お茶屋の販売の仕事をしていると、実にさまざまなお客様に出会います。
最近、よく話していかれる方は、60代半ばくらいの女性で、若いころからずっと茶道を習って来たという、お茶には詳しいかたです。
いつも麦茶のティーバッグを買っていかれるのですが、最近は、抹茶の高いのも取り寄せられるということを知って、注文して行かれます。
そのついでに、抹茶や煎茶などに関する知識を語って行かれるんですね。
ほんとうに一生懸命、お茶の道を究めようとされているんだなあと私が感じるのは、決して、私に対して茶道の先生並みの知識を要求しないんですね。
一介の販売員が、茶道の先生並みの知識を、習わないで得ることなど出来ません。
販売に必要な知識だけで十分で、あとは自分で勉強していくだけです。
お店の商品として、煎茶、抹茶、急須や抹茶碗や茶筅などの茶器、海苔も何種類もあり、一つ一つの商品知識に加え、煎茶の淹れ方も抹茶の淹れ方も違いますし、急須によっても煎茶の味が違ってきますので、それらの知識を究めようとすればキリがありません。
それを十分、理解していらっしゃる。
ここへ来て幾らも経たない頃、まだ抹茶の知識が足りなくて、習ったこともありませんでしたので、70代くらいのお客様に怒鳴られたことがあります。
茶筅で何回回せば抹茶が溶けるのかという問いに、何回という明確な数が出せなかったのですね。
茶筅は回すのではなくて、川の字を書くように動かすことも、その時は知らなかったので、答えられずにいると、
「全然説得力が無いんだよ!」
って、何回も怒鳴られ、お説教をされたことがあります。
でも、その方は、私に言うほど、自身で何かを究められたことはないんだなあと感じました。
それに比べると、先に言いました、茶道をずっと習ってこられたお客様は、見えている世界が違うと感じます。
そして、人に対して厳しいのではなく、優しいのです。
この前、ちょっと、身の上話をされました。
何年か前まで、母親を最後まで介護していて、看取ったそうなのです。
それは大変でしたねえ、と言うと、でも、茶道は週一で習うのを止めなかったので、何とかやってこれたといいます。
ただ、妹さんには、「習い事はやめて、母のことだけ看ていてほしかった」って言われたそうなのです。
私は黙って聞くしかありませんでしたが、そのお客様は、もし、自分が習い事を止めて母親のことをつきっきりで看護することになっていたら、母親を手にかけていたかもしれない・・・と、言われました。
習い事は救いだったし、お茶があったから、母親を最期まで看取ることが出来たって。
そうだろうと私も思いました。
今は、一人暮らしをされているようなのですが、とても生き生きとされています。
その妹さんも、まさか少しは介護されたでしょうけれど、私の感覚ではそんなに看てはいなかったのかな、と言う感じです。
だって、そうじゃなきゃ、実の姉に、介護だけしていろと言わんばかりの言葉は掛けられないはずです。
それだけ、実の親とはいえ、介護は大変な作業です。
私も、子どもべったりではなくて、自分の人生も生きなければならないと思っています。
嫌でも子どもはいずれ巣立って行くでしょうから、その後の自分が何も無い空っぽの人生にはなりたくないし、現在の状況でも、自分の趣味は続けていくつもりです。
逆に、それがあるから、子どもたちがどれだけ脱線しようと、深刻にならずに済んでいます。
人様に迷惑をかけてしまうのはまた別ですけど、不登校くらいでは揺るがないのです。
それに、私に似て、長女も次女も絵が好きなので、共通の趣味になっていますし、コミュニケーションツールでもあるのです。
最大限にこれを生かして、次女の不登校も解決出来ないかなあと、画策しているところです。