変名は後藤深蔵正則。
土佐勤王党にも属す。天誅組の変に参戦し、鷲家口からの中山忠光らの逃避行でともに長州に落ち延びる。
禁門の変では、忠勇隊に属して参戦し、第二次長州征伐に遊撃隊先鋒隊長として小瀬川口の戦闘に参戦する。この戦いで負傷した右手が不自由となり以後左手で筆をとったという。右手を負傷するなど他の長州藩士たちは変わらぬ活躍したことを認められ、長州藩は上田宗児に対して士分の身分を与える。
鳥羽伏見の戦いでは、遊撃隊として参戦し、慶応四年一月三日伏見で戦死する。二十七歳。
土佐勤王党にも属す。天誅組の変に参戦し、鷲家口からの中山忠光らの逃避行でともに長州に落ち延びる。
禁門の変では、忠勇隊に属して参戦し、第二次長州征伐に遊撃隊先鋒隊長として小瀬川口の戦闘に参戦する。この戦いで負傷した右手が不自由となり以後左手で筆をとったという。右手を負傷するなど他の長州藩士たちは変わらぬ活躍したことを認められ、長州藩は上田宗児に対して士分の身分を与える。
鳥羽伏見の戦いでは、遊撃隊として参戦し、慶応四年一月三日伏見で戦死する。二十七歳。