ハンス・フォン・ビューロー・1830~1894
ブラームスの同世代であるハンス・フォン・ビューローはブラームスの良き理解者として知られている。リストのところで少し触れたが、リストの娘であるコジマと結婚して子供もいたのにワーグナーに妻をとられてしまった人物である。しかしビューローは名指揮者として高い評価を受けている。そのビューローがブラームスをバッハ、ベートーヴェンと並んでドイツ音楽の3大Bと言った。
事実ブラームスの最も尊敬し目標にした作曲家はベートーヴェンであり、その交響曲作曲に関しては並々ならぬ精進を重ねた。22歳から43歳まで実に21年もかかって「交響曲第1番」をベートーヴェンの没後50年に完成させている。それはベートーヴェンの交響曲という巨大な金字塔が存在するので、それらに匹敵するものを創ろうと推敲を重ね、試行錯誤の歳月を物語るものである。ようやく完成したこの曲にビューローはベートーヴェンの第10番だと評した。それ程、ベートーヴェンの交響曲に比しても恥ずかしくない出来栄えだった。
世話になった人を忘れないのもブラームスの特徴である。シューマン家での話は言うに及ばず、貧しかった少年時代に殆ど無償でピアノを教えてもらったマルクスセンへの恩も忘れていない。45才で作曲した名曲と評された「ピアノ協奏曲第2番」はかつての師マルクスセンに捧げられている。同時期の「ヴァイオリン協奏曲ニ短調」はベートーヴェン、メンデルスゾーンと並んで、「3大ヴァイオリン協奏曲」と言われている名曲であるが、その曲は親友ヨアヒムに献呈している。
ブラームスはロマン派の時代にベートーヴェンの後継者を自負し、「絶対音楽」を信奉したので「新古典主義」と呼ばれた。一方で新時代を象徴する音楽として「新ドイツ学派」が台頭している。ワーグナーやリストを信奉するグループである。ワーグナーに心酔する哲学者ニーチェは「ブラームスの音楽は憂鬱と悲哀である。」と酷評したと言われる。ワーグナーに妻をとられたビューローは当然ながらブラームス派である。この対立はワーグナー対ブラームスとも言われていたが、ブラームス本人はワーグナーの音楽も愛しその歌劇を楽しんでいた。
「ハンガリー舞曲」が大ヒットし、名声を手にし収入が安定しても貴族趣味を嫌い、自然と庶民的生活を好んだ。家政婦と3部屋のアパートに住み朝の散歩と「赤いはりねずみ」という小さなレストランで昼食を取るのが日課だった。貰った賞品や記念品などは気前良く親戚たちに与え、ドヴォルザークを始め若い音楽家たちには惜しみ無く支援した。無愛想なところがあり、大人にはよく誤解されたが子供たちには人気があった。独身を貫いたため子供がいないのは残念ではあるが、国を愛し、音楽を愛し、友を愛し、こよなく酒を愛し、一途な恋を貫いた。ブラームスはベートーヴェンの後継者に相応しく、武骨ではあるが、限りなく男らしく、暖かい。
~~さわやか易の見方~~
*** *** 上卦は沢
******** 喜び、親睦、少女
********
*** *** 下卦は雷
*** *** 行動、志、長男
********
「沢雷随」の卦。随は従うこと。人は何かに従って生きている。何に従うかが重要である。ブラームスは偉大な先輩であるベートーヴェンに従って生きた。常に偉大なるものに従うものは謙虚である。傲慢になったり目標を失ったりはしない。いつの間にか若い者が従ってくるようになる。
ブラームスはベートーヴェンとともにいかにもドイツ人である。ドイツ人は法を重んじ倫理観を大切にする。ある意味ではフランス人ほど面白みに欠ける。フランス文化のような華やかさはないが、重厚な意志があり、深い知恵がある。言葉のない交響曲はやはりドイツ人の創作が群を抜いていると思う。
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