お城でグルメ!

ドイツの古城ホテルでグルメな食事を。

ベチョフ城塞/城館

2022年10月13日 | 旅行

チェコ共和国の国際的保養地、カルロヴィ・ヴァリからほぼ真南に25㎞離れた山中の小さな町にあるのがベチョフ城塞と城館 (ドイツ語ではペッチャウ城塞/城館) です。急傾斜した岩の上に建ち、両側からテプラ川に挟まれたゴシック様式のベチョフ城塞はおそらく13世紀前半に建てられ、当初は道路の交差点で税関として機能していた模様です。

 

城塞 1 &

 

城塞 3 &

2、3度所有者が替わった後で、15世紀の初め頃に一度改築されました。そしてさらに数回所有権が移った後の17世紀中頃、30年戦争の最後の年に城塞はスウェーデンの将軍ケーニヒスマルクによって征服され、深刻な被害を受けたのです。

18世紀の中頃にすでに人は住んでいなかった城塞を手に入れた人物は、その下に新しい城館をルネッサンス様式で建設しました。そして19世紀の初め頃、ある公爵が城塞と城館と関連する不動産をすべて取得しました。ところが彼の子孫は1945年の第二次世界大戦後に収用され、追放されてしまったのです。

 

城塞と城館 1 &

チェコスロバキア時代になおざりにされていたペッチャウ城塞/城館は、すでにチェコ共和国になっていた今世紀の初め頃に大規模な修復がなされました。

 

城館 ・ 城館と庭

 

町の中心部から見た城館

城塞の周りをぐるりと一周すると城塞が岩の上に建っているのが良く分かります。城館は中を見学出来るようですが、私たちは外観と庭を見た後、町を少し散策しました。

 

城塞 5 &

 

城塞 7 &

ところで、この辺の人はビール風呂に入るのですね。カルロヴィ・ヴァリでもそうですが、観光客にビール風呂を提供する施設があります。料金は安くありません。

 

ビール風呂の広告 1 &

そうそう、カルロヴィ・ヴァリといえば、有名な飲食物があります。

そのうちのひとつはハーブのリキュールです。19世紀前半にべヒェルという薬剤師によって初めて製造されたとのことです。その親会社の建物は現在博物館になっています。小瓶を買って飲んでみましたが、苦くて美味しくありません。ハーブなので健康には良いのでしょう。

 

リキュールの小瓶 ・ リキュール会社の建物の一角

それに加えてカルロヴィ・ヴァリ・オブラートも有名です。19世紀の中頃にある女性が考案しました。街角のスタンドやお土産店でも売っています。オブラートというと私は、粉薬を飲むときに使う透明な極薄のピラピラを思い出しますが、ここで言うオブラートはワッフルの一種なのです。いろいろな味のクリームを挟んでいて私は結構好きです。温めると美味しさが増すようです。

 

オブラート (with ヴァニラクリーム) 入った箱 ・ オブラート

 

トゥルデルニーク

さらに街角のスタンドや小さなカフェで提供しているのが、トゥルデルニークまたはトゥルドロとも呼ばれるチェコの伝統的なお菓子です。一見日本のパンのコルネに似ていますが、触感はサクっとしています。小麦粉の生地を焼いて、シナモンや砂糖の上でたっぷりと転がして味付けされます。様々な大きさがありますが、小さいのを試してみました。中に何か入れるもの、何も入れないものなど色々ありますが、チョコレートを入れてもらいました。が、失敗でした。生地がまだかなり温かいのでチョコレートが流れ出てしまいます。砂糖をまぶした部分の食感が良いですね。チェコの伝統的なお菓子ということですが、私たちはポーランドに行った時にも食べたことがあります。

 

〔2022年・10月〕

 

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ソコロフ城館

2022年10月10日 | 旅行

チェコ共和国の有名な温泉地であるカルロヴィ・ヴァリから西南西に20㎞離れた所に人口約2万3千人のソコロフという町があり、その町の旧市街の端に古典主義様式のソコロフ城館 (ドイツ語ではファルケナウ城館) が建っています。この位置にはすでに13世紀に、防御壁と堀に囲まれた石造りの城砦があり、地方政府の閣僚の家族がこの最初の城の領主だったようです。2、3度所有者が替わった後、15世紀後半に大幅に改築されました。しかしながら城は三十年戦争のときに損傷を受け、その後すぐに焼失してしまったのです。17世紀の中頃を過ぎて、深刻な損傷を受けていた城はルネッサンス様式で復興改装され、その周囲には18世紀前半にフランス様式の庭園が造られました。領主である伯爵は19世紀の初めに城館を徹底的に改装して古典主義的なスタイルに変え、それが現在の外観になっています。そしてその伯爵の家族が、1945年にベネシュの法令に基づいて収用されるまでずっと所有者であり続けました。

