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約束の地をめざして

I STILL HAVEN'T FOUND WHAT I'M LOOKING FORー めぐりあう人々と出来事とともに

大阪地検特捜部の証拠改ざん・隠ぺい事件について

2010-10-04 23:08:15 | 世相・ニュース・TV番組


 こんばんは。なかなかゆっくり丁寧なブログは更新はできないのですが、今日も短い時間で上記テーマについて、専門的視点ではなく、自分自身の背景からなる視点で書きたい。事件のくわしい概要は多く知れ渡っており、またネットニュースなどでも今からでも見ていただけるであろうから、割愛します。とにかく厚生労働省村木厚子元局長冤罪事件に関する、大阪地検特捜部のフロッピーディスクの証拠改ざん・隠ぺい事件のことについてです。

 自分は司法については素人である。だから検察についても、特捜についても世間並みか、あるいはそれ以下かもしれない。しかしそんな自分でもこの事件は本当に驚かされた。正義を貫くべき検察の、しかも特捜部が、何を目的に、映画やドラマでも考えつかないような、犯罪ストーリーの「見立て」に合うようにフロッピーディスクの改ざんを行わねばならなかったのか。

現在事情聴取中のため、真相はまだわからない。大阪特捜のエースと言われた前田恒彦検事が、プレッシャーの多い特捜の仕事の中で、自分の評価や積み上げた立場を守るためだったのか。あるいは大阪、東京、両方の地検全体を考えてのことだったのか。そして、その改ざんを告白した前田検事に対して「俺に任せろ」と佐賀元明前特捜副部長が言ったのか、言わないのか、まだわからないが、それで故意の改ざんから過失による改ざんとされるようにしたのか。あるいは、本当に過失だったのか。

 司法については素人だが、僕は公務員として長い間 市役所勤めをしていた。仕事はあまり出来る方ではなかったが、一応立場的には行政マンだった。その中で大切にされ、守らなければならないことは、市民からも業者からも、他行政機関から突っ込まれても、きちんと弁明でき、市側がまっとうな判断の上、この職務を成し遂げたことを言葉や、特に決裁文書で残すことであった。そこで市の信用と、そこに関わった担当部署や職員の信頼が高まっていったのである。その逆であったら、最悪、市は訴えられ、裁判で負けることになる。それで一職員が法的に責任を負わされることはめったにないとは言え、その後の人事や立ち位置には響いてくることはありうる。

だから、自分も現役の職員だった頃は、ずいぶん言葉と書類作成には気を使った。自分の場合、言葉はいまいち乱暴だったが(反省)、書類作成には本当に気を遣いすぎるくらい使った。まあ、すべてが完璧でしたとは言い切れないが、でも一所懸命やった。それは職務を全うしようとしてやったのだが、同時に自分が何か誰かに突っ込まれないように、また法的にひっかかることはないように、正直自分を守ることも常に考えていた。

しかし今回のこの大阪特捜の一連の事件は、何をどう考えて、何を守ろうとしてFDデータを改ざんしたのか、よくわからないのだ。故意であれば、何のために故意の改ざんをしたのかわからないし、過失による改ざんであれば、なぜそれを早々と公表して非を認めず、こんなになるまでそのままにしておいたのか、わからないのだ。僕の知識不足・情報不足かもしれないが。
どういう基準で、どういう判断をしたのか、その芯がはっきりわからないのだ。うまく説明できないが、彼らが故意でも過失でも、何を一番大切にしようとしたのか、わからないのだ。

 今日は僕の学んでいる東京神学大学で、受講者4名だけの臨床牧会教育という授業があった。メインワークは精神科専門病院の病棟内での実習だが、その中で担当教授と学生でグループディスカッションする時間もある。その中で、われわれ将来牧師をめざす者たちとして考えねばならないモラルの問題を話し合った。

当大学は小さな大学だが、勉強はかなりの量をやらねばならない学校なのである。だから知的にはかなり鍛えられる。しかし、知的な神学という学問を修めただけでは、その学びは必要だが、将来どこかの教会に赴任してから、それで牧師としてすべてやっていけるわけではない。その学びと並行して、人格形成、実践訓練、また社会人としての生活訓練が必要なのだ。だからあまりにも知的に学ぶ部分の神学に打ち込むだけだと、時にはアンバランスな学生や卒業生が排出されてしまう可能性がある。私たちが現実の社会でぶつかるのは、生身の人間であり、生の世の中の現実なのだ。その時に筋の通った社会人としてのモラルや、真実で誠実な人間関係が持てなければ、その人の語る言葉は説得力を持たない。

