関西大弾圧救援会 garekitaiho1113@gmail.com

「大阪駅前街宣」弾圧、がれき説明会弾圧、関電前弾圧、オキュパイ大飯弾圧などの救援について綴ります

本件勾留は、明白に違法である・・・(U)

2013年08月29日 23時16分44秒 | 11.13がれき説明会弾圧
<Uさんは、特別抗告を最高裁に申し立てています>

昨年11月13日、大阪市此花(このはな)区民ホールで、
大阪市による「ガレキ試験焼却説明会」開催強行に
市民が抗議の声をあげていたところ、4人が狙い撃ち逮捕され、
うち3人(Uさん、韓基大さん、ぱぉんさん)が起訴されました。

逮捕以来、9カ月を超える日々が過ぎましたが、
Uさんだけが、いまだに大阪拘置所に勾留され続けています。

Uさんが、勾留取消請求を大阪地裁に出したところ、
地裁はこれを却下しました。
そこで、Uさんは準抗告を申し立てました。

ところが、大阪地裁は、これも棄却。
Uさんは、これを不服として、特別抗告を最高裁に申し立てています。

以下は、弁護人を通じて届いた、彼の主張(骨子)です。
※文責=関西大弾圧救援会。


///////////////// 申立ての内容 ////////////////////////////

●1. 罪刑法定主義(憲法31条)に反する

刑事訴訟法91条は、「勾留による拘禁が不当に長くなったときは、勾留を取り消すか保釈を許さなければならない」と規定している。

極端な例をあげれば、起訴状記載の公訴事実のとおりだと仮定したときに、通常、小額の罰金刑が想定される事件において、裁判の進行状況いかんにかかわらず、数十年にわたり勾留しつづけることは、通常の人権感覚を持ち合わせていれば、許されない。

だとするならば、「不当に長くなったとき」の基準を感覚的なものではなく、論理的に導き出す必要がある。またそれは、罪刑法定主義の観点から、執行猶予判決と実刑判決を比較評価することで導き出すことが可能である。

まず、当然のことではあるが、執行猶予判決とは、刑の言い渡しはするが、その執行を一定期間猶予し、猶予期間を経過したときは、刑を受けることがなくなる制度である。刑の執行はなされていないのであるから、実刑よりはるかに軽い判決である。その目的は、施設収容を避け、短期自由刑における弊害を防止し、再犯をすれば刑の執行をするという威嚇の下に一定期間を過ごさせることで再犯を防止するとともに、更生を促すものである。

つまり、執行猶予判決とは、刑の執行がされていないことが大前提であり、少なくとも、事実上刑の執行が終了しているような状況ではあってはならない。刑の執行が、事実上終了しているにもかかわらず、執行猶予判決を受ければ、執行猶予判決のほうが実刑判決より重くなってしまう。実刑判決の執行が終わった後にさらに再犯をすれば刑の執行をするという威嚇の下に一定期間過ごすこととなり、実刑をさらに加重する新たな刑罰を裁判所が創出し、法の趣旨を完全に無視し、目的から大きく逸脱することになる。

そして、今回の事件の起訴状記載の公訴事実からは、仮に有罪だとしても、実刑判決を想定することは出来ない。また、仮に実刑判決だとしても、すでに長期の勾留によって事実上刑の執行は終わっているのである。

この状況で執行猶予判決を受けると、実刑判決であれば刑の執行が終わっているにもかかわらず刑の執行を猶予するとした矛盾した判決となるばかりか、事実上実刑以上の刑を先取りし、さらに長期の威嚇期間を設定する新たな刑罰を法に基づかずに裁判所に課されることとなり、慣習法を禁じた罪刑法定主義、成文法主義に反することになる。

これらのことから論理的に導き出されるのは、起訴状記載の公訴事実に誤りがないと仮定し、実刑判決を下す場合に通常想定される量刑の最小値を超えることがあってはならないとなり、少なくとも、それを超えれば不当に長いとの評価となる。また、この仮定の下で通常想定される量刑の最大値を超えれば、違法の評価を免れることは出来ない。そして、判決に至っていない以上、この評価基準は、論理的に導き出される最低限裁判所が守らなければならないものであり、本来この基準よりはるかに厳しい基準で判断しなければならない。

つまり、この勾留期間の評価基準を逸脱した現行の勾留制度の運用は、明らかに違法である。また、長期にわたる違法な勾留が、人質司法と揶揄される所以であり、多くの弊害を生み出し、刑事被告人の権利を貶めてきたのは周知の事実である。日々、どれだけの冤罪が生み出され、不当な量刑判断の原因になっているか計り知れない。今も、獄中から多くの再審を求める声が叫ばれ続けているのである。

