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約束の地をめざして

I STILL HAVEN'T FOUND WHAT I'M LOOKING FORー めぐりあう人々と出来事とともに

路線変更

2011-10-31 20:34:53 | 日記・エッセイ
 秋深まる中、久々のブログ更新です。更新できていない中でも本ブログを閲覧し、ご訪問してくださる多くの方々に感謝が堪えません。どうもありがとうございます。
今日は何を書くかというと、若干の近況報告と自分のこれからのネット関連発信の展開について少々書かせていただきます。

 今年の春、卒業が無事決まった東京神学大学にて、さらに同大学大学院に進学して学べることが決定して、震災後の余波がまだ震災後と言えないほど引き続く中、しかし夢と希望をもってさらなるあと二年間の学びに船出いたしました。始まってみたら、学部時代と違って先生方が、学生がノートをとるのは待っていないで、どんどん講義したり問いかけて行き、ほぼ円卓授業なので基本顔を上げていないといけないようなシュチュエーションでの学びが日々続いて行きました。
 この大学院の授業は、演習中心で専門的かつ学術的、発表重視、予習必要!(できないこともありますが^^;)という、学部時代の神学全般を知識的、手法的なものを体得していくやり方から、いよいよ必要な知識をもとに、根拠のある自分の考察を展開できるように、という学びとなっています。

 そして夏休み前は、学内の礼拝委員会という、学内チャペルにて週4回ある礼拝の”水を汲むしもべ”として(日本で普通に言うと、おそらく”黒子”にあたるだが、キリスト教的な文化の言い方ではこの表現のほうがピタッと来る。ちなみに以前のサッカー日本代表監督のオシム氏が、この表現をサッカーの戦術上である選手の役割を語るためにこの表現を用いたと聞いたことがある。気になる方は新約聖書のヨハネの福音書2章を参照のこと。)の作業をおもな仕事とする委員会の長として、細かな仕事がいろいろあり、ただでさえ、日々の学びに今まで以上にウェートが置かれる中、気がついたら週二くらいで完徹かほぼ徹の夜が続いていました。でもまあなんとかからだは持ったんですね。

 それで夏休みは以前もお伝えしたように、本大学および大学院時代に二度体験しなければならない夏の教会実習の二回目があり、海がきれいな神奈川県・二宮町の教会での実習を終え、また未熟さを体験し(うおー)、その後はいつ寝ていたかわからないような凄まじい前期期末レポート提出のための作成期間を過ごし(その間、同級生、特に同じ専攻の仲間はほとんどみんな青い顔で過ごしていました)、その後三日間くらいいちおう休める日はあったのですが、しかしたまっていたやることをこなしたり、約束していた原稿書きなどをやっていたら、休む間もなく過ごしていたら、たぶんその夏の実習ころからこの10月末までに、きちんと休んだのは三日間くらいか、いや二日くらいか。そしてついにこの10月末に、学校でも教会でもミスが起こしてしまい、抱えた責任事項が抱えきれなくなった状態だと言うことが判明してしまいました。この10月は十日間くらい徹夜だったと思います。今月は委員会の長としての仕事はあまりなくて助かったのですが、もともと作業が遅い自分が、たいそう時間がかかる勉強での発表準備と三回の日曜日にわたるそれぞれ違う教会での説教の準備などのため、限界線を超えてしまったようです。。

 まあでもその中で夏休み前に本格的に始めてみたFacebookで、これまでそのよしあしを味わいましたし、まあいい使い方をしている人、なんでこんな使い方をしているのかなという正直あきれたり(ごめんなさい、でもほんとです。ソーシャルメディアをどう使うかは、その人の性格や人格が出ますので、自分も含めてよく考えて用いたほうがいいですよね。自分も陰ながら指摘を受けることありなので。。)もしましたが、その中でも久しぶりにFBで再会した方にその後リアルでも再会したり、またそれまでツイッターで親しくなった方とFBは基本顔出しなので、FBでさらに親しくなり、その後リアルで初めて出会ってドラマを感じたり…いやいや凄い時代になったものです。昨日もツイッターで、自分が大学院で研究している内容に近いことをやっている方と出会ったりつながったりして、今勉強中心というか、ほぼすべてその生活をしている自分としては、このソーシャルメディアをうまく使うことによって新しい世界の広がりと、コミュニケーションが始まることで、研究以外の視野も与えられて行くことはうれしい限りです♪

 それで今日のブログタイトル「路線変更」なのですが。
正直、大学院での学び、特に後期スタート以来本当に厳しかった!し、今も厳しい。とにかく学ぶ量が多く、かつ時間がかかる。逆に言うと、これだけ重厚な学びをあと1年半しかできないことを残念に思うし、またじゃあこの1年半一生で一番勉強してやる!とも思う。…ということはつまり今まで自分が理想として書いてきたコラムのスタイルのブログをまともに書くことは1年に二、三度しかできないのではないか、と思うようになりましたし、たぶんそうだと思います。しかしそれで本ブログが開店休業であるのは、今ままでこのブログを大事にしてきた者としては悲しい限り。そこで基本コラムを書くのは時間的にむずかしいのですが、ツイッターは140字以内だし、FBは誰が読んでいるかわかっているし、また関係を大事にして書くものと自分は思っているので、そんなに無茶苦茶なものは書けないので、そこでブログが一番自由に書けるんだな、ということを改めて認識しました。別に無茶苦茶なものを書こうと思っているわけではないのですが。

ということで、これからブログ更新もそれなりにして続けていきたいので、持論のコラムを展開するのはややあきらめて自由にこういうブログにするというコンセプトを持たずに書いていきたいと思います。1年半に一回くらいコンセプト変えてる気がしますが、こんどのは一番長持ちしそうです。だって自由ですから。ってことはやっぱり無茶苦茶だったりして。^^:

 公務員を辞して、牧師をめざすようになってはや10年目。正式な大学院まで行くとは思いませんでした。そして最近、人生で自分がやろうとしていることが四つあるんだなあと思わされていて、その四つは牧師として行うことも、個人として行うこともあるんですけど、僕はその中の一つだけでも自分の限られた力では全う出来ないけれど、神様が力を与えてこの世界で自分が必要な貢献ができるように導いていてくださっている、ということを感じ始めています。(バッハの対位法みたい♫ NHK Eテレ・スコラより。)10月は最後転覆して終わっちゃいましたが、それをいい糧にして1年半後少しは成長して旅立っていきたいと思っています。ぞと。


