なかなか更新しないのでご心配をおかけしているけいぞうブログです。本日はくるみを食べながら書いております。
さてさて、何を隠そうまだ神学生をしている佐藤計ぞう。あと一年半ほどで終わる予定ですが(父からは何年かかってるだ。人生終わっちゃうぞ。と言われましたが ^^;)、東村山の現在の学び舎にはテレビがないのです。インターネットはかろうじて繋がりますが、新聞は朝日新聞一紙だけ、経費削減がその理由らしいですが。
となると何が問題かと言うと、相撲や野球が観られない、うー泣く、もとい、ラジオで盛り上がったりしているので、それは案外問題ではない。何が問題か。それは「世間がわからずに困っている」ということなのです。
神学生というのは、将来牧師になって行くので、まあ説教というものを語れるように訓練と研鑽に励むのですが、最近気づいたのですが、私がこの説教というものを準備していると数年前と比べてその質がよくなっているのではなくて、質が上がらない、もしくは質が下がっているのを感じるのです。それはなぜかと考えたのですが、どうも答えがわかった。それは「世間がよくわかっていない」からだったんです。世間で何が起こっているかわからないと、この世界や人々に関する問題意識なしで説教に取り組むことになる。そうすると説教に幅が出ない、奥行きも弱くなる。
20世紀を代表する神学者カール・バルトが「片手に聖書、片手に新聞」と言ったといいますが、私もこれではいかん、とりあえず朝日一紙だけだけど新聞を読もうと思い、先月末から走り読みだが新聞を読み始めました。そして気づいて見たら、寮の自室の机の上には大抵神学書があるのですが、そこにさりげなく村上春樹と風の谷のナウシカの原作コミックがあるではないですか。おおっ、こうなってくると何となく神学的思考で全体を捉えるバランスが出来始めたんじゃないかと思えるようになってきたのです。(ついでに書くと、今聴いている音楽はデヴィッド・ボウイの遺作『★(ブラック・スター)』です。ま、これはついで。)
さて話は新聞に戻るのですが、その新聞を見てみると、今月に行われる衆議院選挙のことが毎日話題となっています。自公勢力と希望維新、また立憲民主・社民・共産の三つ巴決戦と言われてますが、今度ばかりは投票しないと。まだ人には語れませんが、茶飲話程度には日本の国への憂いをきちっと語れるようになりたいなと。片手に聖書は大事ですが、それだけだと天上人になってしまい、応用が効かなくなってしまいそうで正直怖いです。おお、そろそろ書き終わりの時間だ。ではでは、最後に最近痛感していることを書きませう。
それは私が応援してやまない西武ライオンズに武隈祥太(たけくましょうた)という中継ぎピッチャーがいますが、彼はどんな場面でも辻監督の言う通りに登板して投げる、人呼んで「大車輪の便利屋」なる仕事をしている左投手のことなんですね。例えば他の投手陣はサブマリン牧田は7回に投げる、速球派増田は点をリードした9回に投げる、リードされた試合は大石が投げる、とかほぼ仕事が決まっているのですが、この武隈なる男は出番が決まっていないのです。5点リードした試合でも投げれば、同点でも投げるし、イニングの始めではなく無死一、二塁でも投げる。まさに便利屋、いつも文句言わずに「仕事、仕事っ」って感じでスイスイ投げている。
そして彼の数少ないグッズは見事売り切れていて僕も買えない。最近こういう人に憧れるんですよね。僕は神学生としてどちらかと言えば便利屋ではなく、これこれのスペシャリスト的に長く育てられたんです。しかし実際牧師になるための訓練を受けていると、スペシャリストよりも便利屋の大切さを感じる今日この頃なのです。その便利屋が無死一、二塁を内野ゴロ二つで仕留めて0点に抑えてしまう。いいですねー。さすが武隈。
つまり今日言いたかったことは、新聞でもナウシカでも武隈でも、そのような幅を持っていかないと、この世界で生きながら牧師、説教者として問題意識を持ちながらこの世に問いかけて行くことはできないんじゃないか、と言うことなんですね。それを短く言うと「武隈のようになりたい」。お後がよろしいようで(^^;)
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