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ゆるゆると自分に甘い生活

ざっくり生きててあわわな毎日。でも残りの人生シッカリ楽しむ。

父の闘病・13。

2015-01-14 00:31:50 | 父の闘病・母の事
火曜、23時。 病院からの電話。


来て欲しい、との事。

ここ数日、モルヒネの影響と思われる幻覚は絶える事が無い。
殺人、窃盗、暴力、人体実験、警察、逮捕…。
様々な悪行が病院内で起きていると思っている。
恐怖と戦いながら必死に応戦している様子。

その興奮が抑えきれない、との事で呼ばれた。
家族の顔を見れば落ち着くだろう、と。

眠れるようにする薬は呼吸を不安定にさせる。
だからモルヒネの量で調節して眠りを誘う。

そして今、やっと寝た。

ガン細胞の骨転移の激痛からは解放されているけれど、精神の苦痛は続いている。
どこまで、いつまで、人は闘い続けなきゃいけないんだろう。

最期の日まで、こんなにも頑張らなきゃいけないんだろうか。
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父の闘病・12。

2014-12-28 17:05:42 | 父の闘病・母の事
やっと。


3ミリのモルヒネは身体にも心にも穏やかな時間を与えてくれている。
身体が馴染んできているのか、寝ている時間よりも起きている時間の方が多い。
起きている時はハッキリしている。

記憶も意識もトークも、数ヶ月前のようにシッカリしていて、
本当に退院できるんじゃないかと思うほど。

痛みが無い、悪い所の自覚症状が無い。
「食欲さえ戻れば退院できるんじゃないか?」
と言う父。

本当にそう思っているんだろうか…。
それが叶わない事は知っている気がする。

緩和治療で、と言われていたのに激痛との闘いばかりだった。
いつになったら本当の「緩和」をして貰えるんだろうと思っていた。

でもやっとその時。

ごく普通に会話が出来て、眠くなったら安心してスッと寝て、
時々襲われる朦朧とした時間にも幻覚を見てニコニコ笑っている。
現世での想い出なのか、いろんな情景が見えるらしくとても楽しそうにしている。

今まで苦痛に耐えてきたご褒美。
人生を一生懸命に生き抜いたご褒美は、穏やかに過ごす最期の時間。

年末年始を目前に、最悪の事態を想定して準備をすすめているけれど。
なんだかまだまだ笑っていてくれそうな気がする。
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父の闘病・11

2014-12-25 18:04:29 | 父の闘病・母の事
いよいよ覚悟の時。

激痛に対処するための座薬を繰り返し、
それでも痛みを取りきれない日々の連続。
21日も同じように過ごしていた。
フェントステープは既に16ミリ。

22日午後。
意識が薄らいでいた。
目を開けず、声も出せず、手を握り返す事も無く、とにかく何も分からない状態。
夕べから意識が薄らぎ始めた、との事。

会いたい人に会わせてあげて、と言われた。
今ならまだ声が聞こえて、僅かでも反応ができるから、と。
その後、モルヒネ投与を始める、と。

23日、祝日が幸いした。
孫やひ孫が駆けつけてくれた。
驚くほど意識が戻っていたので会話ができた。
前夜から4本の座薬を打ち続けていた。
血圧が下がり限界ギリギリだそうだ。

24日。
激痛を治めるためモルヒネ投与開始。
一時間あたり2ミリ。
お昼に始めたが痛みが引かない。
苦しみ続ける父。
「もう良いから楽にしてほしい」と何度も言った。
2時間後、モルヒネに重ねての座薬。

そしてその2時間後、やっと父が静まった。

25日。
午前中は眠っていたが、お昼前から痛みが襲ってきた。
座薬を打った。
全然治まらない。

4時。
主治医が来た。
モルヒネを3ミリ投与に増やした。

幻覚を見ている。
目をしっかり開けて、でも視点は合わない。
宙を見つめ何か動くものを追っている。
何かを見つけたらしい指差しの仕草をしたり、笑ったりしている。

現実の世界に居ない父を見ているのは悲しい。
でも苦痛に歪み続けた顔は一転して穏やかで幸せそうにみえる。

今も楽しそうに天井に居る誰かと話しをしている。

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父の闘病・10。

2014-12-18 14:59:25 | 父の闘病・母の事
随分経ってしまった。


10月に2度目の退院を果たし自宅で過ごしているうちに足の筋力が落ちてしまった。
終始車椅子を利用しての最初の外来診察から4日後、激痛に耐えられず3度目の入院となった。
11月4日の事。
フェントステープは10ミリになった。