おまけ 
これはいい番組だぞと。「schola 坂本龍一 音楽の学校」http://www.nhk.or.jp/schola/


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夏色の海

2011-07-29 20:14:31 | 日記・エッセイ


「きみは実習中なのに忙しくないのか!」
とどこからか言われそうだが、今月24日(日)から始まった、我らが東京神学大学の夏期伝道実習(教会での実習)中のブログ更新です。ふだんなかなか更新できていないだけに、よけい貴重である。

いや、やる課題はいっぱいあるんですよ。ただいつからか忘れたが、実習前からずっとやるべきことが途切れなくて、睡眠不足が当たり前の状況で生きていたので、今日7/28(木)に実習中の二回目の大きなヤマが終わったので、そのあと少し休憩したあとで、町内の図書館に行って次のヤマのために準備しようと思っていたら、もうすっかり集中できず、たぶん心身がもうストップをかけたのだろう、次のために本を開いて取り組むことができずに、なぜか「めぞん一刻」を読んでいた。そこにあったので。響子さん。五代さん。

そのあと宿泊先のそうじをする約束だったので、それを果たし、子どもたちとも約束の将棋等々もちゃんとやったので、そろそろ勉強再開…と思ったが、どうも今日はもう頭がヒートしたようで、もう今夜だけは無理せずやめよう、ということで気分転換にこの夏色の海と言うブログを書こうと思ったんであります。

 まあ当然このタイトルは、昨年発表された大貫妙子&坂本龍一の何年経っても色あせない感のあるアルバム『UTAU』に、大貫妙子さんの曲で「夏色の服」が収録されていましたので、当然そのタイトルから今日の題は影響されたわけで。そして今の宿泊先のおうち(○○先生、感謝します)から徒歩5分弱のところがとてもきれいな海辺なので、それもあったな。
ぼくは長野県出身なので、そこには海は無い。また人生の中でも海辺に住んだことがない。だから海辺に行くと不思議な感覚におそわれる。まあもちろん海辺に住んでいる人も、ふだん見ていても海はやっぱり特別なんだろうけど。

 で、せっかくなので少し実習自体のことも書くと、昨年もそうだったが、この夏の実習はけっこうきつい。派遣された教会で、そこで実習生である自分与えられた課題(礼拝や小さな集まりでの説教など)をこなしていくのだけれど、それをきちんと準備してきちんとその使命を果たさなければならない。当たり前のことなのだが、それを29日間、ある程度睡眠もとり、とどこおりなく果たす、そのことができるかどうか。その当たり前のことがさりげなくできるのがプロであり、僕のようにできると思って直前でまだあわててしまう、あれが足りなかった、これが間に合わなかった、と言っているのがまだアマチュアなんだろう。くやしい。

その実習の様子は、断片的ではあるが、ツイッターをメインに、Facebookも利用しながら時折報告していくとして、今日もっとも書こうと思っているのは、最近始めたFacebookについてのことだ。いわゆるソーシャル・メディアについて言えば、僕はもともとこのブログから始めて、そして昨年夏からツイッターを始め、そしてそのツイッターの持つソーシャル・メディアのパワーの現状最大限の体験をしたのが、(残念ながら一部の注目した方々しか知らないであろう)昨年から今年始めにかけての一連の坂本龍一のライブUstreamでのツイッター等を介しての無限大の人々とつながっていく体験であった。

「え、そんなの知らない人同士で、でしょ?しかも匿名の人が多いでしょ。」
確かにそういう部分もいくらかはある。しかしそこで大事であったのは、坂本龍一とか、大貫妙子とか、平野友康とか、それからほかにもたっくさんそれに関係して尽力したひと達はいるけれど、もちろん彼らには感謝しているけれど、大事だったのは、その共感した輪の無限大の広がりの事実とその感覚であったのだ。

 本ブログを読んでいる方ならわかるでしょうが、ぼくはプロテスタントのクリスチャンである。クリスチャンって日本じゃ少ないけど、でも少ないなりに、その少ないひと達が集まったり、関係を取り合ったりしたら、けっこう多い人数のはずなんです。そして僕が約25年間活動的なクリスチャンとして生きて来た中で、そんな風に多くのクリスチャン同士で連絡や関係を大切にしてきたことはもちろんで、特にそういうお互いの関係を盛り上げるイベントにも参加したりしてきたが、…それでもあの坂本龍一関連のUstream(sakamoto social project 略して skmts=スクムトゥス)から味合わった共感性はこれまでにないものであった。しかもそれをネットで体験した。リアル(生)ではなかったのに、である。この説明はまだでききれていない。

 それで話はFacebookに戻るが、どうだろう、まだ僕はFacebookを始めて1週間くらいだが、正直あまりおもしろくないのである。「友達になる」をクリックして、相手が自分を友達として承認してくれたらお互いに友達になる、というスタイルだ。いやもちろんそれだけじゃなくて、もっといろいろな利用方法があるし、ベテランユーザーが知っているような楽しみ方を自分は知っていないのであろう。
それで自分がFacebookに登録してログインしていると、どんどん友達になれる可能性のある人を紹介してもらえる。そしてその中で実際にリアル(現実)で知り合い、あるいはネット上で知り合いでないと友達申し込みはできないのである。利用している人には説明不要ですが。。

たぶん自分がいくらか期待して始めたFacebookがつまらない一番の理由は、「知っている人同士でつながりあっているところが圧倒的に多い」からだと思う。もちろんそれは悪いことではない。知っている者同士、あるいは友達同士でFacebook上でもつながりあったら、それはそれで良いことだと思う。友情も深まるかもしれないし、それまでそこそこの知り合いあった者同士がこれを期にさらに仲良くなるかもしれない。それもまたよし。ぼくはそれをひとりの人間としても、ひとりのクリスチャンとしてもGoodなことだと思う。

しかし自分個人の感覚として、それはどうしても必要なことではなく、刺激があまりないことなのだ。あえてしなくてもいいことなのだ。だって友達はネットでたとえつながらなくても友達だし、また「友達になる」を期に単なる知り合いとFacebook友達になっても、そんなに必要なことだろうか。友達ってそんなに軽いのか。写真付きの婚活サイト的な感じがしてしまう。もちろんそれを期に、知り合いからリアル友達に発展してくこともあるだろうから、決して否定はしないが。

Facebook創始者のマーク・ザッカーバーグ氏を主人公にした大ヒット映画『ソーシャル・ネットワーク』を僕は人生上のとある理由である人と映画館で観た。(まわいくどい書き方だな)まあその人生上の理由は終わったが(よく終わりますね)とにかく観た。賛否両論あれ、あの映画は僕にはとても面白い映画だった。で、あの映画の内容がどこまで事実かはわからないので、歯がゆいところだが、もしある程度事実であったとしたら、Facebookは、ザッカーバーグ君がふられた彼女を取り戻したいため、また大学生同士で交際相手を見つけるためのものとして立ち上げたソーシャルメディアであり、SNSだということになる。となると、それがいいとか悪いとかじゃなくて、やっぱりそういう創設時の性質は残り、誰かの愛をほしいためのサイト、ということになる。