 

入り口の門 ・ 城館 1

 

城館 2 &

 

城館 4・ 城館の中庭

第二次大戦後すぐにアメリカ陸軍が城館を司令官の事務所として使用し、その後ソビエト軍が城を使用しました。それにより歴史的な品々の大部分が損傷または破壊されてしまったのです。とりわけ、礼拝堂の設備が燃やされました。20世紀の後半に入ってから城は徐々に改装され、図書館、博物館、戸籍局など、民間での使用がなされるようになりました。最後の大規模な改装は20世紀の終わり頃です。

 

博物館の展示物 1(鉱物の採掘場の模型) &

 

博物館の展示物 3 &

こんにちソコロフ城館は町の博物館です。展示されているのは、とりわけ、この地域における鉱業 (金属と亜炭) の歴史です。その他生活に密着したもの、芸術作品、戦争と強制収容所に関する物など、多岐にわたる品々です。結構楽しめる博物館だと思います。

 

博物館の展示物 5 &

 

博物館の展示物 7 &

さて、我々の宿泊地であるカルロヴィ・ヴァリに帰り、レストランで夕食を取りました。

宿の裏山の中腹にある現代的な建物の一部です。内部は壁がガラス張りで見晴らし抜群なのです。

 

レストランの入り口 ・ テーブルからの景色

飲み物はまず、好奇心からレモンジュース入りノンアルコールビールにしてみましたが、いけません。甘すぎます。妻は後で水とチェコの白ワインを注文しました。ここでもワインは美味しいのですが、知っている味でした。

 

レモンジュース入りノンアルコールビール ・ パン

後でどんなボリュウムの料理が出てくるか分からないので、パンは食べませんでした。

前菜のひとつはアヒルの肉を使ったリエットです。 (辞書によると、「リエット(rillettes)」とはフランス料理の一種で、豚肉をラードや塩と一緒に煮込んで作るコンビーフ状のペーストのことを指す、とのことです。) リエットと甘めの味が付いたタマネギが混ざってロースト白パンのスライスに載っています。他にジャムが載っていたりして食材の組み合わせが面白いのですが、まあまあの味です。すでに少々満腹感が出て来ました。

 

リエットの前菜 ・ サラダ

もうひとつの前菜はスモークサーモンを散りばめた葉野菜のサラダです。松の実と砂糖漬けレモンも載っています。ソースが少し甘めで旨い。久しぶりに美味しく感じた野菜サラダでした。

私の主菜は子羊の膝肉料理。添えてあるのはポレンタとバター野菜です。ソースが濃くて重苦しい味で、評価が難しいのですが、旨いか不味いかの二者択一なら不味いと答えます。

 

子羊の膝肉料理 ・ フライングアヒルの胸肉料理 

妻はフライングアヒルの胸肉を注文しました。下に敷いているのは揚げたマジョラム・ポテトで、ベーコンと芽キャベツも載っています。肉の食感が少しねちっとしていて面白いのですが、この料理もあまり美味しくありません。

最後のエスプレッソも、悪くはないね、といった程度でした。

失敗したレストラン選びでしたが、ホームページには大きな皿にチョコッと料理が載った写真が多かったので、グルメレストランだと思っていたのです。オンライン評価も4,8/5でした。オンライン評価は当てにならない、ともいわれますが、何も知らない初めての町なのでこれを参考にするしかありませんでした。もしかしたら、レストランから見渡せる景色を含めて評価4,8なのかな?

