いったいいつ更新するのか!
週1更新はどうしたんだ?
すみません、すみません。ちゃんと生きてます。さとうけいぞうです。
もっとちゃきちゃき更新してきたいのですが、こんな感じで時間と体力との闘いの日々でございます。でも今日は書くぞ! オー! ツ・ル・タ オー!(昭和のプロレスファンだけ盛り上がってください)
本当は予告済み記事などを書くべきなのだが、今日3/31は久々にちゃんとした休みらしい休みだったので、最後まで休みらしくテキトーに書こうと思う。(すいません)
さてさて、東京に何年住んでも仕事や生活の要領が悪いのか、いつも同じ行動や同じところしか行ってる感じがしないのですが、たまにちょっとちがうことをするとなんか頭が止まってしまうような感覚ありませんか?
デジャヴじゃなくて、動き続けた頭が止まってしまうような、「おっ、私はだれ? ここはどこ?」みたいな。
3月はそんなわけで、いろんなところに私用&半分公用で行ったんですね。
まずは所用で長野の実家に帰った。
地元に帰ると、まず時間が6年前に戻ってしまう。
まだそのころはまじめな市役所職員だったんですね。
ふまじめな素敵な先輩もいましたけど。
それからぼくの働いている教会が所有している宿泊施設が日光にあるんですが、そこはなななんと天然温泉つきなんですが、そこでの集まりに行ったんですね。1年ぶりに。
そこで恩師である、とある有名な牧師先生にお会いしたんですね。
いっしょに温泉につかったんですが、恩師に対してこういうのはなんですが、肉体的にはかなり老いた感じがしました。
ところがその牧師先生、講壇で説教を語り始めるとちがうんですよ。
モノがちがうんです。 そのいきおいと言うか、いのちと言うか。
「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」
という聖書の言葉がありますが、ぼくは短い間だったけど、改めてえらい人のもとで教わっていたのだと思います。
それから、母校である八王子にある○央大学に行きました。(バレますね)
用事は とある証明書の申請だったんですが。
証明書の発行が済んで、卒業以来3回めとなる母校のキャンパスを歩きました。
ほんとうに広いこのキャンパス、
そして変わらないこの丘陵から見渡す天と地を分けるスカイライン。
真っ青な空にそびえる近代的な校舎、
その知を越えて心と体全体を吹き抜ける丘陵の風。
時間が止まったように感じた。
10数年ぶりに学食で、当時のメニューを頼む。
その値段の安さに感動する。
周囲の現役生たちを見た。
当時と変わらないサークルのたまり場が、学食内に点在していた。
楽しそうだが、果たしてそれだけでいいのか。流されていないか。
自分はどうだったのだろうか。
自分は何もわからず、ただ大学がどういうものを与えてくれるところなのか、ぜんぶただ受けていたのだと思う。
その結果、何を大切にして大学生活を送らねばならないのか、つかめないまま終わってしまったのだと思う。
主体性が弱かったのだ。
ふたたび、丘陵を吹き抜ける風にうたれた。
当時、自分は何もわかっていなかったのか。
では、今はわかっているのか。
今わかってきたことがある。
それは、自分が何をわかるようになっていて、まだ何がわかっていないのか、
そのことを今は当時よりわかってきたのだと思う。
今日、満開の上野公園の桜を見に行ってきた。
さすがに桜の名所、息を飲む。
その中では、桜の花びらが吹雪のように舞っていた。
こんな光景に出会うことはそう無い。
「さくら舞い散る中に忘れた記憶と君の声が戻ってくる
吹き止まない春の風 あの頃のままで」
少し前の流行ソングを思い出す。
桜は、人に喜びとせつなさをもたらす花だと思う。
それでも1年でも長く、こんな息を飲むような桜を見ていたいと思う。
そしてその中で、少しでもせつなさではなく喜んでこの美しさを見ていたいと思う。
神様、あなたの造られたこの世界で、ひとりでも多くの人がせつなさではなく喜びの中で、この桜を見つめることができますように。
(BGM: チェンジス by デビッド・ボウイ /ほか)
※上記記事内の”少し前の流行ソング”は「さくら」by ケツメイシ
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さてさて、東京に何年住んでも仕事や生活の要領が悪いのか、いつも同じ行動や同じところしか行ってる感じがしないのですが、たまにちょっとちがうことをするとなんか頭が止まってしまうような感覚ありませんか?
