戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

小笠原唯八

2005年02月01日 | 戊辰戦争人物小伝
【1829~1868】
名は益光といい、のちに牧之群馬と称する。土佐藩士・板垣退助の親友。
長州藩の周布政之助が山内容堂を侮辱したときに、それを聞いた土佐藩士たちが周布を斬ろうと憤激した事件でも関わる。
山内容堂に抜擢され側物頭加役、さらに大監察兼軍備御用役になるが、辞職して元冶元年七月にす゜に復職する。
慶応年八月の安芸郡志士たちが結集した野根山屯集事件では藩の討伐隊を率いて赴き鎮圧、二十三士を斬罪する。
大阪陣詰となるが、慶応三年に五月帰国されて解職させられる。
板垣退助の登用と軍制改革により、またも復職されて藩兵別撰隊小隊司令官となり、板垣退助とともに土佐藩の軍制の充実に尽力する。
明治元年鳥羽伏見の戦いが起ると藩より大監察・仕置役に任命され深尾佐馬之助を総督とする総勢千六百の部隊とともに松山城の接収に立ち会う。

京に上ると三条実美の抜擢をうけて慶応四年三月には月大総督御用掛となり、牧野郡馬と改名し、征東大総督府軍監とともに江藤新平とともに江戸へ偵察に向かう。
また、板垣退助の部隊とは離れて、上野彰議隊の戦いでは軍監として立ち会う。
板垣退助らとともに会津攻略に加わり、慶応四年八月二十三日、会津若松城攻撃中に銃弾受け、二日後に死亡する。
なお同二十三日には実弟茂連も兄と同じく敵の銃弾を受けて死亡する。

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