 

〔2022年・10月〕

 

 

 

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ロケト城塞

2022年10月07日 | 旅行

ロケト城塞 (ドイツ語ではエルボーゲン城塞) は、チェコ共和国にある世界的温泉地のカルロヴィ・ヴァリから西南西に車で15分程走った所にあります。その位置が面白く、エゲル川のほぼ円形を呈するループ内の花崗岩から成る丘の上に建っているのです。

 

ロケトの町と城塞の地図 ・ 町のほぼ全体像

 

町に入る橋と城塞 ・ ロケト城塞

 

城塞と教会

考古学的発掘では12世紀後半の出土物がありましたが、お城の最も古い部分は13世紀に建造されたようです。その後16世紀前半まで連続して拡張工事が施されたため、ロマネスクとゴシック両方の建築様式が見られます。

 

城塞の様子 1 &

 

城塞の様子 3 ・ かつての砲弾

文書におけるロケト城塞の最初の言及は、前述のように、13世紀前半にさかのぼります。そこには南棟について書かれてあり、北棟をはじめとする住宅と侯爵の家は14世紀初頭に建てられました。三十年戦争 (1618年 - 1648年) の頃から城の建物は劣化し始め、反乱軍、バイエルン人、ザクセン人、ヴァレンシュタインの傭兵部隊によって連続して占領されました。そして17世紀にロケトの町が経済的に回復した後、城塞はその政治的重要性を失ったのです。城は倉庫として使われ、18世紀末の火災の後、ロマン主義の時代の始まりと共にやっと城の複合施設の修復が始まりました。

 

城塞の様子 4 &

 

城塞の様子 6 &

 

城塞の様子 8 & 9  

第一次世界大戦と1919年のチェコスロバキア建国後、ロケト城はプルゼニ記念碑事務所の管理下に置かれ、第二次世界大戦中は町と共にドイツ帝国に属していました。終戦後、ロケトの町と城はカルロヴィ・ヴァリと同様にソビエト軍へ引き渡されるまでアメリカ軍が占領していました。

 

(当時はガラス板が出来なかったので小さな丸いガラスをつないだ。)

1993年末にチェコスロバキアからチェコ共和国が分離建国された後、城塞はロケト町の管轄となりました。

 

博物館の展示物 1 &

 

博物館の展示物 3 &

こんにち建物の一部は陶器や家具を展示している博物館に、別の一部は拷問博物館になっているほか、イベント用の部屋も複数あります。

  

博物館の展示物 5 &

 

博物館の展示物 7 &

ところで、私たちは滞在しているカルロヴィ・ヴァリで、チェコ共和国で供される寿司がどんなものであるか、試してみることにしました。日本の寿司屋とは全く違う雰囲気の、アジア系の料理をいろいろ食べられるビストロです。

二人で寿司の盛り合わせと焼きそばを注文して、半分ずつ食べました。

寿司ダネである魚類の新鮮さと味は結構でしたが、ご飯は感心出来ません。軟らかすぎるし、何といっても米自体の味が良くない。これはヨーロッパで食べる寿司に良くあることです。寿司御飯のことを余り考慮しないのは日本人以外の寿司職人の特徴ではないか、と思ったります。

 

寿司 ・ 焼きそば

焼きそばは麺が少し軟らかすぎかな? とも思いますが、結構美味しい。でもやはり焼きそばという限りは、焦げた醤油の香りが欲しかったなぁ。

 

〔2022年10月〕

 

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私のドイツメルヘン_12 (最終回、 ハノーファー ・ 細胞分子病理学教室)

2022年10月04日 | 旅行

西暦2000年に、私より少し年下の遺伝医というか医師免許を持った女性の遺伝学者がモア教授の後任として私の研究室の主任教授になりました。「エッ、病理学の研究所に遺伝学者?」という声が聞こえてきそうですね。事の顛末を書きます。

モア教授の後任のポジションに応募した人の中から、まず書類選考で6人が残りました。そしてその6人の口頭によるプレゼンテイション選考で2人が残りました。ひとりは細胞病理を専門とする病理医で、もうひとりが前述の女性遺伝医だったのです。

ここで仮定の話ですが、もし細胞病理医が私の上司として来たならば、うまくやって行けたと思います。なぜなら、私はデュッセルドルフ時代に細胞病理医であるピッツァー教授のところで13か月間みっちりしごかれたので、細胞病理は私の得意分野だからです。

実は、この両候補者は同レベルであるという判断だったのですが、学内に女性優遇の申し合わせがあり、女性遺伝医のシュレーゲルベルガー教授がモア教授の後任、すなわち私の上司になってしまったのです。

