令和5年4月11日(火)12時 宮前君自宅にて
裏千家の教授の資格をお持ちの宮前君の奥様に「お茶を一服頂きたい」と県西茶道部OBの川崎君の希望で実現したのですが、
彼と私の想像していた「お茶会」とは全く違うものでした。
お昼ご飯を食べてから行こうか?終わってから食べようか?相談していると軽食が出るとの事。
ところがその「茶懐石」は12時から始まり終わったのが17時。
僕たちの想像を超えていました。
さらに驚いたのはその5時間を全く長く感じなかったことです。
この「まったり」した時間と「緊張」する時間が丁度いいぐあいの感覚で時が過ぎていきます。
右から二人目、 宮前君の奥様です。
*お茶事の流れを説明します。*
お客さんが到着されると待合という準備室で「汲出」を出します。
この日は桜花とあられのお茶。
次にお茶室に入ってお茶事が始まります。
お茶事は初座と後座に別れており、初座では懐石を頂いて主菓子を食べた後、庭に出て休憩の中立。
後座ではお茶室に戻って濃茶、干菓子、薄茶という流れとなっています。
懐石とは、昔禅寺で修行中の僧が暖めた石を懐に入れて空腹を一時しのいだということにちなんでいます。
いきなりお茶を飲むと胃に刺激が強すぎるので、少しお腹に入れておこうということでお茶の前に懐石を食べます。
あくまでもお茶がメインです。
懐石ではまず膳に飯、汁(桜麩に合わせ味噌)、向付(鯛に水前寺海苔)が出されます。
続いて燗鍋と盃が出されてお酒を飲みます。
ご飯と汁のお替りが出て、さらに煮物椀(海老・筍真蒸)が出ます。
焼物は鮭の幽庵焼き、八寸で山のもの(そら豆)と海のもの(ウナギ)が出てお酒を飲み交わします。
小吸は薄味の汁で口直し。
進肴(しいざかな)はコノシロの卯の花和えが出てお酒が進みます。
湯斗と香物(奈良漬・かぶ・きゅうり)が出てお椀をきれいにして懐石が終わります。
主菓子(ういろう)を食べて前半の初座が終わり中立で外に出ます。
しばらく休憩してから路地にしつらえた蹲で口と手を清めます。
お茶室に戻って後座が始まり濃茶、干菓子(長崎カステラ)、薄茶をゆっくりと飲みながら楽しい話などしてお開きとなります。
初座の床にはこの日のお茶席のために選んだ「平常心是道」の扇、後座には椿と花筏が生けてありました。
二次会でビールやコーヒーを飲んで歓談しているうちに5時間ほどが経っていました。
写真:高田君、中島さん、齋藤 記:齋藤 編集:宮前君
追:宮前君の奥様は作法にのっとり料理を作ったり、お茶をたてたり、お菓子を用意されたりご苦労様でした。
本当にありがとうございました。
奥様が熊本の高校出身と聞き親しみを覚えました。
私は(齋藤)熊本で生まれました。 父も母も熊本の高校出身です。
お茶の後でゆっくりお話しをしたかったのですがお茶懐石の時間こんなにかかるとは思わず17時に仕事(実際はアクシデントがありできませんでしたが)を入れ途中で席をたち申し訳ありませんでした。 ゆっくりお礼のご挨拶もできず、またお話もしたかったのですが残念です。
前述の父母は熊本の高校出身です。 両親は亡くなりましたが毎年「同窓会広報」が送られてきました。(両校とも事情を説明し送付をお断りしました)
父は熊本県立済々黌高校出身です。 父が亡くなって翌年、春の選抜高校野球に出場しました。 従弟(済々黌出身)と甲子園に応援に行きました。 なんと満員で入れません。 外野席をぐるぐる回っても席には入れません。 従弟の友人の協力で入場できましたが入場者の光景を見て更に驚かされました。 対戦相手の鳴門高校(徳島)の応援団はアルプス席だけで7割は済々黌高校の応援でほとんどがそのOBらしき人たちで溢れかえっていました。
試合に勝ち球場の外に出ると現役の高校生やOBたちの交流で大変でした。
従弟と別れ阪急電車に乗ると僕と同年配のOBたちが話をしています。 たまたま隣の席に座っている方が僕に済々黌高校出身かと話しかけてきました。 その瞬間なぜか涙が出て止まらなかったのです。 その方は芦屋で降りましたが驚かれたでしょう。
父が30歳代の頃春の選抜で優勝した時は毎試合、会社を休んで応援に行きました。 そして優勝した時の泣いている姿を思い出します。
父が亡くなった事と素晴らしい青春を送っていた事を確信しました。
母は熊本県立第一高等女学校出身です。 現在は校名が変わっているそうです。
母も卒業の時に総代をしたと話して(祖母)ましたので楽しい青春を送ったと思います。
僕にとっては熊本の高校はまぶしく映ります。 高校(郷土)愛が凄すぎます。
宮前君の奥様も素晴らしい高校生活を送られたと思います。
ゆっくりお話が出来ず残念でした。 またいつか機会があればと思います。
ところで甲子園の地元の県西が甲子園に出場したら学生・OBで溢れかえるでしょうか?
齋藤忠昭