賢太郎の物書き修行

IT系と政治関連の事件を中心にコラム風に書いています。趣味は舞台、だけど最近は殆ど観てないな~。

成長のために本当の意味で「IT化」をしよう

2011-06-27 20:39:44 | モブログ
システム開発の目的には様々なものがある。コスト削減、利便性改善、新事業立ち上げ。エトセトラ…。
コスト削減は最も一般的な目的。システムは大抵の場合は限界費用が一番安い。なので、ビジネスプロセスの一部をシステムに置き換えると大きなコストダウンが見込める。ただし、なんでもシステムにすれば良いというものでもない。
システムにしてはいけないものは競争力の源泉になっているものだ。デザインが競争力の源泉であるアパレル企業がデザインをシステム化してはいけない。逆に、ありふれたデザインを安く提供するのが競争力の源泉であれば、デザインを思い切ってシステム化してしまえば良い。
システムによって利便性が増すときもある。システム導入で最後の障害は「使い辛い」という意見である。だが、これは慣れれば大した問題ではなくなる。基本的にシステムは反復作業の効率化など、圧倒的に使い易くなるものだ。
競争力の源泉はシステム化してはいけないと言ったが、システム化することで競争力の源泉になる場合もある。また、かつての競争力の源泉が、逆に重荷になっている場合はシステム化によって競争力を増すことも出来る。システムによって新しいビジネスモデルや利益モデルが出来ることもあるのだ。

だが、残念なことにシステムがこれらの目的を果たせないことは多い。というのは未だにシステムは「システム馬鹿」によって開発されていて、ビジネスとの統合が出来てないからだ。システム部門や開発会社の人材に、ビジネスプロセスとシステムの統合を再教育すれば、企業のバックオフィスやミドルオフィスを中心とした生産性の改善はまだまだ出来る。

原罪を認める真摯さ

2011-06-25 21:30:25 | モブログ
スタジオジブリが「原発抜きの電気で映画が作りたい」という垂れ幕を掲げているらしい。文明の抜きがたい原罪を見つめてきた宮崎監督らしい思いつきだ。この思いつきを実現するのは実は簡単で、自家発電やガス発電を導入すれば良い。コストは高いが、ジブリなら出来そうだ。

原発ゼロの施設運営はそれを売りにすることが出来る。作品の売れ行きにも良い効果をもたらすだろう。しかし、宮崎作品を見ると「脱原発」に繋がる「自然との共生」というものに宮崎監督自身はあまり幻想を抱いてない気がする。クシャナであれ、エボシ御前であれ、文明を代表する人物が最後は文明の原罪を意識しながら社会を良導していく。

文明社会は“自然”とか“原始”に対してどうあっても一定の悪影響を及ぼす。採集・狩猟をベースにした原始社会であっても資源を食い散らかす。自然と調和している様に見えるのは人口の少なさ故にその影響が復元されてしまうからだ。

しかし、人間が種としての繁栄を求めるのであれば、人口の増加は避けられないし、その手段としての開墾という自然破壊は当たり前だ。それを原罪と認識し、受け入れた上で実りある社会を生み出すのが私たちの使命ではなかろうか。エネルギーを動力に変換する行為には、なにがしかの廃棄物質は発生する。だから、その量を如何に少なくするか?という視点が必要だ。“再生可能エネルギー”は自然界に希薄に存在するエネルギーを直接利用する為に自然破壊の規模が大きい。一番影響を小さくする方法は、エネルギーが凝縮したものを利用する場合で、化石燃料はエネルギーが年月をかけて凝縮したものだ。核物質はエネルギーが拡散する前の状態だ。

ならば、原発が最も自然との共生に向いている気がする。もちろん原発だって環境破壊は伴う。生命への影響が不明な放射線も伴う。それは他の発電でも同じなので、何をリスクとして許容するかという決断を誰がするかという問題だ。

全く“クリーン”なエネルギーはない。その原罪と真摯に向き合うべきだと思う。

強いリーダーは不要か?

