陰影の巨匠~レンブラント(Rembrandt)。コンスタブル(Constable)やターナー(Turner)と共に、私の好きな画家の一人です。彼はキリストを描いた聖画も多く残しています。その中でも私が好きなのはこの「ガリラヤ湖の嵐の中のキリスト」~ "Christ in the Storm on the Sea of Galilee"という作品です。
■湖に激しい嵐が起こり、船は波にのまれそうになった。
イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。(マタイ8:23-24)
ガリラヤ湖に船で漕ぎ出したイエスと弟子たちを突然の嵐が襲った。それがこの作品が描き出している瞬間だ。イエスは最後尾から2人目。激しい嵐の中でも寝ていられるという姿は、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という杜荀鶴(とじゅんかく)の七言絶句に表される境地を思いおこさせる。
■主よ、助けてください。私たちはおぼれそうです。
弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」(マタイ8:25)
それに比べ、イエスの十字架での壮絶な死と復活の後に、イエスの復活の信仰を世界中に広めていくことになる弟子たちの取り乱しようは、彼らが私たちと何の違いもない普通の人々であったことを伝えてくれている。
■なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。
イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。(マタイ8:26)
幼子のように嵐に怯え震える弟子たちを憐れみ、信仰の奥義を諭すイエスはまるで彼らの父親のようだ。そして神の子としての権威ある言葉が瞬時にして嵐を大凪(おおなぎ)に変えてしまう。レンブラントはこの直前の一コマをこの作品に描き込んでいる。画面左側から指す光がこの天候の変化を表し、言葉を発するイエスに光輪が見える。
■信仰の奥義とは・・・
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)
「山が動いた。」という日本社会党のかつての党首・土井たか子女史はクリスチャンとして知られている。「信仰が薄いから・・・」私たちには出来ないことが多い。つまり信仰さえあれば、何でも可能だ。というのがクリスチャンの神様への信仰の奥義。
からし種とは "a mustard seed" のことである。ソーセージを食べる時に付ける緑色のマスタードの中に残っている、あの粒々の一つを指している。つまり、私たちの信仰はどんなに頑張っても、からし種一粒の大きさにもならないってこと。だから、謙虚になれるね・・・だって、からし種ほどで山が動くんだよ!
■もっと大切なものがある~それは "愛" である。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。(第一コリント13:2)
これですよ、コレ!どんなに特殊な能力があっても、神様への信仰が深くて、山が動かせちゃっても、根本的に「愛」がなければ何の値うちもない!
「愛こそ、すべてだ!」
アーメン。
※本文中の赤字部分は新改訳聖書からの引用部分をあらわしています。
瀬戸健一郎
Kenichiro Seto
草加市議会議員
Soka City Council
ブログテーマ:レンブラント、陰影の巨匠、キリスト、聖画、絵画、ガリラヤ湖の嵐の中のキリスト、愛、信仰の薄い、奥義、恐れるな、喜べ、よろこべ、最高によろこべ
>ヨットマンさん
さっすが、ヨットマンさん。絵の中の航海術についての解説、うれしいなぁ~!ご推察の通り、この作品はレンブラントの1633年の作品。紀元前後のガリラヤ地方の漁師たちがどのような船で漁に出かけていたかは私も考えてもみませんでしたが、もし、何かわかるようでしたら、ヨットマンさんのブログに図解入りの記事を立てていただき、トラックバックよろしくお願いします。
ちなみに、地中海の島国マルタ共和国でも古くから伝わる漁船が今も使われているのですが、マストがどうなっていたか、私は素人で、そこまで気が回りませんでした。
■湖に激しい嵐が起こり、船は波にのまれそうになった。
イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。(マタイ8:23-24)
ガリラヤ湖に船で漕ぎ出したイエスと弟子たちを突然の嵐が襲った。それがこの作品が描き出している瞬間だ。イエスは最後尾から2人目。激しい嵐の中でも寝ていられるという姿は、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という杜荀鶴(とじゅんかく)の七言絶句に表される境地を思いおこさせる。
■主よ、助けてください。私たちはおぼれそうです。
弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」(マタイ8:25)
それに比べ、イエスの十字架での壮絶な死と復活の後に、イエスの復活の信仰を世界中に広めていくことになる弟子たちの取り乱しようは、彼らが私たちと何の違いもない普通の人々であったことを伝えてくれている。
■なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。
イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。(マタイ8:26)
幼子のように嵐に怯え震える弟子たちを憐れみ、信仰の奥義を諭すイエスはまるで彼らの父親のようだ。そして神の子としての権威ある言葉が瞬時にして嵐を大凪(おおなぎ)に変えてしまう。レンブラントはこの直前の一コマをこの作品に描き込んでいる。画面左側から指す光がこの天候の変化を表し、言葉を発するイエスに光輪が見える。
■信仰の奥義とは・・・
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)
「山が動いた。」という日本社会党のかつての党首・土井たか子女史はクリスチャンとして知られている。「信仰が薄いから・・・」私たちには出来ないことが多い。つまり信仰さえあれば、何でも可能だ。というのがクリスチャンの神様への信仰の奥義。
からし種とは "a mustard seed" のことである。ソーセージを食べる時に付ける緑色のマスタードの中に残っている、あの粒々の一つを指している。つまり、私たちの信仰はどんなに頑張っても、からし種一粒の大きさにもならないってこと。だから、謙虚になれるね・・・だって、からし種ほどで山が動くんだよ!
■もっと大切なものがある~それは "愛" である。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。(第一コリント13:2)
これですよ、コレ!どんなに特殊な能力があっても、神様への信仰が深くて、山が動かせちゃっても、根本的に「愛」がなければ何の値うちもない!
「愛こそ、すべてだ!」
アーメン。
※本文中の赤字部分は新改訳聖書からの引用部分をあらわしています。
瀬戸健一郎
Kenichiro Seto
草加市議会議員
Soka City Council
ブログテーマ:レンブラント、陰影の巨匠、キリスト、聖画、絵画、ガリラヤ湖の嵐の中のキリスト、愛、信仰の薄い、奥義、恐れるな、喜べ、よろこべ、最高によろこべ
>ヨットマンさん
さっすが、ヨットマンさん。絵の中の航海術についての解説、うれしいなぁ~!ご推察の通り、この作品はレンブラントの1633年の作品。紀元前後のガリラヤ地方の漁師たちがどのような船で漁に出かけていたかは私も考えてもみませんでしたが、もし、何かわかるようでしたら、ヨットマンさんのブログに図解入りの記事を立てていただき、トラックバックよろしくお願いします。
ちなみに、地中海の島国マルタ共和国でも古くから伝わる漁船が今も使われているのですが、マストがどうなっていたか、私は素人で、そこまで気が回りませんでした。
さて、この絵は不思議ですね。
聖書そのものは紀元前でしょうから、後世になってから当然、この絵は描かれたものですよね。
絵の船の三角帆は明らかに、ヨットのジブセールで
あります。嵐になってこれを降ろそうとしている様子がしっかりと分かります。現代でもそうします。
マストにある”帆げた”からはためく帆ですが、現代ヨットではあり得ません。
むしろ、15~6世紀の帆船に見られる構造です。
言うなれば、帆船のミニ版です。
どうやら、飛んでしまったロープは、マストを立てて
ある物らしいですね。こうなってくると、早くメイン
のセールを降ろさないと”危ない”状況。
でも、解説にあるとおり、前方の光は、この後の静寂
を予言しているんですね。
今日の、教会の祈り会で、このブログが祝福され、用いられる様に皆で祈りました!