賢太郎の物書き修行

IT系と政治関連の事件を中心にコラム風に書いています。趣味は舞台、だけど最近は殆ど観てないな~。

証拠

2008-06-30 07:40:27 | モブログ
「旅の恥はかき捨て」という。イタリアの世界遺産の大聖堂で発見された落書きはこの風俗の根深さを教えられる。落書きの1割程度が日本語なのだそうだ。イタリア語、英語の注意書きがあるということなので、国内外問わず落書きは後を絶たないらしい。
落書きは「記念」ということなのだろうか。記念で何百年にも渡って先人たちが守ってきたものを傷つけられてはたまらないだろう。自分たちが来た証しを残したいという気持ちは分からなくはない。だが、単に来たことが昔ほど大偉業でもないのに誇らしげに証拠を残すというのは分からない。
宗教施設なのでカップルには愛の証しを残すという気持ちもあるかもしれない。ならば、ミサに参加して献金するなど、他の方法もあろう。
10年以上前にアンコールワットなどの落書きが問題になったことがある。そう簡単に習慣は変わらないということだが、また10年後に同じ様なニュースが流れない様にしたいものだ。

ファシリタティブな日々

2008-06-26 23:10:39 | モブログ
ファシリタティブな日々である。

ファシリテータになるのは自然な流れで、その理由の一つは僕が新参者であるということだ。新参者なので過去のいきさつを気にせず「確認」することが出来る。停滞する会議の実に80%は過去のいきさつに対する“見解”や“愚痴”だ。しかし、発言の前提となる“いきさつ”を話さずに言うものだから、他の人にとって唐突になってしまう。そこで聞くと「お前だって知っているだろう」と脱線。だけど僕はその前提がないからいくらでも遠慮なく聞ける。
二つ目は僕には多様な経験があるということ。ベタベタの現場の話から雲を掴む様なビジネスチャンスの話まで理解出来る。その事がメンバーに対する理解に役立っているし、議論を整理するのにも役立っている。
もう一つは僕は議論のただ中で気分を変えることが出来る。議論をしているて「最初に言えよ」という場面がある。それはお互いに思い込みがあったり期待があるときだ。だけど、そういう期待は必ずしも報われれとは限らない。期待を悪い意味で裏切る結果に一々目くじらをたてるものではないだろう。人間は互いに誤解をするというのは僕の考え方のベースだ。だから勘違いがあっても腹はたたない。そのことを指摘してお互いに学習する機会なのだと思う。

だが、、、今の自分の行動がファシリタティブだとは思っていない。僕はファシリテータとしては気が短すぎる。独断的に事を進めすぎる。その点が欠点なのだと思う。

“死に神”はマズかろう

2008-06-20 18:51:54 | モブログ
朝日新聞のコラム“素粒子”で死刑執行のサインを「後藤田法務相が死刑執行を復活して以来」一番した鳩山法務相を“死に神”と呼んだのだそうだ。

このコラムの筆者は死に神という言葉で何を言わんとしたのだろうか?「死の執行者」という意味であれば、死刑囚に対してはそうかもしれない。ただ、死に神というと「死を待つ者」「死を望む者」「死に誘う者」という意味がある。喜々として人を死に落とし入れる禍々しい神のイメージだ。

コラムの筆者は鳩山法務相が歴代の法務相より死刑執行に積極的なことを指弾したかったのだろう。その積極姿勢を死に神に擬したのだと思う。でも、鳩山法務相は法律通りに執行しているだけ。他の法務相が恣意的に法を曲げてきたのだろう。「決まりを守らなかった者」より「決まりを守った者」をただ批判するのはバランスを欠く。少なくともコラム子は鳩山法務相の遵法への努力は認めるべきだと思う。そして、自分の立場を「死刑反対者」だと明らかにした上で、「死刑賛成者」と思われる鳩山法務相の“意見”に異を唱えるべきだったろう。

人の主義主張を批判するに、相手にレッテルを貼って貶めるのはジャーナリストの立場ではない。

change

2008-06-18 19:35:47 | モブログ
オバマ米大統領候補のキャンペーンで使われ、キムタク主演の月9のタイトルにもなっている。
21世紀最初の10年間を後世の人たちはどう評価するだろうか。

