長野・松代町は歴史ある町とのこと。
趣のある家と町並みがあり、象山地下壕のすぐ側も。
今から20数年前、長野俊英高校 の生徒が沖縄への修学旅行で壕へ入り「松代にも壕がある」との話になった。
このことがきっかけになって当時の高校生が調査するにつれ、地域で埋もれていた歴史が、高校生の調査・研究と、地域の人たちがいっしょになって明らかになってきたとのことでした。
象山地下壕の近くに 信州・松代 れきみちの家 というのがある。
この俊英高校・郷土研究班の拠点になっているとのこと。
この間、皇室と大本営の入る予定だった「舞鶴山地下壕」周辺の130世帯余りでは強制立ち退きが行なわれ、「男性が徴兵でいなくなり残された老人や女性や子どもでわずか数日で引越しをさせられたことなど」、聞き取り調査を行なっているとの話しであった。
この建物、俊英高校・郷土研究班の顧問の先生が私費で建設したとのことでした。
他にもいろいろなHPがあります。
平和資料館・きぼうの家
もうひとつの歴史館・松代
9月5日(金)この機会に以前に聞いていた「長野市松代町」の「松代大本営」移転地下壕を訪れた。
汗ばむ日でしたが、壕の入口から冷たい風が吹き出ていました。
幅1m高さ2m少々の入口、20mくらい進むと直角に右に折れ、数10m。
すると幅4m高さ3m程の広さになる。
この壕は、総延長5800m余、23000㎡になるが、公開され見学できるのは500m余り。
終戦の前の年(1944年)の11月11日11時11分から、戦況が危うくなった政府が、政府機関や皇族、そして大本営の移転のために作業が始まったとのこと。
終戦を迎える8月までの9ヶ月余りで総延長10kmの壕を、6000人に及ぶ朝鮮人が強制労働で動員され働かされたそうです。
壕の一番奥には、韓国語で書かれたメッセージボードやたくさんの折鶴が掲げられていました。
従事していた朝鮮の殆どの人たちは名前もわからず、多くの犠牲者が出ているようですが明らかになっているのは3名だけとか。
この壕は政府機関、放送局・電話局の施設の計画。
南に数kmの「舞鶴山」にも壕が掘られており、皇室や大本営の施設の計画だったとか、今は気象庁の地震観測施設になっており、一部を除いて立入禁止になっているとのこと。
9月2日(火)西穂高岳(2908m)に挑戦。
といっても、穂高岳に登るには経験不足なので、「西穂山荘」からどれだけ登れるかが問題。
11時頃、「新穂高温泉」からロープウェイを乗り継いで「西穂高口」へ。
11時30分に登り始めるも残念ながら霧の中。
1時間30分あまりの林の中を歩くものの、途中は雨も少し。
1時間30分で「西穂山荘」(2385m)へ(予定通り)。
山荘に降りてくる人の話を聞くと、「まるっきり視界がない」との話し。
山荘でゆっくりして降りることに。
後ろ指引かれつつ下山して振り向くと「西穂高岳」がガスが晴れご覧の通り。
私たち素人では、「西穂山荘」の次、「丸山」か「西穂独標」(2701m)か、と思っていたが・・・・。
西穂山荘 のHP
二日目、人気の高い「越中八尾 風の盆」に。
初日(9月1日)の朝、富山駅は臨時列車の増発。
いつもは乗客が少ないためか、富山駅の端っこで、1両が満杯。
八尾の街は涼しい風が吹くものの、きつい日差しで暑い。
30分近くかけ、街の一番奥の町へ。
早速、昼間の踊りを鑑賞。
踊る人たちの手がきれいで、キレがあります。
夜になると観光客が更に増えて、踊りは見えないものの歩き疲れたツアーの人たちのため息が聞こえます。
動くのを止めて「ひとつの場所でただひたすら待ち続け」、一番前でじっくりと踊りを鑑賞(深夜11時)。
たくさんの人がいるにもかかわらず静寂のなか、男踊りと女踊り、三味線と胡弓と太鼓、そして唄。
今までに味わったことのない雰囲気・・・。
八尾という坂の町、20~30人の町内会(?)ごとの組がわずか11組。
この「おわら風の盆」、2万人余りの八尾の町に1日10万人を超えて来るそうです。
大変です。
富山行きの臨時列車は深夜1時頃まで、富山のホテルに着いたのは、日付が変わった深夜1時過ぎ。。。。