でもね、愛って、そういうのもいわゆる愛、大きな意味では愛、であるけれど、それはほんとの愛じゃないんだよ。ほんとの愛は、自分が欲しがる愛じゃなくて、自分はどうなってもいい、あなたは大丈夫なのか、あなたのために自分は犠牲になってもいい。あなたに幸せに生きてほしい…。むずかしいことかもしれないけど、やっぱりそれが本当の愛のはず*。Facebookは確かに便利で良い面もあるし、僕もこれからも使っていくけれど、他のソーシャルメディアと何か違和感のあるのは、おそらくこの点が根っこにあるからなんだろう、と思わされている。

それからもう一つ不思議なことは、Facebookを使っている人の多くが、Facebook以外のソーシャルメディア(ブログ、ツイッターなど)を使っていないという印象を受けることだ。二人に一人以上はそうではないだろうか。これがFacebookに対するもう一つの違和感である。これはなぜか。もちろん絶対的な答えは出せないが、これも自分のことを愛してくれる人とだけつながりあおうとする自己愛が無意識にあらわれているからじゃないだろうか。それが悪いことだというんじゃなくて、無意識のそういうあらわれじゃないかな、ということを言いたいんだけど。
まあうまく使えば、Facebookは本当の友情をよりよく築き上げる助けにもなるだろうけど。

 夏色の海というタイトルのわりに、まったく違うことを書いた気もしないではないが、ただ関係しているかな、と思うところは、Facebookに感じた違和感ではない、同じソーシャルメディアでもいまだかつてないつながりと夢を感じさせてくれたきっかけとなった大貫妙子&坂本龍一のアルバム曲に似たタイトルをつけたということと、海は一人で行っても、そこに知り合いや友達がいなくても、新たな思いを与えてくれていい意味で独りになれる、というところが必要以上のつながりから自分を解放してくれるような空間、ということだろうか。
また!…実習がんばります。(7/28(木)記)


<↑実習先教会:にのみや聖書教会Son Chapel>

※冒頭の写真は、宿泊先の家から5分弱の二宮町の海岸です。
*「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(新約聖書 ヨハネによる福音書15章13節)

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とりあえず近況報告

2011-07-14 20:30:49 | 日記・エッセイ
(このブログはいったんUPした後、数時間後に誤字を含め文章を一部修正しました。お許しください。では本文スタート! ↓)

 こんばんは。村上春樹『1Q84』BOOK1ーBOOK3を約半年かかって完読して以来、本当はそのあたりを書きたい気持ちがあるんですが、なかなかブログ書くところまでたどりつけないんで、とりあえず今日は箇条書きみたいな近況報告をします。

<最近取り組んでいること>

・学校の授業と、その予習と、課題作成。
 ぼくが思うに、うちの学校はいくらかの学力とけっこう努力が必要です。(ぼくひとりの感想であって、一般化できないかもしれませんが。)祈りながらがんばっていくしかないです。でもやりがいはありますが!やるぞー!

・学費と生活費の足しにするためにアルバイト
 あまり長時間アルバイトやることもできない(勉強が遅れる)ので、決して高い額ではありませんがボディーブローのように効いてくる額となる分を、学内の図書館と、学生寮のボイラー係(=お風呂をわかす)にて働かせてもらっています。感謝。。

・学内の礼拝委員会での働き
 比較的学内アウトローな自分に似合わず、礼拝委員会という毎日の学内礼拝の準備や片づけをおもな働きとする委員会の委員長に今年の春からなってしまいました。なったからにはやる。やるからにはみんなで楽しく委員会する、を目標に、目標になかなか届きませんが、ぐあんばってます。

・月2回、神奈川県の教会への派遣奉仕
 ぼくはふだん東京は上野にある「上野の森キリスト教会」というプロテスタントの教会のメンバーとしてそこに通っていますが、サッカーでいうレンタル移籍みたいな感じで、今年4月から神奈川県内の看板を出してまだ1年という若い教会に月2回上野から派遣されて行っています。湘南を過ぎた少し山あいの小さな町のかわいい教会です。東京・上野とのコントラストを楽しみながら、途中に通る湘南の風を楽しみながら出かけています。

・修士論文関係の学び
 修士論文提出は来年秋だが、しかしあと14か月しかないというのもまた事実。尊敬している○○教授のもと、「まあ夏休みまでに忙しいだろうけどこのくらいは読んでおかなきゃ」というやるしかない励ましのもと、とりあえす今はアウグスティヌスとカパドキア教父のものを読んでいます。。

・その他
 余暇・趣味はほとんどなし。きゃー。でもツイッターを少々と、学内の仲間たちとのお茶のひとときや、そしてときおり、ちょうどよいタイミングで都内の夕暮れの雑踏のなか響く、プロストリートミュージシャン・アルトサックスプレイヤー中村健佐氏のサックスに足を止め、しばし聴き入り、心洗われるような気持ちで電車に乗り込んでいます。

…なんかせきららにいろいろ書いてしましましたが、自分の場合、教会の活動や、神学の勉強は言うまでもなく最も力を入れていることですが、それがもっと見える形で、多くのニッポンの人々にわかる形でそれらを生かしていきたいんですね!その一つとして今はほそぼそとこのブログを書いていくぞと思います。
今日はとりあえず最近の状況をお伝えしました。またまたまた。

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私たちの価値観は変わるかー3・11大震災以後

2011-05-09 17:28:40 | 日記・エッセイ
 ついに終わりそうでなかなか終わらないこのブログも再開後二回目の更新です。自分は休み時間をとるのが下手なので、これを書くことで気分転換(休み)にしたいという思いもあり、今日も書いています。
 3・11東北関東大震災の直後は、僕が住む東京でさえ二次災害を受けていた。それは米やパンのカップラーメン、、ミネラルウォーター、電池などの不足、計画停電、また一時的ではあったが今住んでいる三鷹市でも乳児には水道水を飲ませるのを控えるように指示が出された。が、今振り返っても(やっと振り返れるくらいになったということか。ここ数日は東京では余震もないように思える)一番受けた影響は、あのテレビ絶え間なく流れている被災地の惨状を見続けたことにより受けた精神的ショックであった。もちろん阪神大震災、米ニューオーリンズの津波被害の映像も見ていたが、それを上回る重さ、あれはきっと東京も当日長く揺れたことと、その夜の交通機関のストップから始まる二次災害を受けていたことが視角に加えて、環境的にも揺り動かされたことが響いたゆえだろう。思えば特に四月に入ってからは、僕の場合大学院生活がスタートしたため、そちらの授業準備、事務手続き等で期限との闘いに入ったので、いくらかの余震でも不安になっていられないという状態で四月いっぱい走っていたため、以前ほどは震災について心配もできず、そしてGWは長野の実家に行っていたため、こうしてGW以後になってみて初めて冷静に震災について振り返っているのを感じている。