今日はその授業で、現在当大学の学生にありがちな社会人としてのまだまだ未熟な部分を、お互い反省しながら、将来この社会のただ中で牧師として生きる上で基本的なモラルについて改めて話し合った。その芯にあるのは、人が見ているかどうかではなく、人が見ていなくても、神の前に生きるひとりの人間として恥ずかしくない生き方と社会的責任を全うしていくことである。

 人のモラルとは、もちろんケースバイケースはあるが、大きな意味でシンプルなものである。だから今回の事件はシンプルさが失われていて、複雑な動機が絡み合っている気がするのだ。この社会の正義を本当に追及しなければならない機関が、根幹において、誰にでもわかる正義を貫く機関として、再出発するつもりで、誰にでもわかるように、この事件の真実を明らかにしてもらいたい。


けいぞうツイッターはこちら→ http://twitter.com/keizzo 

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えっ、前田が、民主党から出馬!何で、政治に!

2009-12-29 16:06:54 | 世相・ニュース・TV番組
前田日明、民主党から来夏の参議院選挙に出馬!

いつもこのブログを読んでくださってる方ならわかってくださると思うが、こういう更新は僕は普通しないのだが、あまりにも驚いたので速攻で書き込むことにした。くわしくは、このネットニュースで→http://news.nifty.com/cs/sports/fightdetail/nikkansp-p-bt-tp0-091229-0005/1.htm

自分も相当前田さんをリスペクトしている とはいえ、ありそうでなさそうなことが起こってしまってただただびっくりしている。
これを書こうとしたら、渋谷陽一さん がボブ・ディランのライブハウスでの来日コンサートにただただビックリしているブログを思い出したので、それもついでに良かったらご覧あれ。→http://ro69.jp/blog/shibuya/ (2009.12.22 22:46の記事)

日本魂でも読むか。



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小沢一郎は何を目指しているのか?

2009-12-22 19:04:34 | 世相・ニュース・TV番組


僕は政治については全くの素人である。
今も、政治に関する情報や理解は、テレビのニュースでチェックするのと、あと学生寮に届く朝日新聞で重要な記事や論説だけは何とか読むようにしているそんな程度の、少し歳が行った大学生である(専攻:キリスト教神学)。
しかし日本の一国民であるゆえ、ここでは専門的な解釈や意見ではなく、その程度の知識と理解のみではあるが、一国民としての問いかけをここに書いていきたい。

最近の与党・民主党幹事長、小沢一郎氏の動向や発言には目を見張らされる。

・天皇と中国副主席との面会について、宮内庁長官との”一か月ルール”についての会見を通したやりとり
・マニフェスト18項目の変更提言
・「キリスト教は排他的で独善的」発言
・永住外国人参政権の法案提出に関する会見
・来夏の参院選で「自民党を焼け野原にする」発言
しかしその絶大な剛腕指導力についての国民認知度が増大


大きな話題から、一部記事でしか報じられなかった話題まで書いてみたが、このようなところであろうか。ちなみに僕はかつて彼を陰ながら大変支持していた。もし自民党政権が細川政権以来もう一度倒れるとしたら、小沢一郎が再びそのフィクサーになるのでは、と感じていた。今も決して嫌いな人ではない。
彼は良い悪いは別にして、昔ながらの政治家らしいタイプ、つまりは「柄は悪いし、人望(人格的尊敬という点で)もそうはないが、凄みを持ち、結果として仕事はやりきる。結果、次の選挙での票は拡大する。ゆえに、信望する後輩議員たちも増えてくる。」ーというタイプの政治家が、その昔ながらの政治家のタイプと言えると思うが、小沢一郎はその系譜と言ってよい、というか彼以上に今そういう人はいないだろう。

