戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

谷干城、東奔西走狂騒曲

2005年07月12日 | 管理人の勝手な独り言
迅衝隊の幹部である谷干城は、板垣退助と戦地の方針によりたびたび対立するも、
旧幕府の討伐という点においては、板垣退助は桁違いに強い信念があったようだ。
それも、坂本龍馬とともに凶刃に倒れた中岡慎太郎の遺言を聞いたという
事情もあったろうが、それに比例したのか過激なまでの行動力は板垣退助の比ではない。


谷干城は近藤勇が流山で投降してその正体が露見したさいに、中岡慎太郎の暗殺が新選組の仕業と確信していただけに、近藤勇の拷問すべしと強く主張したが、薩摩藩などがこれに躊躇して反対したことがある。

さて、白河城が奥羽越列藩同盟軍に占領されてしまい、参謀の伊地知正治は今市にいた板垣退助に土佐・彦根藩兵の一部を宇都宮に派遣してくれと要請される。
さらに江戸の大総督府では上野の彰義隊が不穏な動きがあるとして、土佐・彦根藩兵の半数を江戸に引き上げるべしと命令される。

今市にいた土佐藩兵は長い警備や大鳥圭介らの戦いで疲弊しきっており、到底土佐藩にしろ彦根藩も余剰兵力もなく、谷干城はラチがあかないと判断し一旦土佐に上げて、戦力の補充を図ろうとし、途中大坂にて山内容堂と面会し戦況報告を行い、岩倉具視と面会して軍資金の援助を頼み朝廷より五千両を賜り、三百の新編成隊を船で江戸で向かうなど、今市で大鳥圭介の部隊に苦戦している板垣退助ら迅衝隊の"後方支援"に奔走した谷干城である。

板垣退助が今市から二本松に進軍する短期間に、北関東から大坂、京都、土佐、江戸、奥羽と奔走する谷干城は薩長同盟締結の際の駆けずり回った中岡慎太郎を彷彿とさせるものがある。