2011-06-20 21:37:43 | モブログ
大西宏さんの「発送電分離は国民の声でしか実現しない」という記事を読んで、政治に限らず、リーダーというものについて考えさせられた。記事の中で紹介されていた「強いリーダーに期待し、依存するのはもう発想が古い」という伊藤穣一さんの言葉(歴史は菅政権を必要とした、いざ「緑茶革命」へ JBpress(日本ビジネスプレス))について、「なら、リーダー不要の経営」ってどういうものだろうか。池田信夫さんが紹介している様に日本の組織構造が「中間組織による分散自律型」であるのならば、正に日本古来の組織こそが「リーダーを必要としない組織」と言えるのではないだろうか。

リーダー不在でもミドルアップによって経営される組織は“貴族階級”や“官僚”が社会運営を担う。大抵の場合、中間組織は社会全体の構成員のうちホンの一部であり、中間組織同士の協力によって円滑な社会運営が行われる反面、利害対立によって社会を歪ませることもある。また、自らの利益を優先して社会全体の利益を損なうこともある。中間組織を打倒して下層の構成員が政治に関与するのが近世の「革命」であったわけだ。

中間組織の代わりに成立したのが“有期独裁制”である民主主義だ。これは中間組織がない社会で政治的意思決定をどのように行うかということに対する一つの答えだ。すなわち、選挙を通じて構成員が権利をリーダーに委譲するという方法だ。ここには「独裁的な方法以外に社会を効率的に運営する方法がない」ということを示している。

単なる独裁ではなく、構成員の意思による権利の委譲がポイントだろう。リーダー不在とは権利を委譲するに足る人物がいないということだろう。逆に、リーダー不要の組織とは、構成員が権利をことごとに行使するということで、昨今流行りの「住民投票」や「国民投票」がこれである。しかし、これが本当に社会を良い方向に導くだろうか。

政治は本質的に“負担の分配”である。国民や住民に税を負担させて各種の公共サービスを提供する。負担より享受するサービスが大きい場合もあれば、少ない場合もある。この格差を“納得”させることが政治である。

それが全員参加の権利行使となれば、負担は避けられ先送りされる。これがこの二十年の日本の状況ではないか。避け得ない負担の不平等を説得する言葉を含めた強力なリーダーシップで納得させ、或いは強制する力を発揮出来なければ政治的に限らず、意思決定など出来ないのではないだろうか。

日本に必要なのは、失われたリーダーではなく、ここ百年持ち得なかったリーダーを持つということだと思う。

原発の安全基準に対して誰も責任を果たそうとしない

2011-06-15 07:36:07 | モブログ
「浜岡ショック」は思った以上に深刻で、原発立地県の知事が次々に再開に慎重な姿勢を表明している。橋下知事の様に“脱原発”を叫ぶ人もいるが、多くは安全基準が不明確だからというものだ。

曰く「安全だという国の説明を信じて再稼働に応じた後、別の事実が出てきたらどうするのか」(日経新聞14日朝刊3面)

原発を受け入れて地域の更正を保っている以上、その安全基準は自分の責任ではなかろうか。原発によって補助金を得たり安価な電気を得て地域経済を活性化しようとしている以上、そのリスクは折り込むべきだ。リスクを回避するために安全性を高める基準を設け電力会社と協力すべきだろう。
この件に限らないが、責任は取るものではなく果たすものだ。政府や自治体の首長は責任を転嫁するのではなく、エネルギー問題と安全性と経済性のバランスのとれた選択によって責任を果たすべきだと思う。その選択が「原発停止」であるならば、電気料金値あげや節電要請に応じないといけない。
電力会社と経産省や関連企業との癒着によって電力事業が高コストになっている可能性はある。だが、高コストに一番影響を与えているのはなんといっても地域独占となっていることだろう。電気料金の高さを批判するのではなく、高くなる構造を改革しなければいけない。電力自由化を進めることで電気料金を下げることは出来ると思うが、この政策は「特定発電への補助金」とは矛盾する。自由化を諦めて「自然エネルギー発電」を優先するならば、電気料金は高くなる。自然エネルギー発電の経済性が十分であれば、「脱原発」の掛け声がなくとも既に事業化されているはずだ。
そういう条件も含めて総合的な政策判断としての「安全基準」は政治家が意思決定するしかない。自治体の首長は「国」などという曖昧なものに責任を求めたり、いつ代わるかしれない首相に責任を問うたりせずに、自らの責任で安全基準を作って原発を再開させれば良い。
そして政府から地域のエネルギー政策に関わる財源や権限を奪えば良い。民主党は「地方分権」が建前だから、地域の自主的な動きに抵抗は出来ないだろう。近隣自治体や地域住民とコミュニケートして、安全基準をまとめ原発再開に漕ぎ着けることが出来たなら、その首長は大宰相たる器があるのだと思う。とは言え、自治体首長が中央省庁の官僚出身者や人気先行のポピュリストで占められている現状では望むべくもない。