ところでなぜ、オバマ大統領、東国原知事、橋下知事、それにかつての田中康夫長野県知事が支持されたのだろうか。この方々は、どこかその支持のされ方に共通点が感じられるので列挙してみた。
それは、彼らができるかぎり、一般市民の目線に立って政治を取り行おうとしている(田中康夫は結果は賛否両論あるが、とにかくそうしようとしていた)からではないのか。だから彼らは、古き良き言わば田中角栄以来の自民党体質の政治家たちとは明らかに違う視点と方向性で政治と市民を導こうとしているのが感じられる。この論理に現米大統領まで入れてしまって申し訳ないが。

ただ例外的に小泉純一郎元総理のかつての高い支持率支持については、彼らとは違い、絶叫型の小泉劇場、そしてワンフレーズポリティクスone phrase politicsと呼ばれた、個別のの問題・課題の本質から、人々の意識を離れさせ、別の興奮と本質を深く問わないその場の言葉によって、かつそれをわかりやすく、どこか耳に残る表現によって、「本質的でない結論」に導くワンフレーズポリティクスによるマニピュレーション(manipulation=巧妙な取り扱い、操作、ごまかし)であったと僕は思っている。
そして不遜な言い方で大変申し訳ないが、それを見抜けない国民が多かったのではないだろうか。果たして郵政民営化によって、社会はどれだけ変わったか。たしかに郵便局の応対は良くなったかもしれないし、その他にも利点はあったのだろう。しかし小泉首相によってそれ以外の事柄において、郵政民営化のみによってどれだけ世の中が変わったのだろうか。本当に良い方向に変わったのであろうか?それを考えれば明らかではないか。

小沢一郎は、ある意味昨今の日本の政治家の中で最も実力がある政治家であろう。
それはまちがいないと思う。この「無血の平成維新」と呼ばれる政権交代は、彼なしにはありえなかった。それからここ約15年間にわたる与野党の攻防は彼なしには語ることはありえない。

彼が率いる民主党は「国民の生活が第一」というキャッチフレーズだ。うん、それ自体を心地よく思わない国民はめったにいないだろう。しかし、それが仮にこれから実現していったとしても、「その先」にあるものはなんだろうか。
民主党自体はそのキャッチフレーズでクリーンに進み続けたいと願っているかもしれない。しかし現在、与党民主党の最高実力者は小沢一郎氏と見られ、また今や鳩山首相そして天皇まで動かしてしまう、事実上の国内最高実力者と言える存在になりつつあるのが小沢一郎氏である。



僕は正直、権力が二重構造、三重構造になろうが、その中心にいる小沢一郎氏の方向性や思想がちゃんとしていれば、国民の生活が第一であり、政治家や官僚が第一にならなければ、まあそれでもかまわないと思っている。少し偏った意見だとは思うが。

しかし小沢さんに関してよくわからないところは、「国民の生活が第一」それが実現した後で小沢さんは別の何かを願っているのか、「その先」にあるものは何なのか、ということなのである。
果たしてそれが実現したら、それだけ満足する本当の政治家なのか。そうではなく、あくまで日本を自分の力で舵を取り続けることに、その野心に酔いたいがためにずっと政治権力に留まりたいと願っているだけなのか。あるいは、さらにもっと金銭欲・権力欲に積極的になっていくのか。
もしそうであるとしたら、結果さえ残せば自分はどんなに尊大な存在となってもよい、ということになってしまう。日本の最中枢にいる方が、そのような真の心を失った状態でこの国を引っ張ってほしくない。

これはあくまで将来への不安である。僕の不安を書いたのだ。
とりあえず「国民の生活が第一」と語り、それを実現しようとしている間には、まだ「その先」の小沢さんの目指すところはよくわからないからだ。

小泉元首相はおそらく意識してマニピュレーションを行っていたと思う(頭がよくないとそれはできない)が、そうだとしたら、そうしてまでやりたかったことはなんだったのだろうか。彼の場合はおそらく権力に居続けたかったからではなく、「変人」と言われていただけあって、本気で「郵政民営化」をやればこの国は変わると思っていたのでそれを目指し続けたのだろう。(しかしその結果、正の変化も確かにあったと思うが、むしろ彼によるこの国の舵取りの結果は、負の遺産のほうが大きかったのではないだろうか。)
しかし小沢さんが権力の中枢に居続ける結果、彼が本当に求めているものは何だろうか。今はまだそれはわからない。

