」というと「いいんです」と言いました。争いごとが嫌いなんでしょう。
その後もその店の傲慢さは自然と評判になり、私はまわりに「あなたがバイトしてるところって客に対して最悪よね」と言われるようになり、私も自分から「安物が欲しいんじゃないならうちに来ちゃダメよ」と言うようになりました。
バイト代もためて自動車教習所に通い、忙しくなった私は辞めることにしておばさんに「勉強しなきゃいけないから辞めるよ」と言うと「自動車学校のお金も自分で都合して大変だったのに今度は勉強で忙しいんだね。がんばるんだよ」と言ってくれました。
私が辞める日、自転車置き場まで追いかけて来たおばさんは「夜食に食べて。勉強頑張ってね」と言って私にお徳用のパイの実のお菓子とポンジュースを渡しながら とっても腰が低いお辞儀を何回もして帰って行きました。
その後一度だけ町で子供と歩いているところを見かけたのですが、私が運転していて一瞬だったので声をかけることができませんでした。
地味でもの静かだけど人のために一生懸命になれる強いおばさんだと思いました。
あの評判の悪い店で、子供ほど年が離れたバイトの人にねちねちと言われてもはいはいと言う通りにしていたおばさんだったけど 私は誰より親切で、人のために親身になれる人だと思いながら見ていました。
あのおばさんはきっと誰かに褒めてもらおうとか、自分は立派だとか考えていなかったでしょう。普通のことをしているという感覚だったのではないかと思います。
あれから17年経っていますが、私はあのおばさんに会ってみたい。
また会えたらおばさんからもらったポンジュースのお礼をしたい。
おばさんがいい人だってちゃんと私見てたよって言ってあげたい。
だれかに認めてもらおうなんて思ってなかっただろうけど、びっくりするくらい不器用な人で、失敗もたくさんしていたけれどそれでも家族のために一生懸命生きていたあのおばさんに親切にしてくれてありがとうと言いたい。
それでおばさんが たまに温かい気持ちになれるならいいのにと思う。
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参観日

2008-01-17 | 子育て日記
今日は子供の参観日で昼から休んで見に行った。まだ一年生なのであくびが出るような授業だったがときどき「僕を見て」的な顔で振り返る子供に必死であくびをしないようにしていた。
ところで息子の担任は そりゃあまあ今まで見たことがないサイボーグのような先生だ。無意味な会話はしない。連絡事項は一方的。嬉しいことも悲しいことも話したって無反応。ニコリともしなければあれでなぜ嫁の貰い手があったのかと不思議になるほどだ。
初めて学校に通い始めた頃、私も子供も何もわからなかったし 学校での様子が知りたくて毎日の連絡ノートを楽しみにしていた。でも家での話しなど何度書いても「良かったですね。」これしかない。
学校の様子は全く書いてくれない。1学期に一度「あゆみ」に書いているだけ。
そのうちこちらも期待しないようになった。
自分のノルマさえこなせばいいという人なんだ。何でいきなりこんなへんてこな先生にあたってしまったんだ。と思いつつまわりのお母さんたちも「あの先生全く響かない人ですよね」と言っているのを聞き「なんだみんなにそうなんだ」とますます思いっきり期待しなくなった。
そんな先生の評判を知っているのか、教頭先生がものすごく面倒見がよく 病気の時も心配して向こうから声をかけて来た。
正直 担任とは違い全校生徒を相手にしているのだから、一人一人の病気のことなど理解していることにびっくりした。
サイボーグ先生の態度が嫌で思わず子供に「あの先生ってほんと笑いもしないよね。」と言ってしまったことがある。
すると息子は「そんなこといわんで。元気がなくなってくるわ」と言った。
もしかして気をもんでいるのは子供たちも同じか?と思うとまたまたムカつく。
私が子供の頃の先生は、ほんとに情熱的で面倒見がいい人が多かった。
今の先生は、宿題の丸付けすら自分たちではしない。親にしてくれというのにどのへんが大変なんだ。
昔みたいに1クラス40人ではない。たった19人だ。それでも勉強を教えるのは大変だとあれやこれやと親が手伝わなくてはならない。
私のように母子家庭で自分が働き手でも、行事はいつでも平日だから休んで行く。
手伝いだって休んで行く。
先生は給料が出ても私は給料から引かれるんだ。
そこまでして協力しているのに連絡ノートくらいまともに書いても良くないか?
