このブログをやめてしまった訳ではないのですが、なかなか更新できずに三年以上経過してしまいました。読んでくださっていた皆様には大変申し訳なく思っています。
そこで、今日三年以上の空き時間を経て、急きょ更新することにしたのは、以下の記事は自分のFacebookで書いたのですが、これはいずれ流れてしまうSNSのみで残すには少々もったいなく思い、ブログでも残そうと思ったからです。書き下ろしでなく、重ね重ね申し訳ないのですが、それでもブログに残しておきたいと思ったので、以下の内容で更新させていただきます。それでは本編開始です。
本日午後オンライン(zoom)にて、関西セミナーハウス主催の修学院フォーラム「社会」第2回「キリスト教徒はコロナ禍をどう見るか」(講師:佐藤優氏、作家・元外務省主任分析官/写真)に参加しました。鉄は熱いうちに打て、ということで、自分の理解をまとめるためにも、感想を書いておきたいと思います。
「感想」と書きましたのは、佐藤氏の講演内容詳細を理解す流のが困難で、講演内容のレポートは無理だと判断したからです。講演の重要なところのみ通しで理解できたという次第です。ですから「感想」を書きますと、講演と質疑応答により二時間半の内容でしたが、さすが佐藤優氏!幅広い知識で多様な講演内容で、最後の結論を導き、また質疑応答では、今回の講演内容と関係のない、今後のアメリカ政治の行方について、また中国の今後について、また人工知能について、語学習得術についての質問などについても答えられていました。
それでは講演本編について、可能な限りで記しますと(全体を追うのは無理。録音録画も不可。)、前半は、いわば社会問題としてコロナ禍をどう見るか、ということでキリスト教の視点は抜きにしてコロナ禍について語られました。ユヴァル・ノア・ハラリの『パンデミック』や、フランスの人口学者エマニュエル・トッドの『エマニュエル・トッドの思考地図』からの解釈などから話をされ、世界各国によるコロナ対応の違いなどを語られました。理解したかったのですが、途中からノートを取るのをあきらめました。いかに一般的な教養が大切なのか、思い知らされた次第。
その社会的分析が終わって、次にキリスト教のおもに「神義論」(神はなぜこの世界に悪の存在を許すのかという神学的議論)の立場から講義されました。この段においては、カトリックの神学者クラウス・フォン・シュトッシュの『神がいるなら、なぜ悪があるのか』やチェコの神学者ヨセフ・ルクル・フロマートカの『人生の途上にある福音』などから引用しつつ、神義論的立場からこのコロナ禍についての考察がされました。
こちらは少し内容がわかりました。少しですけど。悪とは三種類あって、⑴形而学上的な悪⑵道徳悪⑶自然悪とあり、この中で自然悪が一番議論しづらく、このコロナ禍は道徳悪と自然悪に関係してくると言う(最もコロナ禍自体は道徳悪にも関わると思いますが、新型コロナウイルスの発生自体は自然悪と解して良いでしょう)。
この自然悪自体は、限られた自分の知恵では解明できず、またわれわれの力では克服できない悪があると語られました。この自然悪については、コロナ禍も東日本大震災もしかり、神がどう関わっているのか「わからない」というのが、神学的には正しい答えだと言われました。そして、人間はこの世界の支配者ではなくて、キリスト教的には神からこの世界を委託された管理人であると。その中で、このコロナ禍においてキリスト教徒は、このすべては解明できない中で、神から託されたこの世界の管理人として、少しずつできることをやっていくことが大切だということを語られて、講演本編は終わりました。実に重厚で教養が深い内容でした。
感想の総括としては、この新型コロナウイルス感染症が自然悪であること、それは神が関与しているのかどうか神学的には「わからない」こと。そして、道徳悪(感染予防の未熟さ)の残る中で、私たちのできることを少しずつでもやっていくということ、それだけも理解できたことで個人的には良しとしたいと思います。しかし、この講演を聞いて、さらに神学において深く、また教養において広く学んでおかないと、このような社会的またキリスト教的な議論について行くことは難しいと思いました。
佐藤優氏が凄いのは勿論ですが、自分も東京神学大学という神学部専門の単科大学で学んできたのですが、どうも佐藤氏が学ばれ、また今教鞭を取られている同志社大学神学部では、「教会のための学」がメインの東京神学大学とは違う学びをされている感は否めませんでした。まあ、それはそれで将来の方向性が違うと考えられるので、引け目に感じることでもないとは思いますが。しかし、その多様性という点では羨ましくもありました。
最後に質疑応答の中で佐藤氏が同志社大学神学部のご自分のゼミ生について語られたことを書いて終わりにします。佐藤氏は、同志社大学での教鞭を確か聞き違いでなければ2021年度からはお辞めになるそうですが、その理由は学部時代から教えてきた学生たちがこれで社会に巣立つから、ご自分の体力的な理由からこれを機に教鞭を取ることから退くということでした。その教え子は20数名(22名?)から始まったそうですが、教会教職(牧師)を目指す学生はゼロだったそうです。そして今日まで彼らを指導してきて、ご自分の言われたことを理解して、これは社会で通用するなと思わされた学生は5名のみだそうです。…確かに今日のような講演を理解するだけでも大変なのに、かつそれを行動で表せる学生を育つのは、容易なことではないでしょう。
以上、本日の講演と質疑応答の感想レポートでした。最後までお読みくださった方、ありがとうございました。