 震災後、ネットや雑誌で著名人・識者の様々な寄稿文を読んだ。村上龍、ビートたけし、山折哲雄(宗教学者)、細川護煕(元総理)。村上龍のものは、僕が彼のファンだということもあるが特にインパクトがあったので、またどこかで話すか書くことになると思うが、今日ここで取り上げたいのは山折哲雄氏がAERAのたしか4/4号だったかな、そこに書いてあった寄稿文について。
 美容院で髪を切っていただいている時に読んだものなので、手元に今それ自身が無いので記憶でたどるしかないが、宗教学者の視点で書かれているだけあって(おそらく彼は神道)、仏教的な視点やキリスト教的な視点それぞれから今回の震災と被災者に対する見方を記してあった。僕はクリスチャンであるので、クリスチャンではない視点で、山折氏がキリスト教的視点においても語っておられるところが、非常に客観的な内容であり、すべて同意できるわけではなかったが、頷かされるところが多々あり、目を開かされる内容であった。
 さて、そこで山折氏が強調していたのは、日本人はこういう災害に強いということ、その理由は日本人には古来より「無常」「無常観」というものが精神構造のベースになっており、キリスト教のように「救い」をもたらそうとか「解決」をもたらそうとせず、その厳しいあるがままの震災の状況を、大きな自然の現象として、いわば、いた仕方ないもの、それと共存して生きていこうとするという現状と環境に対する無常観がいい意味で作用しているのではないか、という意味のことが書かれていたと記憶している。克明にはここで記せないが。そのわけは、災害後の被災者の?避難所の?人々の様子が、しばらく前に津波被害にあった米ニューオーリンズの様子と、今回の東北の人々との様子が違っていたところから、日本とアメリカ(キリスト教が強い国)の精神的・宗教的ベースの違いがそれに影響しているのだろう、ということを述べており、かつ、だから日本人のこのような時の強さ(=いたずらに解決のみを求めない、現状を受け入れる強さ)についてを今回の被災と我らが日本に対する励ましのメッセージとして書かれていたと思う。なんとかあの記事手に入れたいとは思っているが。
 
 この山折氏による寄稿文については、今も述べたが、頷かされるところもあった。またこの記事については、思いがけず、僕の属する東京神学大学大学院1年のクラスの、年度始めの懇談会(担任教授二名同席)においても僕のほか担任教授の一人からも触れられ、山折氏とは違う理解でのコメントがなされた。おそらく僕のようなキリスト者でさえ、その記事に目が留ったのだから、多くの日本人であの記事を読んだ方は共感されるところが多かったのではないだろうか。ただし、実際の被災者の方々はあの記事をどう思うだろうか。たとえば、ご家族をこの震災で亡くされた方はどうだろうか。無常観はある部分確かに力にはなるだろう。復興まであとどのくらい時間がかかるのかわからないが、これを乗り越えたときに、やはり日本は強かった、となるのだろうか。それはそれで悪いことではなく、むしろ誇れることかもしれない。しかしそれが今回壊され、痛んでしまった建物や必要な物資や、社会システム(経済、学校等)が回復していくことのみであったら、壊されたものを作り直したのにすぎず、そこでまたいつか崩れることがあったらどうすれば良いのか。また無常観に立ち返るのだろうか。
 
 細川護煕元総理が、先月半ばの朝日新聞の中のインタビューで22世紀、23世紀を見据えての、新しい日本の国づくりを価値観の再構築からも論じていたかと記憶の中にあるが、価値観の再構築ということになると、それは今あるものを元通りにすることが単に復興なのではなく、建物や物資や、社会システムは人間がどんなにがんばっても崩されることがあり、その崩された時でさえも、私たちが立ち行いていくことのできる価値観、別の言い方で言えば幸福観、が必要であるということだと思う。無常観に優る希望をもしわれわれが持てたとしたら、その時に起こる私たちの絆はどんなにか強いだろうか。しかし「これこれこうなったら幸福である」という”幸福の条件”の中で私たちが生きていくとしたら、その幸福はおそらくいつか崩れてしまうことになり、そのときにその絆はどこまで残るだろうか。目に見える現世利益的な幸福感にはどうしても限界がある。無常観も確かに助けになる部分もあるとは思う。
 ただ幸福とは、目に見える状態がいい時を表すのでも、苦しみがあったらそれを受け入れていくーというだけでもなく、それに優るもの、いつもそこに変わらない安心感があるものなのではないだろうか。人はそんな幸福を求めて生きているのではないだろうかー。そんなことを考えて、また自分も学んでいきたいと思います。今日はここまで。

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ブログ再開

2011-05-05 03:32:05 | 日記・エッセイ
ブログを書けなくなって二ヶ月が経過した。その間あまりにもいろいろなことがあった。遅い時間だが、更新がなかなかできなかったので、少し思い出しながら書くことにする。

まず3月2日。大学院に合格した。
本当にほっとした。もっと楽に合格できるはずだったのに、ここには書けないほど追いつめられたこともあって、合格できなかったときの人生のサイの振り方を二つ考えておいての合格発表を待った。そしてその結果、同じ東京神学大学の大学院であと二年学べることになった。よかった。
ただ僕と同じく進学希望した同級生のうち、残念ながら不合格となった同級生もいた。彼らの気持ちを思うとこっちもやりきれない。ただ、自分も落ちる可能性を抱え、だめだったときの生き方も考えておいたので、同じ教室で学んだ仲間として、誇りをもって強く生きていってほしいなと思う。

