西暦2000年に、私より少し年下の遺伝医というか医師免許を持った女性の遺伝学者がモア教授の後任として私の研究室の主任教授になりました。「エッ、病理学の研究所に遺伝学者?」という声が聞こえてきそうですね。事の顛末を書きます。
モア教授の後任のポジションに応募した人の中から、まず書類選考で6人が残りました。そしてその6人の口頭によるプレゼンテイション選考で2人が残りました。ひとりは細胞病理を専門とする病理医で、もうひとりが前述の女性遺伝医だったのです。
ここで仮定の話ですが、もし細胞病理医が私の上司として来たならば、うまくやって行けたと思います。なぜなら、私はデュッセルドルフ時代に細胞病理医であるピッツァー教授のところで13か月間みっちりしごかれたので、細胞病理は私の得意分野だからです。
実は、この両候補者は同レベルであるという判断だったのですが、学内に女性優遇の申し合わせがあり、女性遺伝医のシュレーゲルベルガー教授がモア教授の後任、すなわち私の上司になってしまったのです。
私は、この〈女性優遇の申し合わせ〉は男性差別だと思います。フェミニストの活動家たちは女性に不利な場合は差別だと言って騒ぐのに、有利なときは黙っていますね。おかしいですね。
遺伝医が主任教授になったために、1.染色体異常を検索することによる癌組織の診断と研究、2.遺伝子解析による癌診断、3.遺伝する可能性がある乳腺、卵巣、または大腸の癌患者を近い血縁者にもつ人達に対する遺伝相談、が研究室の仕事になりました。つまり、病理学とは関係がうすい方向にどんどん変革していったのです。私は遺伝子にかかわるルーティーンワークは出来ないけれども、少なくとも私の学んだ古典的病理学に遺伝学を組み込んで癌疾患の遺伝性についていい研究ができる、と思っていました。ところが、シュレーゲルベルガー教授は自分の仕事のために、気心の知れた遺伝医や分子生物学専門のスタッフを前任地から連れて来たのです。
私は癌の遺伝性に関する、実験動物を使った研究計画を何度か示しましたが、全く受け入れてもらえません。彼女が私に望んでいたのは、私がすでに長年にわたってやっていて彼女にはできない学生指導、すなわち病理学の講義と実習指導だけ。学生への授業は学内で高く評価される研究室の業績なのです。そのうちに、蛍光顕微鏡を使った癌組織の染色体異常診断のルーティーンに引き込まれました。これはもちろん私の分野外で、本来はメディカルテクニシャンの仕事なのです。その他諸々の雑用を、例えば、研究室への来賓の送迎や図書室の整理、さらに学会場の設営などを言い付けられました。
ところで、教授資格を取ると〈プリヴァート・ドツェント〉という称号が付きます。まぁ、日本でいう〈講師〉でしょうか。そしてその後、最低4年間にわたって学術講演と論文発表、そして学生指導の実積を積んで書類審査をパスすると〈プロフェッサー〉の称号をもらえます。直訳では〈教授〉ですが、地位としては日本の〈准教授〉に相当すると思います。さて、シュレーゲルベルガー教授が主任教授として来たとき、私はちょうどこの過程のただ中にいました。彼女がこのことを知って言ったセリフは、「私はあなたの後押しはしませんから、そのつもりで !」です。私は、シコシコと実績の証明をかき集めて4年後、すなわち彼女が来て2年後に「プロフェッサー」の称号を得ることが出来ました。2002年のことです。その他大小の、私に対する嫌がらせとしか思えない事象が数多くありました。
のちに精神科医との面談で明らかになってくるのですが、シュレーゲルベルガー教授の言動は、彼女の分野である遺伝学の病理学に対する劣等意識と正統派病理医の私に対するねたみから出た嫌がらせとイジメにほかなりません。大変興味深いのは、嫌がらせをされていることに私自身が全く気が付いていなかったことです。精神科医がいうには、〈こんなに一生懸命研究室のために仕事をしているのにいじめられる筈がない、〉と私は無意識に思っていたらしいのです。