次の首相って言われてもね

2011-06-14 06:48:41 | モブログ
次の首相には誰が相応しいか?っていう特集が論壇系の雑誌やタブロイド紙で盛り上がっている。多分、ネットでも。前原、野田、枝野、野党からも石破って名前が。まぁ、石原って名前まで出てくるところがウケる。

民主党政権になっても自民党政権と同じく役職たらい回しの調整型の人事が続いて見ている人はアレッて思っていたのだろう。そこに小沢・鳩山・菅で主導権争いをして、小泉政権の様に世論を見方につける工作もしないものだから呆れ返ったワケで。そこで次のって言われてもちょっと出てこないだろう。民主党のお歴々は演説を見てても有権者との対話に難があるし、圧倒的な支持を背景に党内を捩じ伏せてってことが出来ない。自民党も似たり寄ったりなんだけど、石破氏はキャラクターが親しみやすいのに論戦に強いのが好感されたのだろう。これで小泉並みの政治力があればと思うがどうだろう。

とは言え、選挙でもない限り次の首相も民主党から選出される。結論としては、次の首相に推したい人はいないということで早く民主党政権が瓦解して選挙しようってこと。

一流の国民も、二流の官僚も、三流の政治家も同じ文化基盤から出現している

2011-06-09 17:45:30 | 政治

一流の国民、二流の官僚、三流の政治家だって…」という記事を読んだ。何故同じ人材プールからこの様な違いが出てくるのかは不思議である。「日本の政治家を尊敬する日が来るために」では政治家の利己的な考えが堕落させるんだと言う。だが、「皇帝のいない国:首相退陣論から振り返る「この国のかたち」」と「菅「押込」の構造」を読んで、一流の国民も、二流の官僚も、三流の政治家も同じ文化基盤から出現しているのだと思った。

皇帝のいない国である日本社会では全てが「合議」で進む。「和を以って尊しとなす」と喝破した聖徳太子は慧眼で、原則よりも法令よりも集団による合意が優先されるわけだ。これは同時に構成員全員が集団運営に関するある程度のレベルまでの関心を持っているということで、これは構成員の教養が十分に高くなければ保証されない。この構成員の教養の高さと一定レベルでの合意形成能力が今般の災害における秩序維持につながったわけである。

合意形成が出来るためには一定の明文化されていないルールがあるわけで、このルールは災害時にも機能したわけだ。しかし、この明文化されないルールは平時でも働いていて、官僚組織においても同様に働く。一般生活と違い、ビジネスであれ行政であれ、構成員には強いインセンティブが働く。自分の属する小集団の利益を守るという。一般生活でもインセンティブは働くが影響が小さいために分からないのだろう。

このインセンティブは合意形成までの時間を長くする効果がある。小集団の代表による合議で出た意見をそれぞれが持ち帰って小集団の合意を得て再度代表どうしでの合議に諮るということを何回も繰り返すからだ。政治家になると、属する小集団が複数になってくるので、複数の小集団個別の合意と小集団間の合意を更に政治家同士ですり合わせるという気の遠くなるような話になってしまう。

自立した小集団による活動はトヨタ・ウェイを生んだし、震災で世界の尊敬を集める自制心ある個人の行動を生んだ。しかし、その卓抜した小集団合意形成能力は、組織が大きくなれば大きくなるほど満足な成果をあげられなくなる。小泉純一郎が改革に手をかけれたのは、組閣に派閥の推進を受け付けなかったり、民間から枢要閣僚を一本釣りするなどの「合意無視」をしたからである。逆に、この様な我の強い国民性であったならば、震災の中で合意を優先しながら秩序正しく行動するなどということも出来なかっただろう。

つまり、「一流の国民も、二流の官僚も、三流の政治家も同じ文化基盤から出現している」のである。


憲法改正論議を!