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そこで、今日三年以上の空き時間を経て、急きょ更新することにしたのは、以下の記事は自分のFacebookで書いたのですが、これはいずれ流れてしまうSNSのみで残すには少々もったいなく思い、ブログでも残そうと思ったからです。書き下ろしでなく、重ね重ね申し訳ないのですが、それでもブログに残しておきたいと思ったので、以下の内容で更新させていただきます。それでは本編開始です。
本日午後オンライン(zoom)にて、関西セミナーハウス主催の修学院フォーラム「社会」第2回「キリスト教徒はコロナ禍をどう見るか」(講師:佐藤優氏、作家・元外務省主任分析官/写真)に参加しました。鉄は熱いうちに打て、ということで、自分の理解をまとめるためにも、感想を書いておきたいと思います。
「感想」と書きましたのは、佐藤氏の講演内容詳細を理解す流のが困難で、講演内容のレポートは無理だと判断したからです。講演の重要なところのみ通しで理解できたという次第です。ですから「感想」を書きますと、講演と質疑応答により二時間半の内容でしたが、さすが佐藤優氏!幅広い知識で多様な講演内容で、最後の結論を導き、また質疑応答では、今回の講演内容と関係のない、今後のアメリカ政治の行方について、また中国の今後について、また人工知能について、語学習得術についての質問などについても答えられていました。
それでは講演本編について、可能な限りで記しますと(全体を追うのは無理。録音録画も不可。)、前半は、いわば社会問題としてコロナ禍をどう見るか、ということでキリスト教の視点は抜きにしてコロナ禍について語られました。ユヴァル・ノア・ハラリの『パンデミック』や、フランスの人口学者エマニュエル・トッドの『エマニュエル・トッドの思考地図』からの解釈などから話をされ、世界各国によるコロナ対応の違いなどを語られました。理解したかったのですが、途中からノートを取るのをあきらめました。いかに一般的な教養が大切なのか、思い知らされた次第。
その社会的分析が終わって、次にキリスト教のおもに「神義論」(神はなぜこの世界に悪の存在を許すのかという神学的議論)の立場から講義されました。この段においては、カトリックの神学者クラウス・フォン・シュトッシュの『神がいるなら、なぜ悪があるのか』やチェコの神学者ヨセフ・ルクル・フロマートカの『人生の途上にある福音』などから引用しつつ、神義論的立場からこのコロナ禍についての考察がされました。
こちらは少し内容がわかりました。少しですけど。悪とは三種類あって、⑴形而学上的な悪⑵道徳悪⑶自然悪とあり、この中で自然悪が一番議論しづらく、このコロナ禍は道徳悪と自然悪に関係してくると言う(最もコロナ禍自体は道徳悪にも関わると思いますが、新型コロナウイルスの発生自体は自然悪と解して良いでしょう)。
この自然悪自体は、限られた自分の知恵では解明できず、またわれわれの力では克服できない悪があると語られました。この自然悪については、コロナ禍も東日本大震災もしかり、神がどう関わっているのか「わからない」というのが、神学的には正しい答えだと言われました。そして、人間はこの世界の支配者ではなくて、キリスト教的には神からこの世界を委託された管理人であると。その中で、このコロナ禍においてキリスト教徒は、このすべては解明できない中で、神から託されたこの世界の管理人として、少しずつできることをやっていくことが大切だということを語られて、講演本編は終わりました。実に重厚で教養が深い内容でした。
感想の総括としては、この新型コロナウイルス感染症が自然悪であること、それは神が関与しているのかどうか神学的には「わからない」こと。そして、道徳悪(感染予防の未熟さ)の残る中で、私たちのできることを少しずつでもやっていくということ、それだけも理解できたことで個人的には良しとしたいと思います。しかし、この講演を聞いて、さらに神学において深く、また教養において広く学んでおかないと、このような社会的またキリスト教的な議論について行くことは難しいと思いました。
佐藤優氏が凄いのは勿論ですが、自分も東京神学大学という神学部専門の単科大学で学んできたのですが、どうも佐藤氏が学ばれ、また今教鞭を取られている同志社大学神学部では、「教会のための学」がメインの東京神学大学とは違う学びをされている感は否めませんでした。まあ、それはそれで将来の方向性が違うと考えられるので、引け目に感じることでもないとは思いますが。しかし、その多様性という点では羨ましくもありました。
最後に質疑応答の中で佐藤氏が同志社大学神学部のご自分のゼミ生について語られたことを書いて終わりにします。佐藤氏は、同志社大学での教鞭を確か聞き違いでなければ2021年度からはお辞めになるそうですが、その理由は学部時代から教えてきた学生たちがこれで社会に巣立つから、ご自分の体力的な理由からこれを機に教鞭を取ることから退くということでした。その教え子は20数名(22名?)から始まったそうですが、教会教職(牧師)を目指す学生はゼロだったそうです。そして今日まで彼らを指導してきて、ご自分の言われたことを理解して、これは社会で通用するなと思わされた学生は5名のみだそうです。…確かに今日のような講演を理解するだけでも大変なのに、かつそれを行動で表せる学生を育つのは、容易なことではないでしょう。
以上、本日の講演と質疑応答の感想レポートでした。最後までお読みくださった方、ありがとうございました。
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