すでに、本件勾留は、この基準に照らせば明白に違法である。

●2.一事不再理の原則(憲法39条)に反する
  
未決勾留により、実刑の執行が事実上終わっているにもかかわらず執行猶予判決を受ければ、判決後一定期間、再犯をすれば刑を執行すると威嚇されることとなる。そして再犯をすれば、刑の執行が事実上終わっているにもかかわらず、刑の執行がなされていないとの外形を備えているため、再度、事実上の刑の執行を受けることになり、二重に刑事責任を負うことになる。

一事不再理の原則とは、有罪、無罪、免訴の判決が確定した場合には、同一事件について再び公訴を提起することは許されないとする原則である。

この原則は、再度、公訴を提起することを禁止するものであるが、それは、入口である公訴の提起を禁止すれば当然に同一事件において繰り返し刑の執行を受けることはなく、実質的には同一事件において再度刑が執行されることを禁止し、再度刑事責任を負わせることを防ぐものである。

つまり、1で述べたとおり違法な勾留制度の運用実態は、一事不再理の原則をも無視するもので、到底許されない。

●3.法の下の平等(憲法14条)に反する。

刑事訴訟法91条は、「勾留が不当に長くなったとき」には、「職権を以って勾留を取り消し、又は保釈を許さなければならない」と規定している。この規定は、高額な保釈金を用意することが出来ない貧しい刑事被告人を無制限に判決まで勾留することを裁判所に許したものではないのは明らかである。 

先に述べたとおり、仮に有罪であったとしても、未決勾留により、事実上、刑の執行が終わっているのであれば、裁判の進行状況いかんにかかわらず勾留を続けることは許されない。よって、保釈申請をし、保釈金を納めれば保釈になるのは当然である。しかし、判決を待たずにすでに刑を先取りし、執行が事実上終わっているのであるから、そもそも「逃亡の利益」が存在していない。
 
また、物理的な拘束を続けない限り、保釈金を納めたとしても、「逃亡」も「罪証隠滅」の可能性もいぜんとして残るのである。

そして「住居不定(不詳)を理由に勾留を続けることは、差別、偏見に基づくものである。貧しいが故に路上や公園などの公共スペースで野宿をせざるをえない者、生活をせざるをえない者は、ただそれだけの理由で収監され続けることになる。「逃亡の利益」のない刑事被告人の住居の有無(不詳)と、裁判の進行等の公的利益や必要性を結びつけるのは不可能である。収監されるリスクを負って逃亡する必要など全く無いのである。

そもそも、本件勾留の理由となっている「住居不詳」は、「被告人が、大阪市役所で連日にわたり抗議行動をしていたから、その周辺に生活の本拠があるはずである」とする警察、検察のデッチアゲを裁判所が追認するという、いつものデキレース、お約束のパターン、国の伝統芸能の類いであり、いまさら驚きはしないが容認することは出来ない。このふざけた図式が、膨大な冤罪をつくり、人々を殺しつづけているのである。

裁判所は、関東から関西に来て連日抗議行動をするなら、近くに部屋でも借りて住民票を移してからするのが、「善良な市民」の当然の務めであり、それを怠った被告人が判決まで収監されるのは、当然の報いであるとでも言いたげである。(笑)

そして、これらの運用が、百歩譲って、仮に一定の合理性を有していたとしても、身体の自由という重要な人権を制限するものであるから、その権力行使は、必要最低限のものでなければならない。

しかし、拘置所での生活は、「逃亡」や「罪証隠滅」を防ぐための必要最低限のものとは到底言うことは出来ない。拘置所での勾留は、実刑判決を受ければ未決勾留として刑に算入されることからもわかるように、まさに刑の先取りなのである。日常のありとあらゆる行動が制限され、寝る方向、座る位置や向き、一挙手一投足に至るまで規定されている。部屋は、24時間蛍光灯で照らされ続け、排便や入浴すらも監視下に置かれ、看守に抗弁することすら禁止されているのである。人としての尊厳を踏みにじる奴隷的拘束が続けられるのである。

裁判所は、差別、偏見に基づき、貧しいことを罪として扱っているのである。貧しい者にだけ、「罪証隠滅」、「逃亡」の可能性が、物理的にあることだけをもって、「罪証隠滅のおそれ」、「逃亡のおそれ」があると、荒唐無稽な主張を繰り返し、過度な負担を殊更に強いている。

裁判所の勾留制度の運用は、貧しい者の自由に対する権利を貶める、許されざる違法行為であると断罪せざるをえない。

●4.結論

裁判所は、本件勾留を取り消さなければならないのは勿論であるが、この特別抗告の意義は、それに止まるものではない。裁判所の違法行為を告発し、全ての刑事被告人の権利回復、そして、違法不当な司法制度の是正を要求するものである。