2011-06-09 12:44:17 | 政治

 

みんなの党の松田公太議員が「憲法を国民の手に」(http://ameblo.jp/koutamatsuda/entry-10915964306.html)という記事を投稿している。「憲法96条改正を目指す議員連盟」の設立総会に参加したというものだ。

 

> この世に完璧なものなどありません。

> 最も重要な原則は遵守しながら、時代にあわせて改善していく必要があるものは改善して行く。当たり前のことだと思います。

 

日本の憲法が制定後一度も改正されたことがないというのは異常である。というのも、今の憲法は実質的に被占領時代にアメリカによって「押し付けられた」ものと理解されているからだ。GHQによる”新”憲法の制定前には多くの政党が憲法改定草案を発表している。自由党や進歩党、共産党に社会党も発表している。面白いことに、社会党の発表した憲法改正草案では天皇が維持されていることだ。

 

これらの憲法改正論議がGHQ統治終了後になぜ再燃しなかったのかは不思議である。時の吉田茂首相が経済復興を優先して憲法改正をさせなかったという話しが真しやかに唱えられているが、憲法改正草案を提出していた左派政党が、GHQ撤退後に「護憲」に走っているのは不思議だ。反米独立を謳いながら、GHQ謹製憲法を守るというのは矛盾しているだろう。

 

結果的に、「護憲」は55年体制と言われた時代の自民党と社会党にとって都合が良いものだったのだろう。自民党にとっては安全保障の最重要関係国としてアメリカを寓する背景として、GHQ時代の憲法を死守して友好を示したものであろう。社会党にとっては、GHQ憲法の「国体弱体化」を狙う条項は都合が良かった。社会党が1946年に発表した改正要綱の3分の2以上は現在の憲法は満たしている。

 

それが長く憲法改正が実現しなかった背景であろう。それに加えて松田議員が紹介している96条の3分の2規定で改正のハードルが高くなっている。この改正を目指すということについては賛成する。賛成するが、この3分の2規定を改正すること自体が3分の2以上の賛成を要するというのは大きな矛盾であろう。

 

憲法改正にあたって、それが何条であろうと改正に反対する議員の数は3分の1以上いるということになる。その3分の1以上は、自分達のアドバンテージを弱める改正に賛成するのは通常であれば考えられない。それが実現するとすれば、この議員連盟側の粘り強い説得-言葉の力-によるしかないだろう。

 


忠誠と盲信の違い

2011-06-08 22:17:20 | モブログ
「君が代」の起立斉唱を教職員に業務命令として強制できるかどうかということについて、大阪の橋下知事が条例を提出したり、最高裁で起立命令が合憲と判断されたりということで、話題になっている。この「君が代」問題は「国旗掲揚」問題と並んで定期的に公立教員業界=日教組を中心に騒動になる。君が代・日の丸への反対については理論の定石があり、

「君が代は帝国時代の国歌であり、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強い」
「日の丸は侵略戦争を起こした軍隊の象徴である」

といった理由だ。

傍論としては、「敗戦国であるドイツが戦後国旗と国歌を変えたのに日本は”反省”がない」というものもある。

これらの主張に対する反論としては

「君が代の”君”とは天皇を特定するものではない」
「日の丸は多少のデザインの変遷はあるが、日本を示す意匠としては伝統があり相応しい」
「第二次大戦を”侵略戦争”ではない」

といったものがある。

こういったことは実はあまり本質ではない。というのも「国旗や国歌というものは当該国や民族の長い歴史の中で有識者や指導者によって恣意的に選定され制定される」ものだからだ。だから、「国民投票によって国歌や国旗を決めよう」といった話はあるが、これは何の正当性もない。そもそも、国民投票によって決めるということは反対者がいるということであり、反対者は決まった国旗や国歌に対する態度はどうするのか?という、ともすれば民族分裂!みたいな話にも発展する。だから、「俺達にも国旗や国歌を決める権利を与えろ」という主張は退けられて当然である。