私は、この〈女性優遇の申し合わせ〉は男性差別だと思います。フェミニストの活動家たちは女性に不利な場合は差別だと言って騒ぐのに、有利なときは黙っていますね。おかしいですね。

遺伝医が主任教授になったために、1.染色体異常を検索することによる癌組織の診断と研究、2.遺伝子解析による癌診断、3.遺伝する可能性がある乳腺、卵巣、または大腸の癌患者を近い血縁者にもつ人達に対する遺伝相談、が研究室の仕事になりました。つまり、病理学とは関係がうすい方向にどんどん変革していったのです。私は遺伝子にかかわるルーティーンワークは出来ないけれども、少なくとも私の学んだ古典的病理学に遺伝学を組み込んで癌疾患の遺伝性についていい研究ができる、と思っていました。ところが、シュレーゲルベルガー教授は自分の仕事のために、気心の知れた遺伝医や分子生物学専門のスタッフを前任地から連れて来たのです。

私は癌の遺伝性に関する、実験動物を使った研究計画を何度か示しましたが、全く受け入れてもらえません。彼女が私に望んでいたのは、私がすでに長年にわたってやっていて彼女にはできない学生指導、すなわち病理学の講義と実習指導だけ。学生への授業は学内で高く評価される研究室の業績なのです。そのうちに、蛍光顕微鏡を使った癌組織の染色体異常診断のルーティーンに引き込まれました。これはもちろん私の分野外で、本来はメディカルテクニシャンの仕事なのです。その他諸々の雑用を、例えば、研究室への来賓の送迎や図書室の整理、さらに学会場の設営などを言い付けられました。

ところで、教授資格を取ると〈プリヴァート・ドツェント〉という称号が付きます。まぁ、日本でいう〈講師〉でしょうか。そしてその後、最低4年間にわたって学術講演と論文発表、そして学生指導の実積を積んで書類審査をパスすると〈プロフェッサー〉の称号をもらえます。直訳では〈教授〉ですが、地位としては日本の〈准教授〉に相当すると思います。さて、シュレーゲルベルガー教授が主任教授として来たとき、私はちょうどこの過程のただ中にいました。彼女がこのことを知って言ったセリフは、「私はあなたの後押しはしませんから、そのつもりで !」です。私は、シコシコと実績の証明をかき集めて4年後、すなわち彼女が来て2年後に「プロフェッサー」の称号を得ることが出来ました。2002年のことです。その他大小の、私に対する嫌がらせとしか思えない事象が数多くありました。

のちに精神科医との面談で明らかになってくるのですが、シュレーゲルベルガー教授の言動は、彼女の分野である遺伝学の病理学に対する劣等意識と正統派病理医の私に対するねたみから出た嫌がらせとイジメにほかなりません。大変興味深いのは、嫌がらせをされていることに私自身が全く気が付いていなかったことです。精神科医がいうには、〈こんなに一生懸命研究室のために仕事をしているのにいじめられる筈がない、〉と私は無意識に思っていたらしいのです。

私はいつも重苦しい気持ちで暮らし、研究室の自室では壁に頭を打ちつける自傷行為を度々しました。ドイツ語で〈エントペルゾナリジールンク〉、日本語で〈個人離脱症状〉が、職場のミーティングで座っている時やひとりで車を運転している時に現れました。自分の横にもう一人の自分がいる、という感覚です。〈これはただ事ではない、〉という気持ちになります。毎日の仕事が面白くなくて、勤務時間が終わるのを待ちわびて帰宅する日が続きました。休日には妻とよく散歩をするのですが、そのときの話題が、定年退職したら日本にすぐ帰ってどこに住もうか、どういう生活をしようかだけという時期がありました。定年まで13年もあるのに、いち時帰国をした時に大阪でマンションを下見に行ったことさえあるのです。さらに、首から肩にかけての痛み、不眠、そしてイライラ感がいつもありました。発作的症状が出たこともあります。異常に高ぶった心の中がかき回されている感覚で、居ても立ってもいられず、とりあえず庭に出て冷たい風に吹かれている以外どうして良いか分からず、〈これが収まるなら何でもする、〉という気持ちでした。そうそう、発作的といえば、クラッシックのコンサートに行ってパニック状態になり、奏者が出てくる直前や休憩時間になるのを待ってホールを飛び出したのもいち度や二度ではありません。