デジャヴじゃなくて、動き続けた頭が止まってしまうような、「おっ、私はだれ? ここはどこ?」みたいな。
3月はそんなわけで、いろんなところに私用&半分公用で行ったんですね。
まずは所用で長野の実家に帰った。
地元に帰ると、まず時間が6年前に戻ってしまう。
まだそのころはまじめな市役所職員だったんですね。
ふまじめな素敵な先輩もいましたけど。
それからぼくの働いている教会が所有している宿泊施設が日光にあるんですが、そこはなななんと天然温泉つきなんですが、そこでの集まりに行ったんですね。1年ぶりに。
そこで恩師である、とある有名な牧師先生にお会いしたんですね。
いっしょに温泉につかったんですが、恩師に対してこういうのはなんですが、肉体的にはかなり老いた感じがしました。
ところがその牧師先生、講壇で説教を語り始めるとちがうんですよ。
モノがちがうんです。 そのいきおいと言うか、いのちと言うか。
「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」
という聖書の言葉がありますが、ぼくは短い間だったけど、改めてえらい人のもとで教わっていたのだと思います。
それから、母校である八王子にある○央大学に行きました。(バレますね)
用事は とある証明書の申請だったんですが。
証明書の発行が済んで、卒業以来3回めとなる母校のキャンパスを歩きました。
ほんとうに広いこのキャンパス、
そして変わらないこの丘陵から見渡す天と地を分けるスカイライン。
真っ青な空にそびえる近代的な校舎、
その知を越えて心と体全体を吹き抜ける丘陵の風。
時間が止まったように感じた。
10数年ぶりに学食で、当時のメニューを頼む。
その値段の安さに感動する。
周囲の現役生たちを見た。
当時と変わらないサークルのたまり場が、学食内に点在していた。
楽しそうだが、果たしてそれだけでいいのか。流されていないか。
自分はどうだったのだろうか。
自分は何もわからず、ただ大学がどういうものを与えてくれるところなのか、ぜんぶただ受けていたのだと思う。
その結果、何を大切にして大学生活を送らねばならないのか、つかめないまま終わってしまったのだと思う。
主体性が弱かったのだ。
ふたたび、丘陵を吹き抜ける風にうたれた。
当時、自分は何もわかっていなかったのか。
では、今はわかっているのか。
今わかってきたことがある。
それは、自分が何をわかるようになっていて、まだ何がわかっていないのか、
そのことを今は当時よりわかってきたのだと思う。
今日、満開の上野公園の桜を見に行ってきた。
さすがに桜の名所、息を飲む。
その中では、桜の花びらが吹雪のように舞っていた。
こんな光景に出会うことはそう無い。
「さくら舞い散る中に忘れた記憶と君の声が戻ってくる
吹き止まない春の風 あの頃のままで」
少し前の流行ソングを思い出す。
桜は、人に喜びとせつなさをもたらす花だと思う。
それでも1年でも長く、こんな息を飲むような桜を見ていたいと思う。
そしてその中で、少しでもせつなさではなく喜んでこの美しさを見ていたいと思う。
神様、あなたの造られたこの世界で、ひとりでも多くの人がせつなさではなく喜びの中で、この桜を見つめることができますように。
(BGM: チェンジス by デビッド・ボウイ /ほか)
※上記記事内の”少し前の流行ソング”は「さくら」by ケツメイシ
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