私はいつも重苦しい気持ちで暮らし、研究室の自室では壁に頭を打ちつける自傷行為を度々しました。ドイツ語で〈エントペルゾナリジールンク〉、日本語で〈個人離脱症状〉が、職場のミーティングで座っている時やひとりで車を運転している時に現れました。自分の横にもう一人の自分がいる、という感覚です。〈これはただ事ではない、〉という気持ちになります。毎日の仕事が面白くなくて、勤務時間が終わるのを待ちわびて帰宅する日が続きました。休日には妻とよく散歩をするのですが、そのときの話題が、定年退職したら日本にすぐ帰ってどこに住もうか、どういう生活をしようか、だけという時期がありました。定年まで13年もあるのに、いち時帰国をした時に大阪でマンションを下見に行ったことさえあるのです。さらに、首から肩にかけての痛み、不眠、そしてイライラ感がいつもありました。発作的症状が出たこともあります。異常に高ぶった心の中がかき回されている感覚で、居ても立ってもいられず、とりあえず庭に出て冷たい風に吹かれている以外どうして良いか分からず、〈これが収まるなら何でもする、〉という気持ちでした。そうそう、発作的といえば、クラッシックのコンサートに行ってパニック状態になり、奏者が出てくる直前や休憩時間になるのを待ってホールを飛び出したのもいち度や二度ではありません。
研究室での仕事が面白くなくても、〈このまま我慢して定年退職を待とう〉と当然のごとく思っていましたが、〈それでは定年までの年月は私の人生で意味のない時間ではないのか、〉と思うようになりました。そのとき妻がひと言、「もう仕事辞めたら?」。定年前に辞めるなんて、私にはまったく考えが及ばなかったことですが、その妻のひと言に救われた気持ちでした。
退職することを仕事関係の人々に知らせると、前出の、隣接するフラウンホファー研究所でモア教授の後任になっていた所長からポジションの提供がありました。学内では人体病理のクライぺ教授からの誘い。(彼からは、退職から1年半後にも、実験病理のセクションをつくるので来ないか、と聞かれました。)別の同僚から、「非常勤で何かひとつ講座を受け持てば〈教授〉の称号を持ち続けられますよ。」と言われました。他にも例えば前出 (私のドイツメルヘン 11) の、フランスのリヨンにあるWHOの研究所に行く可能性もあったのですが、すべてお断りして、私は2005年に定年まで13年を残して自主退職しました。こうして、医師、学者、そして教師としての私の人生は不可逆的に終わったのです。
精神科で〈うつ病 及び 不安神経症〉の診断がでました。そして2022年の時点で17年後 の今も薬を毎朝服用し、8週間にいち度通院しています。
実は過去に二回、だいぶ良くなったので薬の服用を止めてみたり服用量を減らしてみたりしましたが、すぐに病状の悪化を招いてしまいました。現在のところ薬の副作用らしきものは全く出ていないので、このまま飲み続けるつもりです。薬を服用してストレスを感じないように自分で気をつけている限り、まるで完治したかのような気分で生活できます。
ところで、長年携わって来た職業を放棄して悲しい日々を送っているかというと、そんなことはありません。むしろ、私の人生で今が一番楽しく有意義な時期ではないかと思うくらいです。私の第二の人生です。もう誰ともどんな組織とも利害関係はなく、しがらみに縛られることもありません。誰とも上下関係はありません。私に何らかの指示をする人も (妻を除いて) 誰もいませんし、もちろん私が誰かに影響を及ぼすこともありません。ただ私の気持ちの赴くまま、静謐に暮らしています。あと2年でドイツでの暮らしが50年になります。老後を過ごすためにそろそろ日本に帰ろうかな、と考える今日この頃です。
〔2016年9月〕〔2022年10月 加筆・修正〕