研究室での仕事が面白くなくても、〈このまま我慢して定年退職を待とう〉と当然のごとく思っていましたが、〈それでは定年までの年月は私の人生で意味のない時間ではないのか、〉と思うようになりました。そのとき妻がひと言、「もう仕事辞めたら?」。定年前に辞めるなんて、私にはまったく考えが及ばなかったことですが、その妻のひと言に救われた気持ちでした。

退職することを仕事関係の人々に知らせると、前出の、隣接するフラウンホファー研究所でモア教授の後任になっていた所長からポジションの提供がありました。学内では人体病理のクライぺ教授からの誘い。(彼からは、退職から1年半後にも、実験病理のセクションをつくるので来ないか、と聞かれました。)別の同僚から、「非常勤で何かひとつ講座を受け持てば〈教授〉の称号を持ち続けられますよ。」と言われました。他にも例えば前出 (私のドイツメルヘン 11) の、フランスのリヨンにあるWHOの研究所に行く可能性もあったのですが、すべてお断りして、私は2005年に定年まで13年を残して自主退職しました。こうして、医師、学者、そして教師としての私の人生は不可逆的に終わったのです。

精神科で〈うつ病 及び 不安神経症〉の診断がでました。そして2022年の時点で17年後 の今も薬を毎朝服用し、8週間にいち度通院しています。

実は過去に二回、だいぶ良くなったので薬の服用を止めてみたり服用量を減らしてみたりしましたが、すぐに病状の悪化を招いてしまいました。現在のところ薬の副作用らしきものは全く出ていないので、このまま飲み続けるつもりです。薬を服用してストレスを感じないように自分で気をつけている限り、まるで完治したかのような気分で生活できます。

ところで、長年携わって来た職業を放棄して悲しい日々を送っているかというと、そんなことはありません。むしろ、私の人生で今が一番楽しく有意義な時期ではないかと思うくらいです。私の第二の人生です。もう誰ともどんな組織とも利害関係はなく、しがらみに縛られることもありません。誰とも上下関係はありません。私に何らかの指示をする人も (妻を除いて) 誰もいませんし、もちろん私が誰かに影響を及ぼすこともありません。ただ私の気持ちの赴くまま、静謐に暮らしています。あと2年でドイツでの暮らしが50年になります。老後を過ごすためにそろそろ日本に帰ろうかな、と考える今日この頃です。

 

〔2016年9月〕〔2022年10月 加筆・修正〕

 

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私のドイツメルヘン_11 (ハノーファー ・ 実験病理学教室)

2022年10月02日 | 旅行

1990年1月から〈ハノーファー医科大学実験病理学教室〉での勤務が始まりました。大学には歯学部もあるので、日本では〈ハノーファー医科歯科大学〉という表記になるでしょうね。人体病理から実験病理にかわったことによる、ある種のカルチャーショックを初日に味わいました。デュッセルドルフの大学病院もそうであったので業務開始時間は8時であろうと思って、朝のミーティングに間に合うように出勤しました。ところが、扉を開けてくれたのは実験助手の中年女性で、他にはまだ誰も来ていません。実験助手のスタッフを別にして、主任教授のモア氏をはじめとする学術スタッフは遅い時間にバラバラに出勤してくるのでミーティングなんてありません。"適応能力の高い" 私はすぐに慣れて、毎朝9時半ごろ出勤するようになりました。化学物質による毒性と発癌の研究をする研究所なので、具体的なテーマを決めて動物実験をしてデーターをまとめ、学会で発表したり論文を書いたりする仕事です。化学発癌に関していろいろ研究テーマがありましたが、教授資格を取るための私の研究課題は、妊娠中の母獣に注入した発癌物質が子と孫にその発癌性を呈するかどうかで、ちょうどその頃話題になりつつあった癌組織の遺伝子解析や癌が遺伝するかといった研究につながっていくテーマでした。3世代にわたって約1000匹のハムスターを飼育する大変大きな仕事でしたが無事にやり終え、教授資格取得論文を仕上げることが出来ました。それに加えて、学術論文と学会発表の数や学生指導の実績などの業績を示したり、口頭試問を突破したりして、何とか1997年に教授資格を得ることができました。ほぼ8年かかったことになります。

