戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

谷干城

2005年01月14日 | 戊辰戦争人物小伝
〔1837~1911〕
天保八年、土佐高岡郡窪川村に生れであり、板垣退助とは同い年である。文久元年(1861年)、江戸から土佐へ帰る途中、勤皇を唱える武市瑞山と会い、帰国後、藩の参政・吉田東洋に攘夷の実行を進言する。
文久二年、藩主の上京の督促と薩長と共に攘夷を行うべきを進言する。
元治元年(1864年)には陣屋詰に左遷される。その後に高知へ召還され、慶応元年(1865年)藩校・致道館の教授となる。
慶応二年に藩命にて長崎へ視察に赴く。
慶応三年、板垣退助とともに京都で西郷隆盛、小松帯刀と会談し、武力倒幕について会合する。
坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されたさいに、まだ息のある中岡慎太郎のもとに駆けつける。
慶応四年の戊辰戦争では迅衝隊の軍監として参戦し、北関東・会津を転戦する。
明治三年(1870年)、藩少参事になる。翌年の廃藩後、兵部権大丞となり新政府に出仕する。
明治五年(1872年)陸軍少将となり、、西南戦争の時には熊本鎮台司令官となり五十二日間にわたる薩軍の猛攻に堪え、その功績が認められ、谷干城は陸軍中将に昇進する。
その後、陸軍士官学校校長・学習院院長を歴任し、明治十八年(1885年)伊藤内閣の初代農商務相に就任し、後に貴族院議員となる。

最新の画像もっと見る