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外科部長の声明・射水 呼吸器取り外し3

2006-03-29 18:20:50 | 犯罪・刑事関係
富山・射水での尊厳死・安楽死事件はどうやら司法に重い判断を強いるような事件になりつつあるようです。
この、七人の人工呼吸器をはずしたという外科部長が取材陣の質問などに応じ、書面はないものの、全件において家族の立会いがあり、また別の医師の立会いもあったとコメントしていたそうです。呼吸器をはずしたのは六人が自分自身であり、残る一人は記憶にないということなのだとか。書面がないのは信頼関係を培った相手に対し、そういう書面を求めるのはかえって申し訳ないと思ったということなのだそうです(この見方については個人的には反対ですけれど、まあ、そういう見方もできなくはないでしょうね)。その上で、罪に問われるかもしれないが必要なことであり、司法の場における判断を求める、というようなことを言っていたのだそうです。
必要なことというのは配信記事(産経新聞)にあったもので、本当にここまで言い切っていたかは分かりません。ただ、本当に言っていたなら、この「必要なこと」という部分には若干違和感を感じますね。「やむをえない行為」とか「苦渋の決断」というのならまだ分からないではないですが。

ということは、二つ目のエントリで私が邪推したような部分はなく、この医師は(独善かもしれないものの)信念に基づいて人工呼吸器をはずしたということになるのでしょう。
となると、これはそもそも安楽死と考えるのか尊厳死と考えるべきかという最初の命題に立ち戻ることになります。私はなんとなく尊厳死とすべきかなという気がしているのですが、一応外科部長のコメントの中には安楽死に関する横浜地裁の判決に触れている部分もあるようで、このあたりは微妙なところというようですね。
第一エントリ…とりあえずこの問題に対する基本的な姿勢はこんなものみたい。
第二エントリ…リフレッシュしていたかどうかはともかく、ここでの主張の大半は的外れということになりそうです。もちろん、医師側が患者遺族を煙に巻いていたと考えることはできますけれど。

ただ、安楽死(積極的安楽死)についてだけ言わせてもらえば、果たして横浜地裁のいうようなケースであれば認めていいのかというのは疑問です。
形式的に考えれば、家族であろうと誰であろうと命を断つことは許されない、ということになるのが自然だからです。そもそも本人が同意していたとしても同意殺人罪というものが成立するのが刑法的な前提であり、ましてや当人でない家族が同意して、どうして罪にならないということがありうるのか。もちろん、刑法35条などの正当行為であればということになるのでしょうけれど、やはり医師の本業は救命という技術の部分によるところが大きいのであり、生命倫理という哲学的な仕事をもって医師の正当業務と考えることは難しい。
安楽死のような状況を処罰するのがたとえば憲法違反とまで言い切るのも無理があるでしょうし、そうすると安楽死というものを認定するのは医師法を変えるかしない限りは刑法に真っ向から違反することになる。そんな刑法違反を認めていれば、そら殺人を簡単にする人間も出てくるなというひねくれた見方もできたりするわけですね。
もちろん、「そんな簡単なものではない。家族は長年にわたって苦労してきたのであり、その同意があれば医師や家族の総意の下呼吸器を外したとしても」いうのもひとつの見方です。ただ、理屈で見る限り…負担になるからという理由で命を断つことが許されるのならば、出産直後に自我のない新生児を「育てる自信がなく、むしろ今のうちに殺す方が幸せだと思った」と殺害することも認められるべきなのではということになるでしょうからねぇ。
介護疲れで夫(妻)を殺害したという話もたまにありますが、これが100%有罪になっている(もちろん、執行猶予がつく場合はある)ことを考えると、合法行為とは言い切れないような気がします(自らが死なせれば殺害となり、医師に引き渡して死なせればOKというのは変でしょう)。一番の理解者であり50年苦楽を共にしてきたこうした事件で実行者が有罪になっていることを考えると、果たして一時期の信頼関係だけで医師が命を絶つことができるのか…

ただ、そうは言っても現実にその立場にいる人間はどうなのかというとこれは形式的に切って捨てることも難しいわけで…

昔、文芸春秋で末期患者についての記事がありました。人間は元来自然に老衰していき、痛覚も衰えた状態で苦痛のない自然な死を迎えるものである。それを科学の力で無闇に生かす術を覚えたからこそ、逆に苦痛の中で死んでいかなければならなくなった…みたいなことが書かれていたと思いますが。
実際問題として、そこまで単純に科学が発展したから、苦痛を伴うようになったというつもりもありませんが、そういう部分があるのも事実だと思います。クローン技術など倫理的に問題のある技術に手を伸ばしてまで寿命を延ばそうとする それにもっとも協力的な医師が命の本質について重い命題を迫られているのは、ある意味因果の流れというものなのかもしれません…
もっと極端なことを言えば、人間が自然のありのままに反する生き方を模索してきたツケと考えることもできますが、そこまでいくのは自然偏重思想が過ぎるんでしょうかね。


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4 コメント

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外科部長いわく・・・ (ゼシカ)
2006-03-30 00:26:49
「愛」だそうです・・・。

なんだそりゃぁ・・・



尊厳死を反対する人たちは「弱者はいらないになる」ということになるからダメ

と言う言い分。

どっちの言い分も理屈から言えばわかるんですけど・・・。

論議よびそうですね。



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>ゼシカ様 (川の果て)
2006-03-30 06:47:22
「愛」なんですよねぇ。本当にそんなこと言ったんですかねぇ。

何十年付き添ってきた人が介護疲れで「二人のためにも」という場合などには「愛」という言葉も説得力がありそうです(でも有罪なんですが)が、専門的に癌患者を扱いながら二、三年で「命を左右できるくらいの信頼関係を醸成した」と言われても「オイオイオイ」って感じですよ。



どうしても独善みたいな部分を感じますね。
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TBありがとうございます。 (ミスターポポ)
2006-03-30 19:29:00
今回の事件、

「安楽死」「尊厳死」の問題もありますが、

私が一番気にしているのは

「しっかり話をしたのか?」ということです。



医師からすれば

「説明不要の些細なこと」

「この症例ならこの治療が当たり前」

ということでも、

家族からすれば

「ん?どうなってるの?」

「これからどうすればよいの?」

と不安を感じると思います。



医師からすれば「何百人中の1人」ですが、

家族からすれば「かけがえのない1人」です。

しっかりとコミュニケーションをとってほしいと思います。
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>ミスターポポ様 (川の果て)
2006-03-30 21:53:08
その通りだと思います。

医師の知識と患者の知識とは違うわけですし、医師が都合のいいように誘導することは不可能ではないわけですからね。

ですから、個人的に尊厳死・安楽死にもセカンドオピニオンがあっていいのではないかと思うわけです。

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