大学での日々は、人体病理のようにルーティ-ンワークがあるわけではないので、研究と学生指導の毎日でした。

  

ハノーファー医科大学 Medizinische Hochschule Hannover (MHH) 1 & 2 

ボスのモア教授が隣接するフラウンホファー研究所の所長を兼ねていたし、インターナショナルに仕事をしていたので、フラウンホファー研究所はもちろんのこと、他国の研究所との共同研究や情報交換が日常的にあったのは大変に有意義で楽しいことでした。主なところでは、フランスのリヨンにあるInternational Agency for Research on Cancer (国際がん研究機関)というWHO(世界保健機構)の下部機構、スペインのバルセロナ大学、そして奈良医科大学の腫瘍病理学教室でしょうか。私は奈良医大の非常勤講師を務めていて、帰郷をかねて、小西教授主催のセミナーには毎年参加していました。あと、製薬会社の研究所で行われる薬剤の毒性検査に関与したり、短期間ですが韓国の会社LG Chemical Ltd. の研究顧問をしていた時期もあります。

学生指導の業務では、医師国家試験の一部である口頭試問や博士論文の審査をする他に、歯学部の学生の病理学教育は私の担当で、総論と各論の講義および検鏡実習と学期末試験をひとりでやっていました。

前出のモア教授が研究室のボスで、ドイツ人秘書が二人とイギリス人の秘書が一人いましたが、私が書いた英語論文の添削をいつもこの英国人秘書がしてくれてたいへん助かったのです。助かったといえば、学術スタッフに私よりずっと年上ですが、北海道大学の理学部出身で細胞培養が専門の江村教授という人がいて、彼には公私にわたって大変お世話になりました。今でも親しくさせていただいています。彼のもとには2、3人のやはり理学部出身のスタッフがいたほか、うちの研究室は実験動物を扱うので、ハノーファー獣医科大学出身の人たちがいました。さらに実験助手のスタッフが多数いたのは言うまでもありません。人体病理が専門のスタッフは私と、2年ほど留学で来ていた広島大学の落合さんだけでした。

前述したように、患者を扱うルーティーンワークがなかったので、ストレスが比較的少ない職場だったと思います。

しかし、その職場の居心地がだんだんと悪くなっていったのです。

最大の原因はモア教授の定年が近づいていて、研究活動が下火になったことでした。なぜそうなるかというと、古典的実験病理の教室であった研究室がモア氏の退官のあと再編されるということで、どう変わっていくのかわからない状態で新しい研究計画を立てて研究費の申請をすることは出来ません。ただ将来の展望のない、いわゆる「後片付けの仕事」をするだけでした。この国における「ボスの交代劇」は日本とは違って、ハノーファー医科大学ではモア教授が去ったあとで彼の後任を探す作業が始まったのです。候補者がひとりに絞られた後も、招請の条件など、その候補者と大学の間でなかなか折り合いがつきませんでした。その間、少し前に新しく着任していた人体病理の主任、クライぺ教授が実験病理学教室のボスを兼ねていました。私は学生教育の業務はそのまま続けましたが、それに並行して人体病理の仕事に組み込まれていきました。実験病理学研究室の再編結果によっては人体病理に移る可能性があり、そうなったときにはクライぺ氏は私に婦人科病理を専門にやってほしい意向でした。クライぺ教授が後で私に言いましたが、私は病理学の専門医であり教授資格を持っているので、多方面で即戦力となることを彼はちゃんと計算していたそうです。ということで、とりあえず婦人科病理を主体にした仕事を始めましたが、私にとっては10年近く遠ざかっていた人体病理です。いろんな面、特に病理診断で昔の勘を取り戻すのに大変苦労しました。

この、宙ぶらりんで将来どうなるかわからない、精神的につらい時期が3年以上続いたのです。もちろん、大学を離れて市中病院の病理科長の職を探せば、国内のどこかで職を得ることは比較的簡単だったと思います。日本でもそうだと聞いていますが、ドイツでは病理医が不足しているからです。しかしながら、もうハノーファーに家も建てているし妻のピアノの生徒たちもいるので、知らない土地で全く新しい生活を始める気にならず、そのまま大学に残ることにしました。良い後任の教授が来て、研究室がいい方向に再編されることを願って、、、、、、。

 

〔2016年1月〕〔2022年10月 加筆・修正〕

 

 

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