それから今日まで。
苦しみが続いている。

ほとんど毎日発熱している。
痛みは無い日でも熱があるとツライようだ。

自分だけの力ではもう何も出来ない。
ハッキリと声も出せないから言葉は通じない。
食事も、寝返りも、もちろんトイレも、もう何も1人では出来ない。
意識も記憶もほぼシッカリとあるから、そんな自分が情けないらしい。
悔しくて寂しくて、涙を浮かべる事がとても多い。

少しずつ自分の状況が分かってきているんじゃないかと思う。
病名は分からずとも、以前のような日常には戻れないと察しているように思う。
「頑張るぞ」の台詞がめっきり減った。

12月3日。
また激痛に襲われた。
座薬を2本打った。でも治まらない。
歯をくいしばって頑張っていた。
フェントステープを12ミリにした。
痛みが治まった。

翌日また痛みが来た。
ガマン強い父が顔を歪ませて必死に痛みと闘っていた。
座薬1本では抑えられないから再び2本。
しかし結局フェントステープを更に2ミリ追加する事になった。

今は14ミリを貼っている。

昨日、また痛みがあって座薬を挿した。
今日あたり、テープがまた増えているかもしれない。。。

「お正月は帰らなくても良いな」って言った。
帰っても負担になるだけだ、と言う。

毎日毎日、身体も心も闘い続けているんだと思う。
眠る時間が増えてきたのがある意味救いになっている。




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父の闘病・9。

2014-10-31 18:10:58 | 父の闘病・母の事
退院してから10日、初めての診察日。


ほとんど寝て過ごしていたから当然の事ではあるけれど。
玄関から車まで、車から病院まで、そして病院内も、その意志に反してまったく歩くことが出来なかった。

痩せて、40キロも無いだろう体重を足で支える事ができなかった。

車椅子で受付、診察室、点滴室と移動した。
車椅子に座っている父の姿は驚くほどに小さかった。

再び現実を突きつけられた父は、また泣いていた。

麻薬のフェントステープ6ミリではもう痛みを抑えられないので8ミリに増えた。
また不穏な行動が出るかもしれない、と言われた。
寝る時間が更に増えるでしょう、とも言われ。
それが「人として」良いのかどうか、介護をされるご家族で改めて考えてください、とも言われた。

再度6ミリに減らして痛みは坐薬で対応すれば、
会話する時間や食事を取る時間など生きて生活している実感もあるだろう。
8ミリのままなら、痛みは無いが意識が薄らいでいる時間ばかりで対話はほとんど無いだろう。

点滴をしてもらっている間、近くのカフェに行った。
これからの事、少し考えた。
でも・・・。
案外「まぁ、その時になったら考えよう」ってアッサリ思えた。

私の中の覚悟がどんどん確立されていってるって感じる。
考えるとまだまだ涙は出るけれど、でも自分が強くなってるって思う。
待っている訳じゃないけれど、その時は確実に来るんだ、って冷静に思っている。
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父の闘病・8.

2014-10-19 14:19:51 | 父の闘病・母の事
すごい事になった。


(ぃゃ、こんな事はごく普通にあるのかもしれないけれど…。)

父が退院する事になった。
麻薬の張り薬を使用して治療中の父。

主治医からは「この入院でお亡くなりになると思います」と言われていたし、
事実「ぁぁ、もうダメだな…」とも思った。

確かに病気が完治しての退院ではないし、むしろ残された時間を自由に自宅で、という悲しい理由。
でもギリギリまで自宅で過ごせるって、、、悲しいけど、、、ありがたい。

未だ末期癌の告知はしていない。
「自分はまた元気になれるぞ。100歳まで頑張るぞ」って前向きな心が命の灯を灯し続けている。
お正月は海老もカニも鯛も食べたい、とすごく張り切っている。
たぶん食べられないって自分が一番分かっているけれど、とても楽しみにしている。