そして、このデタラメな司法制度を背景に、国は国策を推し進めるのである。沖縄に米軍基地を押しつけ、高江にヘリパッドをつくり、三里塚で農地を奪い、水俣を殺し、ハンセン病患者を隔離断種し、在日の権利を奪い貶め、人々の営みをダムの底に沈め、労働者を使い捨て、野宿者を殺し、戦争を行い、ヒロシマを殺し、ナガサキを殺し、放射能汚染を拡散させながら原発を再稼働させ未来を殺す。フクシマは、今も殺され続けているのである。

裁判所にとって、特別抗告申立書は、取るに足らないただの紙切れであり、にべも無く一蹴するに違いない。しかし、私たちの主張が、人民の心を捉えたとき、裁判所、そして国の頭上に振り上げられる鉄槌となり、デタラメな司法制度を打ち砕き、国家、資本主義を解体する強大な力となるのである。

裁判所は、貧しい者を差別するな。人質司法をやめろ。被収容者への人権侵害をやめろ。全ての刑事被告人に当然の権利を保障しろ。

裁判所は、本件勾留を取り消せ。全ての刑事被告人を違法不当な身柄拘束から直ちに解放しろ。

以上

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<特別抗告申立書を読んで>

★ MUさん から

Uさんの言うとおりです。

砂川事件判決の統治行為論で違憲立法審査権は形骸化し、
司法の独立はもろくも崩れ去りました。
それ以来、アメリカや時の権力の顔色を伺う
『ヒラメ裁判官』の量産体制が始まったのです。

まともな精査もせず、
逮捕状や押収、勾留令状等、自動販売機のように乱発する。
起訴されたら99.8%の有罪判決を下す、検察との出来レース。
再稼働反対Tシャツ着て入廷しようとしたら、脱げと命令する。
黙秘権行使したら釈放しない等々。
例を挙げればキリがない。
裁判所は憲法違反の総合デパートやんけ!

ポリ、検察も許せんけど、裁判官達の方が許せん!
「アホ・ボケ・カス・頓馬・ドジ・屁こき・お前の母さん出ベソ!」


★ しほさん から

Uさん、読みました。

警察や裁判所には権力があり漠然と信用を集めてしまい
間違いを犯してしまう危険を持ちます。
おかしいことに気づく感性と
それを素直に声を出し続けることが必要です。

憲法は権力が暴走するのを止める道具ではありますが
それを使える裁判官は少ないのでしょうか?

私たち市民もどこかあきらめてしまっていたかもしれない。

あたりまえのことをどこにいようと
自らあたりまえにいい続けたい、Uさんみたいに。



★ コイケタ七味さん から

Uさんは、「中」で闘っている。
「勾留取消請求」を繰り返すことで、
Uさんは何をしようとしているのかーー。
精いっぱい頭をひねり、想像し、考えていた。
Uさんのしていることは、軽くこちらの想像を上回り、
遥かに鋭く、慈悲に満ちている。

ある裁判の傍聴を通し、抱いていたかもしれない
司法に対する”敬意”のようなものは、司法自らによってぶち壊された。
だからUさんの書く、『裁判所にとって、この8枚の特別抗告申立書は、
取るに足らないただの紙切れであり、にべも無く一蹴するに違いない』
は、ほぼ、その通りだろうと思う。

しかし、とUさんは続ける。
『私たちの主張が、人民の心を捉えたとき、
裁判所、そして国の頭上に振り上げられる鉄槌となり、
デタラメな司法制度を打ち砕き、
国家、資本主義を解体する強大な力となるのである』。

憲法に反する現行の勾留制度、冤罪、奴隷的拘束、
差別、偏見、貧困……
自分の仲間が、身近な大切な人が、
「逮捕され、起訴され、勾留される」ということがなかったら、
いまも私は、これらのことを一切、知らずにいたかもしれない。

沖縄の米軍基地、高江のヘリパッド、三里塚、
水俣、ハンセン病患者、在日、ダム、労働者、
野宿者、戦争、原爆、原発……
すべての問題にまでは手が回らない、と知らん顔を続けていれば、
無自覚のうちに、強行する”国”に加担していることになってしまう。

私たちひとりひとりが、変わらないと、何も始まらない。
私たちひとりひとりが、自分のこととして「現実」を受け止め、
感じ、精査し、考える。
私たちひとりひとりが、何かのために差別が生じ、
どこかにしわ寄せがいき、誰かが抑圧を強いられる、
そんな社会の仕組みをどうしたいのか、
表現する、体現する、行動を起こす。

そのとき、Uさんの「特別抗告申立書」は、
『国の頭上に振り上げられる鉄槌』となる。

これほど信じられる人を「仲間」と呼べることを誇りに思う。
そして、Uさんが
『私の主張が』ではなく、『私たちの主張が』と書いてくれたことに
胸を衝かれ、背筋が伸びる。

「外」で、ぼやぼやしているわけには、いかない。



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