小沢さんはキリスト教に対しての11月10日の例の発言12月7日のそれに対する釈明コメントの幾つかの記事を読んでも、キリスト教に対する基本的知識はあまり持っていらっしゃらないようで(12/7に小沢さん自身聖書は読んだことがない、と発言)、11/10の発言は小沢さん自身のキリスト教に対する部分的な知識と印象で発言されているのが明らかとなったと思うが、その小沢一郎という与党幹事長であり、またある意味現在この国最大のリーダーともなりつつある方に、嫌味ではなく、純粋にこのイエス・キリストの言葉を贈らせていただきたい。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
(新約聖書 マルコによる福音書9章35節)

これはイエスが、自分の弟子たち12人が常に「弟子たちの中で誰が一番偉いのか」という議論をしていたので、彼らにこう語ったのであった。そして、そのイエス自身は十字架にかかって死なれる前夜、最後の晩餐を弟子たちと共にしたとき、その食事に先立って、弟子たち全員の足を洗い、真のリーダーは「仕える者である」という模範を示したのであった。

政権交代がどんなに起こっても、その政治家たちの本質や目指すところが旧態依然でもし変わらなかったら、それは何も変わっていないことになる。小沢一郎さんに限らず、国を司る方々には真の意味のリーダーとなってほしいと切に願うものである。


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中央大教授刺殺事件から思うー生きるとは

2009-05-26 19:41:57 | 世相・ニュース・TV番組
今年の1月14日に中央大学後楽園キャンパス(理工学部)で起こった高窪統(はじめ)教授が何者かに刺殺させられた。世間、特に教育関係者、大学関係者を震撼させた事件であった。それから約4カ月後、先週5/21(木)に事件の容疑者である山本竜太容疑者が逮捕された。高窪教授とそのご家族の無念さと悲しみはいかばかりであろうか。

僕はこの事件には特別な思い入れを感じている。理由は二つ。一つは僕自身が中央大学の卒業生であること。もう一つは神学大学とは言え、僕が現役の大学生であるということだ。まともに書いたらかなり長くなりそうなので、コンパクトに書かねばならない。

中央大学(以下、中大とする)後楽園キャンパスとは東京都文京区にある理工学部のみのためのキャンパスだ。その他の学部はすべて多摩キャンパス(八王子市)にある。僕はその多摩キャンパスにある経済学部で学んだ。ちゃんと学んだかどうかはともかく、とにかくその多摩キャンパスで4年間過ごした。その4年間の中で、数回だったか10回くらいだったか記憶は定かでないが、多摩キャンパス図書館にはない本を探しに後楽園キャンパス図書館に行き、図書館に行った後はよく同キャンパス内の学食で食事をとった。これが僕にとっての後楽園キャンパス・理工学部の記憶である。

自分にとっては多摩キャンパスも後楽園キャンパスも、とても気楽な場所であった。しかし今回の容疑者逮捕以前に水道橋の近辺の某大学の前を通ったら、大学入口に張り紙か立て看板で「先頃の中央大学で起きた教授殺害事件を踏まえ、当大学では大学構内に入ることに関しては・・・」云々と、危機管理を強めた文章が掲示されていた。開かれた学び舎である大学に緊張感が生み出されざるを得ない事件となってしまった。

今回の事件について、山本容疑者ははっきりとした動機を現在まだ語っていないようだが、どうも高窪教授に何かしら不満があったらしい、と報道では伝えられている。それがどうも学部生時代ではなく、山本容疑者が卒業後何度目かの就職活動の相談に高窪教授を訪れたのか、訪れていないのか、それがよくわからないのだが、その当たりで容疑者は教授に不満を持ったのではないか、と言われている。
しかし報道から受ける印象からすると、高窪教授はかなり山本容疑者について気を使っていたのではないか。学部のゼミ生だった頃も、教授は山本容疑者に特別な配慮をして、引っ込み思案な彼に声を何回もかけていたと聞いた。



ここからは、この事件に関連して僕個人が感じ考えさせられたことを書く。事件と直接関係のないこともあるが許してほしい。

師弟関係というものは良いものでもあるが、複雑なものでもある。
僕は現在の師匠(牧師)には、感謝してもしきれない。それは教えの面で、指導の面で、またその都度その都度次なるステップへの道付けの面で、それら以上に師弟関係を超えた友情の面で、感謝してもしきれない。一生かかってもこの恩は返せないと思うが、また師匠は何かモノで返してくれと言う人じゃないことを僕は知っている。僕がなんとか一人前になって、僕の人生に与えられている使命に邁進して生きてさえくれればそれでいいと思っている人だ。