 大学院で何を学ぶかはまたそのうち書くとして、その次は3月9日。勉強のかたわら、昨年秋から個人的に人生を変えるほど刺激を受け、新たな世界ーソーシャルメディアとそれによる世界の広がりと人々との出会い、つながりーに目を開かせた「サカモト・ソーシャル・プロジェクト ”skmts”」のネット上のReunion(再会の集い)がUstreamで行われた。くわしくは僕の昨秋からの過去記事を読んでいただければと思うが、当日はUst中継地ではskmts中心スタッフたちの”寿司パーティー”の中継となってしまったりして、坂本龍一教授本人もUst視聴者となり、そこにツイッターで「マイケル・ジャクスシ!」などのつぶやきを連発し、そこに参加者も「私もスシラー(マイケルのスリラーのこと)買いました」的な書き込みで答える…というこう書いても見た人しかたぶんまったくおもしろくないんだろうが、まあとにかくあの昨秋から今年の1月9日までの北米~日本国内~韓国ソウルのサカモトツアーUstを媒体としたソーシャルメディア体験は、バーチャルでないリアルな人生体験として忘れられないもの、新たな世界観、思考回路の始まる時だったから、そんな寿司Ustすらこの春の大事な記憶となってしまった。それにやんなくてもいいReuion、でもみんなやりたかったReunionを平日の夜だったのに、3月9日に行えていたことが、今思えば本当に意味深い。

 そして3月11日。この日が3・11としてこれからずっと記憶される、胸に刻まれ続けるとは誰が予想し得たであろう。その日は、僕らの東京神学大学は卒業式だった。主には学部で終える学部生、修士を納めた大学院生の卒業生のための式だ。多くのそれらの方々の関係者や父兄が遠方からやってきていた。その卒業式のさなか、学長による聖書からの説教の最中であった。大学の当然チャペルだけない、校舎のすべてが揺れた。長い揺れだ。僕はチャペル内に入れず、別室のモニターで卒業式を見ていた。学長はそのまま微動だにせず講壇に立っている。しかし揺れは続きに続く。

その後まさか宮城沖でそんな大地震が起こったとはわからなかったため、そんな僕らを動揺させまいと学長のリラックスを与える説教で、卒業式はなんとか執り行われていったようだった。しかしその後の立食パーティーで、すべてが明らかになった。

 それから二ヶ月近く立つ。4月からは大学院の授業が始まった。学部のとき以上にハードで、かつ質の違う勉強が始まった。予習時間が格段に違う。そしてほとんどが演習形式の授業で各人の発表が多い。また同時に来年度の修士論文の準備も、授業関係とは別に進めねばならない。時間は大変だが、それはまあ望むところだが!そのために進学したのだから。

 震災のこと。大学院のこと。今感じている人生のこと。家族のこと。リアルでもネットでも感じる日本人の道徳的・精神的危機についてのこと。神学書のかたわらで移動時間に読んでいる1Q84のこと。人々との新たな出会いや、自分の将来に向けた新しい動きのこと。。それからツイッターはどうしてこんなに面白いのかということ!

いろいろ書いておきたいこと、中には書けないこともあるけれど、みんなみんなひとつひとつ大事なことが動いている。そういう年齢なのか。しかし大事なものが多すぎてつぶれないようにしたい。軽やかにかろやかに与えられた人生を楽しんで生きていきたい。これからまた少しずつ、書いて行きます。。


何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。
(旧約聖書『コヘレトの言葉』3章1-8節/新共同訳)

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空白の1日

2011-03-01 00:53:36 | 日記・エッセイ

 久しぶりにブログを書くのは少々緊張するが、今日(2/28)という日はもう戻って来ないので、短い時間だが少しブログを書こうと思う。

 何もかもすべてうまく言ったのではなく、もう中身が入っているかどうかわからない歯磨きチューブの中身を絞り出すような日々だったなと思う。1月4日ごろから昨日までずっと学校の課題や、ついでに見事ヘブル語の期末試験が不合格になり、再試験扱いの追加レポートを数日間作成したり、その他教会関係でも作成すべき文章や自分の担当のバイブルクラスの準備をしたり…10年前は公務員の仕事を日々こなしていたことを想う時、10年後はだいぶ自分は違うことをやるようになったなあ、と今日思ったりもした。とにかく、この約2ヵ月間、昨日(2/27)まで勉強やその他なすべきことに取り組み、体力勝負で厳しい日々を過ごしてきたなと思う。その間に私生活でも困難にぶつかり、楽ではない時間を過ごしてきた。 かな。

 そしたらきょう月曜日は、ぱかっと、空いてしまった。今まで毎日いつもいつも「あー、これ次やらなきゃ、やばいやばい。」と言いながらどんどんがんがんやってきたのだが、きょうはやることはあっても今までのようにやらなくてもいい日になってしまっていることに気づいた。すると疲れがどっと出たのか、先週も二回徹夜をしていたせいか、朝と昼と二度起きたのだが、食欲も起きず、とにかく眠くて疲れて、何時に起きたのかは書かないでおくが、トータルで15時間眠ってしまっていた。それでやっと起きたのだが、まだ眠い。しかし、今度はお腹が空いてしまい、起きることができた。そういえば自分は半年に一度くらいこういう日がある。忙しい日々から解放されたときにそうなる。

 おや、日付が変わってしまった。書きたいことは山ほどあるが、きょうはエンディングに向かわなければ。実は明日、今学んでいる東京神学大学の大学院内部進学試験がある。平たく言うと、大学院入試だ。時間は午前10時から順番に面接がある。ペーパー試験はない。おそらくふだんの授業や定期試験が厳しくされているため、内部進学の場合はペーパー試験はないのであろう。一定の成績以上を修めていれば、内部進学試験を受けることができる。

だから明日は面接試験があり緊張があるが、きょうはぽかっと空いてしまった。空白の1日、というと1970年代後半にあった、プロ野球・江川卓のドラフト事件の「空白の1日」が有名だが、ふとそんな言葉を想い浮かべた。大学院内部進学試験は稀に不合格者は出ると聞くが、多くの学生は合格しているらしい。ただ自分の場合は、いくつか不安要素もあり、あさっての合否発表があるまでは、なんとも言えないなと思っている。まあ明日、失礼の無いよう、そして自分らしく面接してくるしかない。結果はそれこそ神にゆだねるのみだ。

 ほかの受験者は、大学院卒業後の進路がほぼ決まっている。日本のプロテスタント・キリスト教の最大教団である日本基督教団の牧師となっていくのである。しかし僕はその教団に属しておらず、同じプロテスタントでも独立している歴史の短い都内の教会に属している。政党にたとえてしまってはいけないのかもしれないが、これをたとえば政党にたとえれば、既存の大政党に所属するのではなく、新興勢力で志はあっても将来性は断言できない立場でやっていく議員のようなものか。まあ、将来性は既存だから大丈夫、歴史が浅いから危ない、という考えを僕は持っていないから、このように生きているのだけど。

