さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

ビスマルク体制、戦争から外交へ

2016-04-11 | 名画に学ぶ世界史
ビスマルク(1815~1898)

ドイツは多数の領邦国家で成り立っていたが、1871年、普仏戦争後にプロイセン王国を中心に統一され、ドイツ帝国になった。その立役者は鉄血宰相と呼ばれたビスマルクである。統一間もないドイツは屈辱的大敗を喫したフランスの復讐も警戒せねばならず、国内も不安定でビスマルクは難しい舵取りが必要だった。

ドイツは強力な軍隊を武器に、オーストリアを叩き、フランスを叩いてその勢いを統一へのエネルギーにしてきたが、統一後は一転して巧みな外交に力を発揮した。ビスマルクは約20年間、巧みな外交でヨーロッパの安定を維持し、国内をイギリス、フランスに追いつく工業国に急成長させた。

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ビスマルク体制

ビスマルクが最も警戒したのは、フランスだったのでフランスを孤立させ、周辺国と手を結ぶことにした。その為には1866年に戦争したばかりのオーストリアとも犬猿の仲であったロシアとも手を結び、さらにフランスの植民地政策に不満をもっていたイタリアとも手を結んだ。

当時、盛んに行われていた植民地政策ではフランスのエネルギーがなるべく領土拡張に向かうよう、ドイツでは植民地拡大には消極的態度をとった。そこに1878年に露土戦争が起り、オスマン帝国に勝利したロシアはかねてからの南下政策を実現するため、サン・ステファノ条約により、バルカン半島に勢力を広げる。保護下にあるブルガリアの領地を広げ、エーゲ海に面する大ブルガリア公国を成立させた。

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サン・ステファノ条約による大ブルガリアの領域

しかしこの条約には真っ先にイギリス、オーストリアが反対し抗議ののろしを挙げた。イギリスはロシアに地中海への権益を侵されることを拒み、オーストリアはスラブ勢力のバルカン半島拡大を拒んだ。ヨーロッパ全体を巻き込む紛争に発展したが、その調停役を買って出たのがビスマルクだった。

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ベルリン会議

ビスマルクの調停による「ベルリン会議」はヨーロッパ全体の勢力均衡を重視、ロシアの南下政策は阻止され、イギリスが地中海への拠点を確保する。ロシアには不満が残ったが、国際紛争を解決し、ドイツの国際的地位を高めることに成功した。一方、この会議には敗戦国のオスマン帝国は蚊帳の外で、その凋落は決定的なものになった。

1880年代に入ると、ヨーロッパ各国のアフリカ進出はすさまじい勢いだった。当然、各国の利害は衝突し、紛争が起こり始める。そこで1884年、再びビスマルクは列強14カ国をベルリンに集め100日間に及ぶ2回目の「ベルリン会議」を開いた。そこでは、先に占領した国が領有権をもつという「先占権」が決まった。結果としてアフリカ分割は「早いもの勝ち」となり、進出は加速した。

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水先案内人の下船

この「ベルリン会議」はナポレオン戦争後の「ウィーン会議」、クリミア戦争後の「パリ会議」と並んで、19世紀の三大国際会議と言われている。19世紀の後半はビスマルク体制によりヨーロッパには殆んど戦火もなく平和裏に経過、ドイツも第2次産業革命を果たし大工業国になっている。

しかし1890年、若き皇帝ヴィルヘルム2世によりビスマルクは更迭され、政界を引退する。その後、ヴィルヘルム2世による絶対君主制が始まり、他国との協調関係よりも帝国主義的利害を重視する。ヴィルヘルム2世の拙劣な外交政策により、ドイツは列強諸国との対立を深め孤立していく。


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フランス外相デルカッセ(1852~1923)

一方でビスマルクの外交を研究していたのは隣国フランスだった。外務大臣になったデルカッセはイギリスと宥和策をとり、ロシアとは同盟関係を構築した。ドイツと同盟関係にあるイタリアとも水面下では密約を締結している。ビスマルクが作ったドイツ中心のフランス包囲網を解体させ、ドイツを孤立させるドイツ包囲網を形成していった。「デルカッセ体制」と言われている。

~~さわやか易の見方~~

******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
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******** 下卦は火
***   *** 文化、文明、太陽
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「天火同人」の卦。同人とは志を同じくするもの。「同人雑誌」の語源でもある。組織や集団をつくるのは、その中心になる人物次第でもある。中心になる者は明らかな文化を根気よく発信することだ。始めは孤独に苦しんでも初志を貫徹することである。いつかは喜びに満たされる。

ドイツにとってビスマルクは生みの親でもあり、育ての親でもあった。時代はもはや専制君主の時代ではなかった。政治は政治のプロに任せねばならなかった。そこがドイツが一歩遅れていたところだったのだろう。我が国の明治憲法もプロイセンの憲法をたたき台にした。そこに大きな落とし穴があったことに気が付くのは大戦争に負けてからだった。

現在、集団的自衛権の論議が盛んである。戦争を出来る国にすることは容易い。しかし国際紛争は軍事で解決するのではなく、あくまで外交で解決しなくてはいけない。その為にはもっともっと外交力を付ける必要があるのではないか。拉致問題しかり、日中、日韓問題しかり、外交力はこのままでよいのか。軍事より外交。日本の政治家に求めたいことはそこだ。