ちびたの日常

のんびり息子と猫たち&イギリス人ハニスケと

母の心はみんな同じ

2014-06-20 | いきのも日記

13日の金曜日。

用事を済ませて家へ帰るとテーブルの下で黒い子猫が死んでいました。

びっしょりと濡れた体で、母猫のルーナと他の子ども達みんなでその黒猫の体を舐めていました。

みんなで必死になって介抱していました。

「なんで?どうして死んでるの?ルーナ。どうしたの?」と母猫にいいました。

ルーナは私の目を真っ直ぐ見て叫ぶように「にゃあ!!!!!」っと声を上げて、それが私には「動かないのよ!動かないの!!!!」と言っているように伝わりました。

たぶん、お風呂場の残り湯に落ちたのかもしれません。入り口には引きずったようなあとがあり、たぶん母猫が助けてテーブルの下でみんなで介抱していたのだと思います。 

体を触ると少し死後硬直が始まりかけていました。

それでも私は背中をさすったり叩いたりしてみました。

ビクともしないことで私がさするのをやめるとルーナはまた私の顔を見て叫びます。
「どうしてやめちゃうのよ!」

ルーナは自分で子供の首根っこをくわえ、大きく左右に振ります。

人間が手で揺するのと同じようにルーナにはそれしか方法がないのです。シッポを引っ張ったり肉球を舐めたりします。

「ねえ起きて。どうして目をさまさないのよ。」とルーナの心が伝わってきます。

タオルに包んで段ボールに入れました。

でもルーナは覗きません。その子猫が横たわっていた濡れた床に座り込んで振り向きもしません。

認めないのです。死んでいるかもしれないけどそんなの認めたくないんです。 

桜の線香を焚きました。でもルーナは来ません。

その光景はずっと前亡くなったルーナの姉妹ティーダが亡くなったときを思い出させるものでした。

ルーナはたぶん思い出したのでしょう。死んだと認めたくないのかお別れなんてするもんかとこちらへ来ません。

最後の夜はみんなでいっしょに同じ部屋で過ごしました。

そしてとうとうルーナは箱のそばへやって来ました。

閉まっているフタをこじ開けようと、歯でかじり始めました。

「やめなさいルーナ!」というとルーナは大声で鳴いて箱の上に乗ってうずくまり「いや!ここに私の子供がいるじゃない!!」と 怒りました。

ルーナが最後まで一度も見ないのはいかんという気がして、箱を開けて亡くなった子供を見せました。それでルーナが理解するかと思いました。

でもティーダの時のようには行きませんでした。

私の目を盗んでルーナは死んだ子猫を箱から引きずり出し、 またクビをくわえて左右に振ります。顔や体を舐めて体をあっちこっちにひっくり返します。

「ねえ、起きなさい!!」その諦めない母猫ルーナはまるで取り憑かれたようで 私はそんなルーナを必死で抱きしめて止めました。

「ルーナ!ルーナ!わかったから。もうわかった・・・」私は大声で泣きました。

子供を亡くしたルーナの心がわかるから大声で泣かずにはいられませんでした。

ルーナは私を見て鳴きもせず、ただ腕にしがみついていました。 

「ルーナ。もう動かないのよ。この子はもう動けないの・・・」という私に今度は何度も体ごと体当たりをするようにすり寄ってもう子供を揺さぶろうとはしませんでした。

耐えられないのです。どうしてそんな場面にルーナは出くわしてしまったんでしょう。

目の前で自分の子供が亡くなるところを見てしまったから、普通にもらわれていくときの何百倍も苦しんでいたんです。

ルーナは箱の蓋を黙って閉めさせてくれました。そして箱の角に体をこすりつけて鳴いていました。 

火葬に出す朝、息子と私とで花を入れてルーナ分も入れました。天国弁当を入れてました。
その子は生まれてたった2ヶ月にも満たない命だったけど 生まれてきてくれてありがとうとお別れをいってきました。

家に帰るとルーナは静かに私に「あの子は?」と合図をしてきました。

私は何も言いませんでした。


その夜、ルーナは子猫が入っていた箱が置かれた場所に残るわずかな我が子の匂いを感じて、その床の上で丸くなって眠りました。 

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喜劇と言った人

2014-06-10 | 自己啓発日記

ベートーベンが自分の死に際「喜劇は終わった」と言ったときいた。

一休さんは「死にとうない」と言ったときいた。

 

私はベートーベンに近い。

 

死にたくないと思った時期は小学生くらいに終わった。

社会の授業でよその国の貧困さをしってこの国に生まれて本当に奇跡だと思ったものだった。

 

ばあちゃんが亡くなったあたりでは感覚が変わっていて、法律上の死刑宣告なんてMAXで重い罰だと言えるのか?と考えるようになっていたくらい生きることの重さと命の重さの境界線が分からなくなっていた。

「死ぬようなこと」がいったいどんな苦しみだと解釈したらいいのか分からなかった。

生まれた頃から何度か命拾いをしている。

だから死ぬようなことがわからなくても、人の犠牲の上に成り立った人生を無駄にするのは犠牲になった人は何だったんだということじゃないかと思っていたことで死が怖いということはあまり感じなくても「役目がある」という感覚で過ごしている。

 

頭が狂いそう、死んでやるというやつは心の底からアホだと思っている。そんなことで騙される程私はのんきに生きていない。

 

昔、いとこがそんなことを電話で言ってきて「狂いそうなら狂ってないんでしょ。死んでやるって私にいっても相手しないよ。何の八つ当たり?」というと沈黙になった。

 

人間、真剣に辛いことがあると狂った方が楽だと思うくらい悲しい程しっかりしてしまうものだ。

 

ほっといてもそのうち迎えが来る。自分から飛び込まなくても向こうからやってくる。

 

それを口に出すのなんて八つ当たりだ。

 

思えばいろんなことがあった。確かに私の人生は喜劇の真っ最中だ。

 

そんなアホな・・・な登場人物だらけだ。

 

自分もそうなんだろうけど、本当にコントのような人生だ。

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