しかし「複雑だ」と書いたのには、理由がある。それはそんな素晴らしい師匠・恩師であっても、彼も人間である、ということだ。つまりは、間違いや失敗はある人だということなのだ。しかし僕はその面も含めてひっくるめて、師匠を尊敬している。それは長く師匠を見ていると、時間はかかってもどんどん良い方向に生き方考え方が進化しているからだ。ピンポイントだけで見たら、正直「この人にほんとに俺はついて行っていいんかな。ちょっと大丈夫かな。」と思うこともあった。しかし長く接していると、生き方考え方の柱がとてもしっかりしているということがわかるので、ピンポイントでたまにおかしいときも「ああ、久々にまた出たな~(笑)」くらいでそんなに気にならない。逆にそれも人間くさくていいな、と思う。

報道を聞く限り、高窪教授は教師としても私人としても大変バランスのとれた人格で信頼と尊敬を受けていた方だと聞く。もし、もし、そんな高窪教授のわずかな言葉のミスがあったとしたら、そしてそれが容疑者の怒りを買ったとしたら、もう本当に同情してもしきれない。しかし推測ではあるが、高窪教授の人格と容疑者の性格を考えたとき、そのようなことはなかったであろう。おそらく容疑者本人独自の理由ではないか。。いずれにしても!山本容疑者のやった行為(殺害)は、自分の人生の責任のすべてを高窪教授になすりつけてしまったように思える。(まだ動機が明らかでないので、断言は差し控える。)

自分の人生の責任を人になすりつけることは、自分の人生を自分が生きていないということだ。自分の人生は人が、自分ではなく他者がカギを握っているということだ。そんな人生何が楽しいんだよ。

誰も一人だけで生きていける人はいない。もちろん誰かの助けを受けて生きている。僕が言っているのはそうではなく、誰かの助けを受けて生きていながらも、その人が自分のことを助けることができなくなった時も、それまでのことを感謝こそすれ恨むことは一つもない、ということを言いたいんだ。あとはそのときに自分ができる精一杯のことをすればいい。僕だったら、精一杯のことをしたら後は神に祈り、最善がなされることを信じて行く。

今回の容疑者については、彼の心の弱さには同情する。人とのコミュニケーションがうまくいかなかったこともしかり。僕も人知れず、約7年ノイローゼを抱えながら仕事をしていたこともあった。やっとやっと人とコミュニケーションをとっていた。仕事の効率も悪かった。

しかしこの容疑者は何か、人生についての考え方の柱がずれていたところはなかったか。しばらく前5/3の朝日新聞の「仕事力」に坂本龍一が仕事について語っていた記事から一部以下に引用する。

「2年ほど前に、ある大学に招かれて行った時のことです。学生たちが僕に、自分たちを元気づけてくれと発言したのですね。モチベーションをあげるための言葉を聞きたいということでした。僕は、普段あまり語気の強い話し方をしないし、音楽を仕事にしていることもあって柔らかいイメージを持たれているかもしれませんが、この時ばかりは頭にきて、「甘ったれるな!」と思わず怒鳴りつけていました。なぜ自分でやらないのか、なぜ自分のチカラを振り絞って少しでも前へ進んでいかないのか。情けなかった。

ただそこに待っていたら、誰かが自分を見つけてくれて、行く先を示して背中を押してくれるなんて、おかしいと思いませんか。自分のやりたい本当のところは、自分にしか分からない。自分でしか探し出せないからこそ、その仕事は輝くのだと思うのです。怒ったり、怒鳴ったりしてしまうことさえ、実は甘やかしていることなのかも知れません。それでも、思わず激した僕の様子を見て、彼らが何かを感じてくれたらいいが、と思います。



・・・自分がもがいて、求めて、ある仕事に就く。その立場で何ができ、世の中がどんな風に見えるのか。正直に何を感じるのか。そういう一つひとつのことが大切なんだと思います。企業人として、あるいは仕事上の立場があるからと、自分の考えることや感じることを封印できますか。
最後は、僕はどう考えるのかと自分に返ってくる。仕事も生き方もです。甘えないというのは、自分をごまかさないということだと思うし、既成の価値観でなはく、自分は自分だと覚悟することでしょうね。」 (以上、坂本龍一・談)