 つまり言いたかったことは、確率的、人間的に考えれば、明日入試を受けても、あさって自分が大学院に合格するかどうかはわからない状態であり、大学院に行けたとしてもその先にある大きな就職先が待っているわけではない。また大学院に行けたとなれば、経済的に楽でないのにまだ二年間私大に学費を払う負担を背負うことになる。しかし大学院に行けないときは、それはそれで自分のこれから生きる道を求めて探さねばならない。…そう考えていると、年齢的に結婚したいなと思ってみても、それはかなり難しいのかなとも思わされてしまう。(将来の就職については、どうしたらいいかちゃんと考えていますが。)

ふーっ。そんなことを考えていた1日だった。不安もないわけではないが、自由を感じた。この二ヶ月間いろいろあって、すべてはネット上に書けないのだけれど、だんだんスケジュールも含めて自分らしさを取り戻すだろう。大学院に行けても行けなくても、自分らしく生きて行きたい。

 

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やっぱりブログですね

2010-11-03 23:44:16 | 日記・エッセイ
本日のツイッター http://twitter.com/keizzo より

1 今日はカリキュラム上の都合で、休みではなく授業実施。しかし、明日木曜日は僕は毎週授業がないので、今晩は少しリラックスしてます。中日とロッテ、いい試合してますね。


2 今週土曜日は卒論の第二次チェック。提出までに四回チェックがある。専門の神学書を読んでみてわかってきたのだけれど、テーマとしていることの思いがけないところにカギや答えがある。テーマに文化が入っているだけに(プロフ参照)、寝しまに読む小説や今見ている野球すら関係してくるようで面白い。

3 というわけで、明日は卒論中心にやってく予定です。ブログなかなか更新できなくて残念です。ブログご訪問くださっている皆さん、どうもすみません。今週明けたらなんとか書きたいです。やっぱり僕はツイッターよりブログ派ですね。祝3周年、これからも続けていきます。

(ここからはブログです ↓ )
 みなさん、こんばんは。いつもご訪問ありがとうございます。なかなか更新できないのに、毎日たくさんの方々がご訪問くださり、感謝に堪えません。気がつけばけっこうな歳になり、実年齢よりは少し若く見られることが多いものの、まだ修行中なのに人生が折り返しを過ぎた感じもあり、まだ独身ということもあり、複雑な気持ちで過ごしてしまうことも以前より増えました。

 しかし、ここ1年半、数えきれないほど、吸収し切れないほどの知識を日々学び、その中でなんとかそれをまとまった形にしたいという想いと、そして心に塊のように留まっている「キリスト教と日本文化、キリスト教と文化全般」ということを、おそらく生涯かけて、それを自分が携わる教会と共にライフワークとして形にしていきたい、そのためにその青写真、設計図、ユーザーズ・ガイドとして論拠のある修士論文を大学院に進学して願わくば仕上げたい、という願いがもう一方で思いに募る今日この頃です。

 ここしばらく、勉強が忙しかったり、落ち込むことがあったり、ついツイッターに力を入れてしまったりで、ブログの更新がなかなかできませんでした。しかし、2007年10月末に旧ブログをスタートさせて以来(現ブログは2009年2月から)、3年が経ちました。実は本当にこのブログは一部の方が見てくださっているほかは、いったい誰がみてくださっているのか知らないんです。カキコミが少ない割に閲覧してくださる方が多く、どうしてこんなに見てくださる方がいるのか、不思議に思いながら続けてきました。おや、ロッテが負けましたね。自分は西武ファンなので、ついパ・リーグのチームを応援してしまいます。

まあ、それはともかく、このブログは3年前に、実はあるきっかけがあって始めました。それはあまり誰かに話すべきことでもないので、ここでも書くのは控えますが、自分の中では、「ああ、あのときから3年が経ったのか」という思いがあり、そしてそれはその時から、自分の中で新しいビジョンとしてスタートしたことでした。そのときには、3年後に大学生だったり、こんなにもたくさんの方々が訪問してくださっているとは予測できませんでした。更新なかなかできていないのに、訪問してくださるとは、毎年最下位の野球チームを観にきてくださっているような気がして、そして落ち込みやすい自分を応援してくださっている気がして、

とてもとても励まされてきました!

今日はベタなブログになってしまいましたが、本当にいつもどうもありがとうございます。
勉強をしながらブログに写真を用意するのが実はけっこう楽じゃないので、文章だけを基本のブログとして、これからも続けていきます。作文の練習みたいなブログですみませんが、いつかブログじゃなくて、○○賞でも取れるようにがんばりますって、何賞だよ。バカヤローッ。1、2、3、ダーッ! 

スミマセン、精神年齢は2000年くらいで止まっているようです。

がんばれ、日本が待ってるぞ。
確かな、価値観を。向こう見ずな、愛を。


~3周年記念・特別付録 スペシャル・プレイバック~
旧ブログ”さとうけいぞうのインディペンデント・ペレストロイカ”より
2008/1/30記事 「お笑いけいぞう?」  ←クリック!どうぞご覧あれ。

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夏が終わった

2010-09-10 23:37:29 | 日記・エッセイ


 今年の夏は本当に暑い日々が続いた。昨日から急に涼しくなり、それをどこまで信じていいかわからないが、心身には快い。私事だが、今日で前期の期末試験と期末レポートの提出が終わった。つまり4月から続いた勉強と夏休みは教会での実習、そしてその後はこの期末の課題という、実質的な休みのない日々(前期は毎日授業があった)が終わった。特に7月25日からの教会での実習から今日までの毎日締め切りに追われ続けるような、絶えず緊張と睡眠不足なのだが、それも感じないくらいの頭がどういう状態になっているかわからないような張り詰めた心身の状態にピリオドが打たれた。その結果が笑顔で後期を迎えられれば言うことはないのだが。

上の写真は、この9月から新築開業したICU(国際基督教大学)学生食堂の夜景を撮影したものである。メニューは少ないが、味はけっこうおいしく、さすが学食、値段が安い。そして何よりも建物の内外とも景観が良く、食事の際、座る位置によって椅子とテーブルの種類が別々で、照明の明るさもそれぞれで、ちょっとしたレストランかカフェテリアの雰囲気がある。9月に入って、僕が兄上と慕う年上の同級生とよく行ったので、そういえばそのときだけはホッとした時間を過ごすことができた。(東京神学大学の学生はICUの学食と図書館と売店を利用できる。 写真↓ ICU構内の森の中の道)