では、この問題の本質は何か?ということである。これらの議論に通底しているのは、「国家主体に対する忠誠とは何か?」という問題である。国歌・国旗が象徴する主体がそれが天皇という個人であれ、国家という機関であれ、”忠誠”を誓うことに対する抵抗がこの反対には籠められている。だから、国歌や国旗が何であろうと反対は続く。

であれば、彼らはなぜ国家に忠誠を誓うことに反対するのだろうか。「太平洋戦争において無批判に戦争を受け入れたことが多くの犠牲を生んだ」というのは正しい。あの戦争では、誰の意思決定もなく、圧倒的な好戦ムードが戦争に対する批判を封殺した。好戦ムードは日中・日露・第一次の打ち続く戦争に連勝したことで醸成された。

誰の意思にも依らず始まった戦争は結局は国民には止められなかった。その贖罪意識が国家の否定に繋がっているならば、それは間違っている。それは国家に対する忠誠とは違うからだ。

忠誠とは「忠」と「誠」から成る。「忠」は相手に「真心を尽くす」という意味であり、「誠」と同義で最上級の真心を尽くすということだ。この真心を尽くすとは何か?忠の類義語からその真意が分かる。忠の類義語は「孝」である。

親に尽くす様に国家や主君に尽くすというのが忠誠の本当の意味だ。では、何がなんでも親に従うというのが孝行であろうか。中国の思想では忠孝とは「主君に/親に従い、その行為をなぞる」ものとされる。これは度重なる戦乱を抑える方便であったが、それによって中国は戦乱によってしか成長出来ない国として長く停滞した。

「君、君たらずば、臣、臣たらず」という言葉が示すのは、国を想い親を想って諫言することで、或いは既存の考えを覆すことで、より良い成長を遂げることの大切さを示している。これが真心を尽くすということではないだろうか。その意味で無批判に盲従することは不忠であり、不孝なのだと思う。

菅首相の退陣時期に対するドタバタについての所感

2011-06-03 07:55:37 | モブログ
菅首相が“退陣宣言”と引き換えに不信任案否決を手にしたが、会見などで「福島原発の低温安定化などの一定のメド」がついてからの退陣という認識を明らかにしたことで、早くとも秋口、遅ければ来年初頭まで続投する意欲をみせた。鳩山由紀夫などは「約束が違う」と嘆いているだろうし、退陣宣言を聞いて否決に回った賛成派も「騙された」と感じただろう。昨日の昼間の退陣宣言でも「メドをつけてから」とは言っているらしいので菅首相が全く嘘を言っているわけではない。しかし、幾ら退陣宣言をしたからとは言え否決に転じた方も矛盾している。

野党の提出した不信任案に賛成しようとした人たちは「菅首相ではこの難局を乗りきれない」と口々に言っていた。なのに菅首相が「メドをつけて退陣する」と言ったら矛を収めるとは頭が悪い。「難局を乗りきれない」とは「メドをつけられない」ということだ。だから延々と続投することになる。不信任賛成派は菅首相が辞任会見をするまで手綱を緩めるべきではなかったが、善良な鳩山前首相に従ってしまった。

結果的に菅首相に続投のお墨付きを与えてしまった反対派は大量離党でもする以外にやることがなくなった。

こんな時期に不信任なんて非常識な!という意見に対する反論

2011-06-02 20:40:13 | モブログ
自公が提出した内閣不信任案は否決となったが、提出以前から「こんな時期に不信任なんて」とか「被災者のことを考えろ」といった意見が聞かれた。そんな意見には反対だ。

不信任を否定する意見の骨子は

1)一時たりとも遅延させることの出来ない被災者支援の遅れにつながる
2)一時たりとも遅延させることの出来ない福島原発対応に穴が空く

しかし、今までの菅内閣の実績を見てみると、1)被災者支援はNPOに丸投げで補正予算は遅々として進まず、2)福島原発は初動を含めて対応がお粗末で、東電救済ばかりが目立つ。菅内閣が“遅い”だけなら未だしも優先順位が自分勝手で、国民の為になってない。

だから、一時的な停滞があったとしても、能力がないものを替えるというのは正しい。無能なものを替えないのは組織としては不誠実だろう。