息子の顔にアザができていたことがあった。
理由を聞くと図書館で滑って転んだらしく、先生の目の前だったようだが保健室に行くわけでもなく、冷やすわけでもなく 泣いているのをあやされただけだったようで、目のすぐ下が膨らんで帰って来た。
2日目、待っても連絡もなく、連絡ノートに何も書いてないのを見て 頭にきた私はどうして教えてくれないんだと抗議した。
すると「図書館で滑ったようでした」と他人事のようにノートに書いてあっただけだった。
あれから私はサイボーグ先生と口をきいてない。
私は短気だし、学校に乗り込みそうになるので先生と関わらないようにしている。
親の無関心というのも問題だが、この先生のように関わらない主義の先生もいる。
学校が親の参加を促す態度で来るせいか、してもらって当たり前と思っているのだろうか。
参観日の度にサイボーグ先生をみて「どうか2年生ではいい先生でありますように」と思う。親は普段学校にいない。要は子供の学校生活が楽しいものであって欲しいのだ。勉強を嫌いにならないで、友達を作り、家で今日の出来事を楽しそうに聞かせて欲しいのだ。
だから見えないところを見ている先生は子供を預けている頼みの綱だ。
先生一人の力で、19人の学校生活が左右されると思うともう少しニコッとくらいして欲しい。
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ばあちゃん物語

2008-01-16 | ばあちゃんの話
大阪へ行った二人はそこで暮らし始めました。じいちゃんは床屋の修行を始め一生懸命働き、ばあちゃんの里親がいる都城へ引っ越してきました。
都城大丸の近くに小さな店を構え、ばあちゃんは女の子を産みました。
その後も続けて二人 女の子を産みました。
そして戦争中に、臨時の学校のように使われていた旅館が3等分にされ、切り売りされることを知って ちょうど近所だったこともあり ござ屋さんとじいちゃんと宿屋の女将と三件でならんで買いました。
そして待望の長男が誕生しました。
じいちゃんの床屋は大盛況で、耳の中の産毛まで剃ってくれると高い技術を褒められました。従業員はどんどん増えて住み込みで働くようになり、家族を入れると10人以上の大人数でした。
その後、ばあちゃんはもう一人女の子を産みました。
子供は5人になったのに大きな問題が解決していませんでした。
じいちゃんとばあちゃんは結婚していなかったのです。
じいちゃんの我慢は限界でした。
「5人も子供がいるというのに、結婚を許してくれないなんてあんまりだ!」
二人は島のひいばあちゃんのところへもう一度お願いに行きました。
「そんなに言うなら、その人の戸籍を取ってきちんとどんな家の人間なのか見せなさい」
というひいばあちゃんの言葉に 今度は戸籍謄本を取ってじいちゃんは乗り込みました。ばあちゃんにとって里子に出され、養子縁組した痕跡が残る戸籍謄本を見せろなんて屈辱だったでしょう。しかしひいばあちゃんはそれを見て「士族!士族の家系じゃないの。ならば仕方ないでしょう。」
あっさりとわかってくれたのです。ただ士族と書いてあっただけで。
そんな時代の人だったんですね。それにばあちゃんの実の母親は姫と呼ばれる身分だったようで西郷家の末裔らしく、旧姓を「西郷」といい、私は幼い頃になぜひいばあちゃんの家には西郷隆盛の絵が飾られているのだろうと思っていました。
そんな家の血を引くばあちゃんを自慢に思ってくれたのでした。
それから島のひいじいちゃんが亡くなってしまい、ひいばあちゃんはひとりぼっちになってしまいました。
あんなに結婚を反対した姑をばあちゃんは「ここで一緒に暮らしましょう」と宮崎へ呼んだのです。
しかし当時、島から一歩も出たことがなかったひいばあちゃんは 宮崎へ来て物珍しい風景から外国へ来たような気分だったようです。
とにかく寒い。都城はもっと寒い。
ある朝起きてびっくりしました。あわてて嫁のばあちゃんを叩き起こし、「ちょっとあんた!庭で漬け物でもつけているのかい!なんでこんなに塩を撒いているんだい!」と大騒ぎでした。
それもそのはず まだテレビのない時代。南の島で育ったひいばあちゃんが生まれて初めて見た「霜」だったのです。つづく
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