 東京神学大学は神学専門の単科大学なので、一般の大学と色々な面で違うところがあり、人数が少ないのも、3年生以上は本当に神学関連のものだけを学んでいるのも、学食がないのもそうであるが、かつて一般的な総合大学で学んだ経験があるものとしては、こんなに在学生のほとんど全員がしっかり勉強に打ち込まないと、よっぽど要領の良い学生を除いては、勉強について行くことができないという現実に、最大の違いを感じる。もっともそれは僕自身のかつて行っていた大学が、象徴的な日本のマンモス私立大学であったからかもしれないが。今回は夏期実習の後の短い時間で試験等の準備をしたので、成績は二の次、単位だけはしっかり取ることを目指していたが、正直うまく行かなかった科目もあり、不安も残るがやるだけやったので、気持ちを切り替えて後期に臨みたい。

 そんなわけでやることはすぐにも次のものが待っているが、とりあえずひと月半の闘いが終わったので、夕方早目にその兄上と打ち上げと称してそのICU学食に行き、しばし食事と歓談のときを持った。



 学食をあとにして、帰寮するため、しばらくICUキャンパス内を歩いた。6時を過ぎた頃だったが、もう辺りは暗くなっていた。
ふと気がつくと、辺りのICUの森に虫の心地よい音が響いていた。虫の声が聞こえる。疾走したこの夏の間、気づいたことがなかった。蝉や蜩(ひぐらし)は鳴いていても。

ICUの学生たちも言っていた。
「これ虫じゃね?」
「ほんとだ。秋だー。」

 そうだ。夏が終わったんだ。この走り続けた夏が終わったのだ。虫の音を聴くことなど考えもしなかった時間から、新しい季節に入ったんだ。三十を過ぎて新たな目標に進み、それがいつ見える形になるのか、しかし必ずそのときが来ることを信じて進み、早や十年近くになるが、それでも人生は進んでいる。
灼熱の日々はとりあえず過ぎ去ったが、新たに歩き出す、新しいステップが始まる。この季節を迎え、自分にとっては一つ歳をとるのもそうだ。この夏の成果が、これからの季節で実って行くのを願うものである。

 
(9/6撮影、朝明けの東京神学大学校舎)

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ありのままで生きるということ

2010-08-30 13:14:02 | 日記・エッセイ
 夏のブログを書くには、夏期実習のことや猛暑の学生寮ネタなどいろいろあるのだが、今回も、先日亡くなられたジョシーこと石原良人牧師に関連したことで、考えさせられたことあるので、それを書きたい。

彼がどんな牧師であったのか書ければもっと良いのだが、期末試験準備&レポート作成の幕間的な時間で今は書かねばならないので、そこまで書けないが、彼を象徴する言葉を思い出したので、それを記したい。こう言っていた。これはキリスト教に別に関心がない方でも、考えさせられる言葉だと思うので、続けて読んでもらえたらありがたい。一言一句は再現できないが、おおよそこういうことを言っていた。

「講壇で説教すること以上に、牧師にとって大事なのは、その講壇から降りた後だ。
その壇の下、つまり普段そばにいる隣の人と、どんな風に接っしているのかが大事なんだ。」



 何が言いたいのか。つまり、たとえ神に仕える牧師と言えど、講壇の上では凄い話や自分が凄い牧師であるかのように、悲しいかな演じてしまうこともできる。しかし説教ではなく、言わば講壇の下に行って、ふつうに、すぐそばにいる人といかに自然体で接しているのかが、もっと大事だと言うことだ。
もっと言えば、その牧師がありのままの自分で飾らずに背伸びせずに正直に生きていられるか、ということに、その牧師の真価が問われる、つまりその人の真価・生き方が問われるんだ、ということを彼は伝えたかったのだ。

 僕は彼の著書の中で残念ながら「ありのままで愛されたかった」という本はまだ読んでいない。たぶん彼の最終著作であるので、遅まきながら買って読みたいと思っている。それはそれとして、その「ありのまま」という言葉の意味は、この上に挙げた彼の言葉、そこから垣間見える壇上ではなく、壇下の、いや壇下というより、ふだんの素のその人の生き方や人間関係にそれは表わされるものだと思う。
 最近の日本相撲協会の力士や親方、床山などによる野球賭博問題で、ある有名な力士が最初その野球賭博への関与は否定したにも関わらず、後で前言を撤回して、実は関与していたことを認め、その結果、その力士はその偽証への責任を取らされることになった。これは例としては極端な例だろうが、わかりやすい例として彼は自分自身がやったことに、ありのままになることができなかった。自分を覆い隠さざるを得なかったのだ。



 先の説教壇に立って演技をする誘惑のある牧師の例にしても、その元・力士の問題にしても、いかに人間はありのまま生きることができないものを抱えている存在か、ということを石原牧師のその言葉を思い出しながら考えさせられた。また同時に、ありのままで生きられている人の強さを感じさせられた。彼はやっぱりそういう人だったな。

今はどうか知らないが、以前ラジオのテレホン人生相談(byニッポン放送)で社会学者・早大名誉教授で心理学関連の著書を多数書かれている加藤諦三氏が、その番組の冒頭で

「変えられることは変える努力をしましょう。
変えられないことはそのまま受け入れましょう。
起きてしまったことを嘆いているより、これからできることみんなで一緒に考えましょう。」

という台詞を言われていたと記憶している。この言葉は、ありのままから生きることをスタートすることについて語られた言葉と言ってよいと思う。
しかし先に述べたように、人間にはそのありのままで生き切れない、どこか自分を飾ったり、取り繕ったりしてしまうところがある。本当にありのまま生きられたら、生きることが自由になる。勇気もいるが、ありのままで生きられるかどうかが、人間、人生何が大事なのか、自分自身に問うことになる。

ちなみに、この加藤氏の言葉と似た内容で、宇多田ヒカルが彼女のヒット曲“Wait & See~リスク~”の中で、

「変えられないものを受け入れる力 
そして受け入れられないものを 変える力をちょうだいよ」

と歌っていたが、これは彼女らしいご愛嬌か。



 最後に、もしかしたら加藤諦三氏の言葉のもとになったのではないかとも思われる、20世紀アメリカを代表する神学者のラインホルド・ニーバーの有名な祈りの言葉を書いておきたい。
人がありのままで生きるために必要なものを表わした祈りであると思う。

「神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。」

この記事を書こうと思ったきっかけとなった、ジョシーと、都内某カフェでいっしょに語り合ってくれた友とに感謝しつつ。
急いで書いたので、不備や、考察が甘い点等あると思いますが、今後の課題として今日のありのままということで、お許しください。


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不安定に見える生き方

2010-05-18 21:30:39 | 日記・エッセイ
 皆さん、こんにちは。ここしばらく更新ができませんでしたが、その間も本ブログを多くの方々がチェックしてくださり、感謝に堪えません。ありがとうございます。