すっかり長くなってしまったので、そろそろ終わりにする。
僕は長い間、公務員をやっていた。そのまま公務員を定年までやり続ける可能性もあった。しかし30歳になった頃から自分の本心と人生を見つめる中で、公務員を辞めて別の生き方をすることに心定まった。

中大経済学部にいたときは、実はそこは第一志望ではなかった。別に行きたいある大学の国際政治関係の学科があったが、そこは最善を尽くしたが落ちてしまった。そこで志半ばで中大経済学部に行ったが、いい4年間を過ごさせてもらったが、本業の勉強については本来の希望学科ではなかったので煮え切らない4年間であった。

僕はこの春、東京神学大学3年次に編入させていただいたが、日本に数ある牧師養成の神学校の中でも、東京神学大学はめずらしい文部科学省認可の正式な大学である。僕は2005年に一つ神学校を卒業した後、もっとさらに深く神学を学びたいという思いを持っていたが、それがこの2009年春実現した。そしてそれは単なる神学校ではなく、神学大学であった。勉学において煮え切らない4年間をかつて過ごした自分にとって、深めたかった神学をこうして今学び、あのとき置いてきた「大学での学び」が今17年ぶりに実現していることは、人生の中の不思議としか言いようがない。

21年前、18歳で大学受験で本命の大学に落ちて国際政治を学べなくなってしまったときに、あるクリスチャンのご婦人が語ってくれたイエス・キリストの言葉を今感慨を持って思い出す。

「わたしのしていることは、今はあなたにはわからないが、後でわかるようになる。」 (新約聖書・ヨハネの福音書13章7節)

人生とは不思議なものである。その中で私たちは本当の自分自身を見出して生きて行くのだ。簡単にあきらめてはならない。


(中央大学・多摩キャンパス校舎)

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プロフェッショナル仕事の流儀「ホームレス支援・奥田知志」 の回を見て

2009-03-13 08:38:02 | 世相・ニュース・TV番組
僕は基本的にちゃんとほぼ毎週、5回に4回は見ているテレビ番組は二つしかない。一つはよくこんな番組が成り立っているなと思いながら見ている「モヤモヤさまあ~ず2」(説明できない番組なので説明しない)。もう一つがNHKの火曜夜10時の傑作番組「プロフェッショナル仕事の流儀」だ。旧ブログでも取り上げたことがある。

今週火曜日(3/10)は、特にどうしてもこれを見たかった。というのは、100回を超える放送の中でおそらく初めて「牧師」の人が取り上げられるからだった。本ブログではいろいろなテーマを書いているが、本業・牧師(まだ研修生ですが)の自分としては絶対見たい、いや、先を越された感があって(出たかったのか!)見逃せなかった。しかしそういう日に限って本業が長引き、時間ギリギリに帰宅して30秒遅れくらいで見始めた。


(↑プロフェッショナル仕事の流儀・茂木健一郎氏と住吉美紀アナ)

今回は「絆が、人を生かすからーホームレス支援・奥田知志」という特集であった。この奥田知志さん は北九州の方で、職業人としては二つの顔を持っているようだ。一つはホームレスの方々の自立支援を行っているNPO法人(北九州ホームレス支援機構)の理事長であり、そしてもう一方の職が教会の牧師である。今回はホームレス支援活動家としての見地から特集された。人気番組だからきっと多くの方がご覧になっただろう。

実際に路上生活の方に奥田さんが声をかけるシーン、奥田さんがなぜホームレス支援を志すようになったか、そして一人の方の自立を待ち続ける姿・・・などが映し出されていった。
奥田さんは、ホームレスとは単に衣食住を失った人々ではなく、家族との関係など「絆(きずな)」を失った人々だととらえている。そして彼らを支援を行うことで彼らの「ホーム」となる、という覚悟を持って関わっていると言う。(詳しくはプロフェッショナル仕事の流儀・公式HPへ→http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/090310/index.html