食事も摂れず、飲み物もわずかしか受け付けない身体だけれど、
緩和医療のおかげで痛みのない平穏な、最期の日々を送れる。

「年を越せると思う」との担当医師団の見解もあって、
嬉しくて思わず父に言ってしまいそうになったけれど…。

おっと危ない、そんな事を言うのはイケナイ!
だって父にとって「年を越す事」は当然の事だったんだから。

これからも色々とあるだろうけれど、
ウソは心してつきとおさなければならない。

ご心配いただきました皆さん、ありがとうございます。
しばらくは落ち着いてくれると、そう思っているので、私自身はまた自分なりの生活をしようと思っています。



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父の闘病・7。

2014-10-15 12:27:48 | 父の闘病・母の事
10月6日、2度目の外泊。


前回の外泊から体調が良く、病院内でも起きてる時間が多くなり看護師さんに驚かれる。
僅かとは言え、食べたり飲んだりが出来るようになった。

そして今回の外泊では。
持続的に食事が出来るならば延泊しても良い、との許可をもらっていた。

帰宅当日、快調。
翌日、サッとではあるけれど、浴槽に浸かっての入浴をした。
先月の15日以来。

夕方、病院まで薬を取りに行き更に二泊を自宅で過ごす許可をもらった。

が、その夜。

ずっと食べたいと言っていた「味噌ラーメン」を目前にして嘔吐が始まり、グッタリと寝込んでしまった。

翌日の夕方まで回復する兆しは無かったので
病院から「帰ってきて!」の指令が下った。
本人の悔しさが痛いほど伝わってきた。

それからは……
なかなか回復しない。
食事もできない、水分も摂れない。
何かを口に入れれば吐く、の状態に逆戻りしてしまった。

このまま寝たきりになるんだろうか、、
と思い始めていた、、

とその矢先。
三度目の外泊に挑戦で昨日帰宅した!

今回は1泊。
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父の闘病・6

2014-10-06 12:47:26 | 父の闘病・母の事
9月29日、一泊の外泊。


水分補給の点滴を外し、とにかく何でも良いから飲むんだよ、と注意を受けての外泊。

心がけて頑張っていろいろ飲んではいたけれど。
吸収力の問題もあるのか、結局は水分不足が祟って、、、声がかれて発声が苦しそう。
それでも、自宅に居る間には特にトラブルは無かった。

お風呂に入る体力はもちろん無いので、
浴槽にお湯をはり、足湯でガマン。

かなりリフレッシュできたのか、翌日病院に(元気に)戻った。
その後の入院生活も驚く程に元気。

イッパイ泣いた外泊だったけど、、
とても良い時間を過ごしたようで、とにかく嬉しい。

それから一週間。
今日からまた外泊。
延ばせるものなら延長して自宅に留まらせたい。
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父の闘病・5。

2014-09-30 12:36:32 | 父の闘病・母の事
病院のベッドでほぼ寝ているだけの父。


肩をたたいて起こせば起きる。
一瞬目覚めてまたすぐに眠る時もあれば、会話を続けられるくらいに覚醒する時もある。

私以外の来客の場合はほとんど起き上がって挨拶をする。
会話をするうちに口調もハキハキしてくる。
相手を気遣う緊張感なんだろうと思う。

私に対してもかなりの気遣いはあるが、
緊張感は無いらしい、、(^_^;)))

そんな日々を過ごしているうち。

外泊しても良いですよと主治医に言われ、
実現させようと本人も周りもホンキになる。

点滴が漏れて腫れ上がったのを機に、点滴無しで水分を補給しようと努める。

そして。
9月29日、自宅へ戻る。
一泊の外泊許可が出た。

帰ってきた。
もちろんフラフラしている。
そして、泣いていた。

家での全ての事にとにかく泣いている。

普段は滅多に泣かない父が、自分の向かう先を確実に感じているようで、、ツラい。
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父の闘病・4。

2014-09-28 19:15:17 | 父の闘病・母の事
85才の父。


6月に入院。
余命2~3ヶ月の宣告。
本人には告知せず、1ヵ月後退院。

「あとはもう元気になるだけ」と信じて体力回復に努める2ヶ月を過ごした後、
左胸と左背中の激痛に我慢できず、食事も全く摂れなくなり再入院。
9月16日の事。

担当医の診断はガン細胞の「骨転移」。
腫瘍が骨を砕き突き出してきているCT画像を見せられる。

痛み止めの投薬と点滴治療が開始。
しかし、小さな薬すらノドを通らない程に衰弱。

飲み薬は諦め、麻薬のパッチ4mlを1枚使用しての治療開始。
しかし痛みを抑えられない。
麻薬のパッチを6ml2枚に変更。

9月19日深夜。
突然起き上がり落ち着かない状態になり、点滴をはずそうとしたり家に帰ると言い張り暴れる。
やむを得ずベッドに両手を縛られ拘束される。
連絡を受け、翌朝慌てて病院へ。

「この病院は何かヘンだ。自分はヘンな薬を飲まされている。
何もしてないのに手を縛られて動けなくされた。
とにかくココは危ない。こんな所には居られない」
と興奮状態で訴えてくる。
眼光はカッと見開き、怒りの感情を抑えきれない様子。