4月から新学期に入り、必要な科目をすべて履修登録してみたら、月曜日から土曜日まで毎日授業があることになり、昨年の火曜~金曜の4日間の授業とその勉強でも楽ではなかったのに、今年度はいざ週6日授業とそのための日々の勉強をやり始めてみたら、思いっきりやりがいはあるが、どうやったらこの学びの量に追いつくのだろう、という状態でこの5月半ばまで来てしまった。しかしその中で少しずつそのスケジュールに対応できつつあり、そして忙しいながら、かなり有益な授業の数々に今刺激を受けながら、ブログは更新できませんでしたが、充実した日々を過ごさせていただいています。



 ところで僕はよく銀座に行く。しかしそれは銀座らしい高い買い物をするためではなく、教文館という銀座の真っただ中にある書店に勉強のための専門書を買いに行くためだが、その帰りに銀座ではなく有楽町からJRに乗るため有楽町駅に行く。すると少し前の週末、そこから夕闇に映える金色のサクソフォンの音色が聞こえてきた。

その演奏者は、この数年間、年に二度ずつくらい都内で見かける演奏者である。彼はプロストリートミュージシャンの中村健佐(なかむらけんすけ)氏だ。都内で生活している人なら、実際に生でも見かけたことはあるのではないだろうか。僕が初めて彼を見たのが、2年くらい前、秋葉原のヨドバシカメラにほど近い秋葉原駅のガード下のようなところ。その後も3~4回出会ったが、いつも週末の夕暮れ時、ついを足をそちらに向かわせてしまう、都会の雑踏の中では、おや、と思わせるサックスの音色が遠くから聴こえてくるのであった。



 知っている方には説明不要だと思うが、もしかして僕も以前ブログで書いたことがあるかもしれないが、驚かされるのは彼の肩書と経歴である。まず肩書。「プロストリートミュージシャン」?何だそりゃ、の世界である。まあ要はストリート、野外の街頭での音楽活動、ストリートライブをやり、そこでアシスタントのような女性がオリジナルCDを販売しているのだ。そしてもう一つの驚きは、その経歴。くわしくは中村さん本人のオフィシャルサイト(→http://www.kensukesax.com/)で確認してほしいのだが、1962年東京都生まれ、青山学院大学を出て、本田技術究所に入社、エンジニアとして働く。27歳で独学でサックスを始め、音楽に目覚め、そして2002年本田技術研究所を退職、プロストリートミュージシャンとしてサックスを片手に歩み出す・・・どうだまいったか! というようなライフストーリーである。そしてこれまでもメディアの取材もいくつも受け、そして2005年にはあの、池袋にある東京芸術劇場で1500人コンサートを開催したというし、また演奏会などの情報を希望するファンは1万人を超えるという。それだけ実力と人気もありながら、しかししかしストリートにこだわり続ける。なんなんだよ、その心意気は。どうだ、まいったか。彼が夕暮れに奏でるその音色は、どうしても足を止めさせ、2~3曲聴いてしまう。先日もらったチラシには、こう書いてある。「ストリートを自らの音楽活動の基盤とする、音楽界で異色の存在。」

彼が年収どのくらいだとか、不安はないのか、と知りたい気もするが、簡単に知れるわけもない。夕暮れのサックスプレーヤーだけあって、表情はポーカーフェイス。たぶん、もうけは二の次にして、プロストリートミュージシャンとしての喜びと誇りをもって生きているのであろう。
そういう不安定に見える生き方も、それは他人から見れば、という話であって、問題は本人が与えられた人生を人と比べず、自分らしく、悔いなく精一杯生きているかどうかが、大切なことなんであり、それ以外は食べてさえ行ければいいわけであるが・・・

 僕自身も相当不安定な生き方をしている。僕は本人なので、不安定に見える生き方ではなく、実際不安定なのだ。ありのまま言うしかない。それは経済的にであり、また夢はあってもまだ実現に至っていないし、また実現できるかどうかやってみなければわからない。ただし、かつて公務員をしていた頃の同期の仲間に、僕がもう市役所を辞めた後に言われたことがある。

「きみが、退職してその道でうまくやって行けるかどうか、観察していこうと思ってる。自分も参考にしたい。」

まあその同期の彼がどういう意味で「参考にしたい」のか、彼も脱サラするのか、それはわからないが、僕の生き方をバカにせず、それなりに評価していてくれたのは、正直嬉しかった。
 最近、2回自分自身を人に語る機会があった。一つは、ほぼ初めて会った人たちの前で自己紹介を、ライフストーリーの紹介も兼ねて行った。もう一回は、今の大学の授業の中で行った。これは大変ユニークな授業なので、いつか本ブログでも取り上げたいが、臨床牧会教育という名の授業で、学生4人と教授1人で行っている小さな授業で、しかもその授業のある月曜日はうちの大学としては原則お休みの日なのに、その授業だけ特別行っているという授業なのである。だから本当に受講を希望している学生しか履修しない。その授業ではやがて、大学を飛び出し、少し離れた場所の病院で実習を行う授業なのだが、その実習前の段階で、課題で自叙伝を書き、かつその自叙伝を授業中に皆の前で読むということを行った。

不思議なもので、特にその自叙伝は自分の場合40年間を振り返ったので、時間も枚数も、精神力もかなり使った。そうしてみてわかったのは、自分は確かに不安定な生き方をしているが、しかし長い年月はかかっているが、10代、20代でよくわからず迷ったり、苦しんだりしていたが、40歳近くなってから「自分が今何をしていて、これからまた何をしたらいいのか」が、以前よりずっとよくわかるようになってきているのだ。まるで、数多いピースのパズルをわけもわからず組み合わせ、時にはそれを壊し、そしてまた別の方向から組み合わせ始めてみて、そんなことを繰り返しているうちに、気づいたらそのパズルに一つの絵が見え始めてきたかのように・・・。

「そうですね、そういうふうに人生を振り返ってみると、自分自身についてよくわかってきている人もいますが、それが数年でわかる人もいれば50年くらいかかる人もいるんデスネ。」と、アメリカから来られている担当教授は、愛される独特のイントネーションでこう日本語で語られた。

生き方と言うのは、それぞれ皆ちがうが、そこに全部が整っていなかったとしても、楽しさや希望があるかどうかー 本当に自分らしく生きているのかどうかー 
不安定に見える生き方も、リスクはあるがけっこういいものだ。中村健佐氏の生き方は簡単にマネできないが、あっぱれだ。自分もいつか世間的に言う「安定」を得ることがあったとしても、今この時を忘れないでいたい。
皆さんはどう思いますか。どんな生き方があなたにとってはふさわしく、安定した生き方でしょうか。
また!

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