その中で奥田さんの言われた一つの言葉が特に心に留まった。

「”ホームレス”という人は一人もいないんです。ホームレスではなく、それは「田中さん」という人であり、「山田さん」という人なんです。」

その人を「ホームレス」という種類の人として関わることと、名前と人格を持った一人の人として関わることは、同じ「関わる」ことでもそこにあらわれていくお互いの関係はどれだけ違うものとなるだろうか。単に、助ける人と助けられる人、という関係を越えて、お互いの間に親愛の情、真の信頼関係が生まれるのではないか。

・・・番組では、最後に「まっちゃん」(松井さん)という一人のおじさんの一時外出に際して、まっちゃんがお金を使いきってまた元の生活に戻ってしまうのか、いや、必要なものにだけお金を使用して帰るべき約束の時にちゃんと帰ってくるかを奥田さんがまっちゃんを信じて待つ、という出来事を映し出して終わって行った。

今回の番組は、番組公式HPや、司会者の茂木健一郎氏のブログ住吉美紀さんのブログを見ても、司会のお二人にとっても、コメントを書き込んでいる視聴者にも大好評であったようだ。興味を持たれた方は再放送(NHK総合;3/17(火)午前1:00~1:45予定)をご覧になられたらいい。

今回はホームレス支援活動家としての見地からの番組であったが、僕なんかが見ているとこの奥田さんの語ること、その活動の様子にやはりプロテスタントの牧師らしさ、教会らしさが漂っていた。同じ牧師業でも、まだ今僕はあまり外部への奉仕活動や宣教活動にたずさわれない仕事をしており、どちらかと言うと、教会と師匠牧師の活動を円滑に進めるように働くアシスタント兼マネージャーのような仕事をしている。つまり教会内部の運営・活動にかかわる仕事だ。
また僕の教会自体ではホームレス支援活動をしていないが、しかしうちの教会のメンバーの何名かは、他教会が行っている上野公園でのホームレス支援活動に関わり、そこで中心的に奉仕活動をしている。

しかし今回の番組を見ていると、心配な人の帰りをずっと待つ姿勢、心配な人に声をかけ、そしていっしょに食事をし、その人のことを思い、彼のためにみんなで話し合うところ・・・すべてが教会ではなく、むしろNPO法人の事務所での出来事の方が多かったが、その人への関わり方のスタンスに教会らしさが漂っていた。特に最後の「まっちゃん」の出来事の現場はほとんど教会の会堂内だったようだ。

だから僕が見ているとあんまり違和感がなかった。先ほど番組公式HP内のブログでも評価が高いと書いたが、むしろ僕は違和感がなかっただけに、途中妙にあまり刺激を覚えず、面白さは感じない時間も正直あった。むしろなぜこういう日常感あるものがテレビでやっているのか、そんな思いを自分はしてしまった。不思議なものである。しかしこうしたホームレス支援や教会における人々への関わり方をあまり知らない方々にとってはきっと新鮮だったのではないだろうか。

キリスト教や教会は、欧米や韓国ではともかく日本ではマイノリティー(少数派)だ。でもこのように教会や牧師の持つ一つの使命がわかりやすい形であらわされ、結果としてNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」というメジャー番組であり憧れである番組に取り上げられたことは、同じ道で生きている者にとっては少なからずうれしかった。
それとともに、牧師として生きる者が教会の外でも自分に与えられた使命を果たして生きて行く、ということの大切さを改めてこの心に刻みつけられたひとときとなった。茂木さん、住吉さん、そして良い番組を作ってくださったスタッフの皆さん、どうもありがとうございました。これからも質の良い番組作りを期待しています!


 (←奥田知志さん)


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政治家の責務、他人事(ひとごと)ならず。

2009-02-21 19:32:32 | 世相・ニュース・TV番組


「あの~、ふうっ~。」

「どこだ?」

いや、見事でしたね、中川昭一前財務・金融相のローマG7での「もうろう会見」。
辞任に追い込まれるほどの失態だったに関わらず、何度見ても笑ってしまったのは、僕だけではあるまい。

中川氏はこれにより、大臣として政治家としての資質が問われてしまったが、もちろん今もう一人、麻生総理がその資質を問われている。漢字の言い間違いの多さはあきれて物も言えないが、発言がころころ代わり、それに対して言い訳としか思えない答弁を繰り返しているのは残念ながら「そういう人」なのであり、「そういう人は総理はおろか政治家にもなるべきではない」と言いたくなってしまう。