そうじゃないんだよ。
寝ぼけたんだね。
優しい看護士さんたちだよ。

説得をして気持ちが落ち着いたのは夕方近く。
翌日深夜は何事も無く過ぎる。

9月21日夜9時。
病院から電話。
再び錯乱し「家に帰る」と言っているとの事。
眠れる点滴で処置したいが暴言を吐いていて難しい、との事。

電話越しに呼びかける。
会話は成立しないけれど、電話を手放さずにいてくれたのでとにかく話しかけた。
30分程経過したころ「少し落ち着いてきたから点滴ができそう」と看護士さん。
その後は何もなく朝を迎える。

ハエみたな虫が飛んでるなぁ。
病室の中の物が揺れてるなぁ。
部屋、替わったんだな。

などなどは麻薬の幻覚症状と思われる。

でも、6mlのパッチに身体が慣れてきたらしく、深夜の錯乱は無くなった。
ほとんどの時間ウトウトしていて意識の薄い状態となる。
起き上がる事もままならない。
トイレにも行けなくなる。
髭剃りも歯磨きも、何もできなくなる。
このまま弱っていくんだろうと覚悟をする。

担当医から。
かろうじて会話ができるのは今のうち。
来週には聞こえているが返事は出来ない状態になるでしょう。
今のうちにやりたい事をさせてあげて。
と言われる。

父の兄弟たちに連絡を入れた。













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父の闘病・3。

2014-07-05 00:00:31 | 父の闘病・母の事
帰る。


6月28日(土)
咳がひどく出ていた。
苦しそうだった。
「なーんかまだ咳が出るんだよなぁ」と腑に落ちない風の表情で言ってきた。
「まぁ、これから少しずつだよ」と言うしかない。

主治医と話した。

もうあまり長くはない。
一日でも多く、一日でも早く自宅に帰りましょう。
咳も痰も薬で抑えるしか方法はない。
効果が薄れれば強くしていくしかない。
麻薬だからかなりの段階まで強くできる。
でも元凶を断ったわけじゃないから、それにも限界がある。

と言われた。
翌週火曜に退院する事にした。
父に言ったら喜んでいた。


6月29日(日)
熱を出した。37.8度。
息が荒く、辛そうだった。
「実は、病棟の廊下を2往復した。 だからかもしれない。」と父が暴露した。
退院が決まって嬉しくて、ちょっとリハビリのつもりだったんだろう。
が、無理は禁物って事が身にしみた筈。

6月30日(月)
熱が下がらない。 37.9度。
明日の午後まで下がらなければ退院は延期になる。
リハビリのウォーキングが悔やまれる、、、

7月1日(火)
熱も下がり無事に退院。
熱が下がったのは薬の投与のおかげ。
咳と痰と熱を抑える薬、7種類を抱えて退院した。

7月2日(水)
手術の時にポロリと取れた差し歯を治しに歯医者に連れて行った。
パジャマに上着をはおるだけの病人感まる出しで行った。
着替える元気もない。
でも歯を治さなきゃ、食事ができない。
すると栄養が取れない、つまり元気になれない。
「歯」は大切。

車の運転を禁止された。
薬が麻薬性だって理由だと思う。
突然睡魔に襲われたりするのかな。

車の運転が好きな父だったから、すごく可哀想だ。
「それでも、薬が無くなればまた乗れるしな!」って言っていた。
元気になれば薬も減って、そうなれば運転もできるって信じているらしい。

私の胸がすごく苦しくなった。
告知をしない、ウソを言う、 って事はこういう事だ。
これからもこんな胸の痛みがあるんだろうな…。
でも、それでも言わない。

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父の闘病・2.

2014-06-27 18:19:49 | 父の闘病・母の事
父の病状、その後。


6月20日(金)10時。
予定通り手術が始まった。
病棟内の面会室で母と二人で待機。

1時間後、終了の連絡。
説明をするからと言われ、母を置いて独りで主治医のもとへ向かった。

左脇腹に2つの穴をあけ、内視鏡での手術。
内視鏡カメラで撮影した動画を見ながら説明を受けた。

胸壁にはポロンポロンと丸みのあるガン細胞がたくさん巣食っている。
肺にもしっかりと付着しているガン細胞、モコモコと不気味な大きな塊となっていて、
切除する段階はとうに超していると、私でも分かる。
そして水がピチャピチャと波打っているのも見える。
最初の排水から1週間で1200mlがまた溜まっていたようだ。

水を吸い取り、悪玉細胞の一部を切り取り、出血部の処置をした。
その後、全体に3種類の接着剤(血液製剤)をスプレーした。
肺がどんどん膨らんで胸壁まで届くくらいになった。
胸水が溜まるスペースを潰した。