インフルエンザの感染シミュレーション

2008-06-18 19:30:00 | モブログ
日経新聞 6月18日 朝刊一面
「新型インフルエンザ2週間で感染36万人」

抗体持つ人がいない新型インフルエンザの感染をシミュレーションすると2週間で36万人が感染するという結果になるのだとか。こういうシミュレーションは「良いものは大袈裟に」「悪いものは控え目に」なるものだから、実際はもっと感染は大きくなるのではなかろうか。
小松左京は小説「最後の日」で新型インフルエンザが世界にあっという間に広がる可能性を描いた。今回のシミュレーションでも考慮されているように、現代の人間は非常に高速に遠い場所まで移動する。今よりも交通事情が悪い時代にスペイン風邪などヨーロッパ全体を揺るがすインフルエンザ大流行があったことを思うと今回のシミュレーションは控え目な気がする。最小の感染拡大がこの程度だったと思った方が良いだろう。
政府や自治体はこのシミュレーションをたたき台に感染拡大防止策を評価するらしいが、控え目なシミュレーションによって検証が甘くならないことを望む。

宮崎勤 死刑執行

2008-06-17 19:04:43 | モブログ
記事を読んで、あれから20年も経ったのかと思った。

当時僕は大学生。「オタク」という言葉が一気に広まり、偏った意見が許された。マスコミは「時代」を批判したが、正面から犯罪者を捉えようとしない弱腰を隠すためだったのではないかと思う。

宮崎勤は再審請求や恩赦を望んでいたそうだ。朝日新聞のサイトがあるジャーナリストの「宮崎勤は自分の犯罪と死刑を結び付けられていなかったのではないか。犯罪者が理解出来ないままに死刑が執行されて、罪を償うという刑罰本来の機能が不全になっている」という意見を取り上げていた。実に朝日新聞らしい記事だ。
死刑を回避しようと再審請求や恩赦の準備をしてたというのだから彼は自分の犯罪と死刑の関係を理解していたのだろう。面会したジャーナリストの目には彼がぼーっとして精神が変調をきたしているかのようにうつったらしい。ただ、20年だ。普通に社会生活を営んでいる人と比べれば、変なところはあるのだろう。
だからといって、判断能力は落ちてはいなかったようだ。彼は自分が死刑になることをちゃんと理解していたように思う。ただ、反省をしてたかといえば分からない。これは永遠に分からないだろう。人の心は見えないから。だから、償いの形として従容と刑に服さないといけないのだと思う。
死刑の確定から執行までが二年と短いことが伝えられている。だが、被害者の家族は20年待ったのだ。遺族は事件当時の土地から転居しているのだとか。何もなければ幸せに刻まれた家族の20年を思えば、遅すぎたと思う。

テニスサークル

2008-06-17 18:01:31 | モブログ
会社の近くにテニスコートがある公園がある。使用料が安いらしく、どこかの大学のテニスサークルが良く練習をやっているらしい。男女が半々くらいで毎日の様に駅の近くで待ち合わせして公園に向かっている。
最近は練習の前後でちゃんと着替えるらしく、ジャージ姿はほとんどいない。女の子は例外なくスカートにラケットをぶら下げている。
時々乗り合わせるのだが、彼女/彼らがテニスの話題をすることはない。サークルが男女のコミュニケーションツールとなっているというところだろうか。

しかし、ワンピースやスカートにラケットってアンバランスに思うのは年をとったということなのだろう。

副都心線

2008-06-17 08:11:12 | モブログ
開業した東京の地下鉄の経済効果は新宿にしか現れていないらしい。もっと言えば伊勢丹だけ。駅の真上に建つ伊勢丹。今までは交通事情で池袋や渋谷、新宿でもJR周辺止まりだった人の流れが変わるのだろうか。

ここ1ヶ月くらいが勝負だが、新宿も伊勢丹だけが頑張っても仕方ない。今や街の魅力はその街の総合力なので、会社や業界を越えた街作りがどれだけ出来るか?だと思う。

大変だから価値がある

2008-06-13 23:39:15 | モブログ
今日は客先で10時まで打ち合わせだった。なかなか…いや、かなり難しい案件だ。始めのうちは収支もそれほどは出ないだろう。
だけど…、難しいからこそビジネスになり、大変だからこそ価値があるのだと思う。チャレンジ!

魔の15年

2008-06-12 21:16:16 | モブログ
知り合いの日記で大前研一の著書で「大企業のサラリーマンは30を社内政治に浪費している。それを『魔の15年』と呼んでいる」という趣旨のことが書かれていると紹介されていた。大企業でも、中小企業でもあまり変わらない。3人集まれば主流、反主流、中道の派閥が出来る。笑い話のようだがそんなものだ。
その点では僕は幸せな30代を過ごしているのかもしれない。27から37までに3回転職をした。望んでのこともあれば、致し方なくというものもあった。だが、それぞれの職場で社内政治に巻き込まれつつも跳ね飛ばしながら活躍出来たと思う。
家族には心配をかけた。でも、いつも最良の選択が出来たとは思わないが、悪くない経験はできたと思う。その経験を経て思うのは、状況を変えるのは常に自分だということだ。