高校の履修漏れを考える

2006-11-01 07:38:42 | Weblog
進学校と言われる高校で、履修漏れが相次ぎ、卒業が危ぶまれている子どもたちがいる・・・こんなあきれたニュースが報道されたと思ったら、我も我もとでも言うように全国から、報告が出され、ついに自殺者まで出てしまいました。

一体学校はどうなっているのでしょう。
国際化だ、英語は小学校から、理科離れ云々と、かしましく現場からかけ離れた声で、教育改革とやらが議論され、
親の気持ちとは全く違うところで、実施されていく。
一方では、「公立学校は質が悪い、画一的だ、みんな平等はありえない」、「できる子の能力を伸ばせない」などと、特別進学校を公の機関が設置し、学校間競争を煽り立てる。そんな背景から、この問題は発生しているように思える。
つまり、どれだけの子どもを『いい大学』に、はっきり言えば有名大学に進学させたかで、学校の『格』を上げるために行われた事である。
そうした問題には、ほとんどのマスコミ、識者が言及しないのはなぜだろう?

小学校から英語だ、国際化だという前に、
読む力、書く力、計算する力、自然(現象を科学的に)を理解する力、人類がどのように出現しその文化と社会を作り上げてきたかを学び取る力、これらをしっかりと身に着けてこそお互いにお互いのことを尊敬できる国際人を作り出すことができるのではないだろうか

それを、「大学進学のために必要な勉強だけをしたい」と子どもが言ったから、履修したことにし、進学に有利な条件で勉強をさせた・・・。
子どものせい そうではないはず。
コレは、高校生活で、学んだことの結果を試験で問い、入学を認めるという本来の大学進学のあり方から言えば本末転倒である。
また、子どもたちにフェアであることの大切さを踏みにじって見せたことにならないだろうか

今度のことを契機に、必修科目をなくし、すべて、受験科目を勉強すれば卒業資格を与える なんてことになりかねないと危惧を抱くのは私だけであろうか

国語、算数、理科、社会、歴史(日本と世界の)、芸術、スポーツ、外国語などを学ぶ意味を伝えてこそ学校の意味があると思う。

エリートといわれる子どもたちが、留学先で、「あなたの国の文化は?」「あなたの国ではどんな差別があるか?」と問われて、応えることができず、「差別は無い」といって、「そんなことは無い〇〇があるではないか」といわれ、恥ずかしかったという話を良く聞く。コレでは、日本が目指す国際化のそこが知れようというものである。

テレビのこの問題での報道に、まったく何をしてるんだと怒りまくっているこのごろである。
情けない報告です