格闘技の世界では、時に「ダーティーチャンプ」と呼ばれるチャンピオンが現れることがある。それは相手をノックアウトせず、引き分けや判定勝ち、はてまた反則勝ち・反則負けでとにかくタイトルを防衛し続けるチャンピオンのことである。
そういうチャンピオンは人気がなく、ヒール(悪役)化してくる。試合を見ていても、鬱々としてきて、ストレスがたまる試合になってしまうからだ。過去の有名なダーティーチャンプは、プロレスではリック.フレアー、総合格闘技ではガイ・メッツァーがそうだった。プロレスの場合は、そもそも怪しさが人気のひとつでもあったので、リック・フレアーなんかはダーティーチャンプであってもそれなりの集客力はあった。それは相手を輝かせる役割も果たし、自らもハンサムなヒールだったから魅力もあった。

しかし麻生総理は、もう昨秋に自らに転がり込んだチャンピオンベルトを、ただただ守りたいだけのダーティーチャンプだと言っていい。大和魂も武士道精神もない、反則防衛、両者リングアウトの灰色決着で観客の不満がたまり、客が減り続ける中で、

「おれこそが全日本自民党プロレスの社長で、メインイベンターで、チャンピオンだ! 客はまた戻ってくる。おれのカリスマ性があれば!」

と叫んでいる裸の王様と言えるだろう。僕の旧ブログでは福田総理辞任の胸くそ悪いシナリオに対して冷静に意見したことがあったが、支持率13%の首相になら、申し訳ないがここまで言ってもかまわないだろうと思う。

言葉や行動に責任を持つのは、政治家にだけ必要なものでないが、特に政治家には必要とされるものだ。ジョージ・W・ブッシュに世界中あまり期待はしていなかったと思うが、それでも彼はアメリカ人の中でも熱心なクリスチャンだと言うことで、僕のような同じ信仰を持つ者や、多くのアメリカ人の保守派のクリスチャンたちは彼にいくらかの期待はかけていたのではないか。
しかし彼はそれを見事に裏切り、かつ、とてもまともなキリスト教徒とは思えない決断の数々により、多くの人の命を失わせたことはとても胸が痛く、悲しい。



また先週2/14(土)の朝日新聞の国際面に大きくカラーで、現在のローマ法王・ベネディクト16世の大失態が報じられていた。内容は、すでにあることで破門されていた司教が、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を疑問視する発言「ナチスのガス室で殺された者はいない」という発言をし、批判が巻き起こっていたのに関わらず、法王ベネディクト16世はその司教の破門を解除してしまったのだ。

法王ベネディクト16世はこれまでも別件で不用意な発言をしたことがあり、重なる失態そして不人気さのゆえに、バチカン巡礼者も法王就任時の頃の約3分の2に減っているという(100万人減)。しかも今年はバチカン市国成立80周年という記念の年なのに、とても祝賀ムードどころではないそうだ。

「必要なのは、こうした真理に立ち返ることだ。今私たちに求められているのは、新たな時代の責任の時代だ。それは、一人ひとりの米国人が、私たち自身や我が国、世界に対する責務があると認識することだ。」

ーと、大統領就任演説で語ったオバマ米国新大統領は、その言葉を遂行し続けることはできるだろうか。古い話だが、僕は自分が大学1年生のころ、同じサークルでお世話になった尊敬する先輩の言葉を忘れることができない。当時まだ10代の僕が、サークルの活動にしても、何かの行事への参加にしても、行くかどうか、参加するかどうか発言が二転三転するあやふやなことが多かったので、その先輩が

「計くん、人が人を信用するというのは、言ったことと行動していることが一致しているかどうかで、人は信用されて行くんだよ。」

と言われた言葉を今も忘れることができない。

よく考えれば、中学生が教えてもらうような内容の言葉だが、当時の自分はそれすらそれまでわかっていなかった愚か者であった。しかしそのことをわかっている今、自分はこの先輩の言葉を実行できているだろうか。最近も、牧師研修生として近くで師匠牧師のようすを逐一見ているに関わらず、確実に言葉や応対で誤ってはならないところで、残念ながらいまだにあってはならないミスを犯すことがある。そして、やがて自分の言動や行動が今まで以上に人の人生と自分の人生を左右するときがやって来るであろうと思う。これらのニュースを見るときに対岸の火事とせず、我が身を省みながら生きて行きたい。


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