手術はこれで完了。

あとは癒着の程度を見ながら、1日に溜まる水の量が200mlを下回るのを待つ、との事。

全身麻酔からとりあえず意識だけが醒めた父は、割と元気だった。
夢をみた、と言っていた。

既に他界している自分の兄が、きれいな洋服を着て少し遠いところに立っていた。
でもこっちにおいでの手招きはしていなかった。
まだなんだな、って思った。 てな事を言っていた。

その日の午後、麻酔からの完全な覚醒に苦しんだ。
でも夕方には元気になった。
翌日から普通食をフツーに食べていた。

6月23日(月)
体調は良いが、点滴はまだ外せない。
癒着療法の手術から3日が経ち、一日に出る胸水が300mlまで減った。
しかしまだ多い。
なので、病室のベッドに寝たままで接着剤散布を再度実行。

6月24日(火)
点滴終了。

6月25日(水)
胸水の量が200mlを下回ったので、身体についていた管を取った。
身軽になって喜んでいた。

6月26日(木)
完璧に元気になっていた。
「ぃゃぁ、良かった良かった」と、病気を克服した喜びで表情がとにかく明るい。
告知しなくて良かったと、本当に思った。
喜んでいる幸せそうな表情はきっとずっと忘れられない。

来週には退院ができるだろうと思う。

明日、主治医からの話しがあるらしい。






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父の闘病。

2014-06-19 13:09:41 | 父の闘病・母の事
遂にこの日がやってきた。


父が患った。
85歳の高齢とは思えないほどに元気でシャキシャキ動いていた父。
私なんかよりも全然ハツラツと生活できていた父。

数ヶ月前から夜中に咳が少し出始めた。
日中はそうでもないし、夜中の咳も眠れないほどじゃなかった。
そのせいか、病院に行こうとしなかった。

6月10日(火)。
年に1回、インフルエンザワクチンの時だけ利用している内科にやっと行った。
レントゲン検査の結果、即入院。
それでも「ちょっと考える」と言い張る父。
説得してなんとか大病院に入院させた。

入院手続きの際、私と夫にだけ知らされた「肺がん末期」の事実。
本人に告知するか。
治療の余地は無く、今後の処置はどうするか。
副作用等を考慮し、対処はどの程度するか。
本人の意思を聞いたことはあるか。

そんなような事を即決断してくださいと迫られた。

告知を拒否した。
母にも言わない事を選んだ。
健康である事を誇りにしていた父に告知の道は考えられなかった。

手術で肺の中に抗がん剤を振りまく処置を選んだ。
わずかでも延命できれば、と思った。
手術後に帰宅して、できるだけ普通に生活する事を希望した。
帰宅ができるかどうかは分からないが、とにかくこのまま2ヶ月で見送るのは絶対に避けたかった。

6月11日(水)。
左肺に溜まった1.8リットルの水を抜いた。
身体がラクになったようで、大喜びだった。
「また5年は寿命が伸びたぞー!」と張り切っていた。

6月12日(木)。
手術のための検査をしている時に容体は急変した。
血圧急低下、呼吸不全、体温低下、嘔吐、意識喪失。

私だけに呼び出しが来た。

一命は取り留めたが想定外の事が起きてしまい、
手術ができるかどうか分からなくなった。
仮にできても綱渡りの手術になる。
帰宅ができなくなるかもしれない。

と担当医から言われた。

父は弱気になっていた。
泣いて「家の枕の下にある黒いかばんを持ってきてくれ」と言った。
覚悟をしたらしかった。

6月13日(金)。
一転、父は元気を取り戻した。
熱もあり胸の苦しさや咳はあるものの、前日の弱気の虫はいなくなっていた。

その後も日を追うごとにいつもの父になって行った。

6月17日(火)。
面談の約束があり、父にわからないように担当医と会った。
検査の詳しい結果が出た。

胸水から悪性細胞は見つからなかった。
水から出ない事は十分にあり得る。
しかし、右肺に転移が見られる点からステージ4は間違いない。
手術の時に腫瘍細胞を採取して正式に病名を明らかにする。
癒着療法で肺に水が溜まりづらい状態にするが、まったく溜まらなくなる事はない。
一日で溜まる量によってその後の動向を決める。
肺に溜まる水が止められなくなるか、
他の臓器等に転移が始まるか、どちらかの状態で再入院になる。
その時にはもう退院はない。
そして今のウソに破綻をきたす事になる。

と言われた。

手術は6月20日(金)。

まずは無事に終わってくれることをただ祈るだけ。


こんな日がいつか来るんだろうと去年のうちに仕事を辞めた。
責任を全うして退職しておいて本当に良かった、と本当に思う。









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