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加藤貞泰 黒野城

2021-09-16 10:10:00 | 日記
黒野城は 関ヶ原の戦いの時代に立っていた城で現在は 城跡のみで 天守閣はない 城主は加藤貞泰 その父は 加藤光泰で 豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加して 陣中で石田三成に毒殺されたのではともっぱらのうわさで急逝 今の山梨県である甲斐国24万石の大名だったが父親の後ではなく若年を理由に美濃国黒野4万石をおさめていた。そして関ヶ原の戦い勃発 岐阜城の織田信長の孫 織田秀信は三成の西軍に組したため 岐阜市より北西の大名はほとんど西軍につくことになり 貞泰も西軍として最前線の犬山城に貞泰は出兵する 城を守る垂井の竹中重門らと語らい兵を引きあげ 東軍に無血開城させ その後 東軍につく 井伊直政隊に入り 島津義弘の島津の退き口で突破されたものの 水口城攻めに功があった その後領国整備にいそしみ 戦国最後の楽市楽座を黒野で行い 尉殿堤と言われる堤防工事を行った これが加納城の徳川家康の孫 亀姫さまの領地を浸水させたと言うことで 伯耆米子へ転封となる 米子城は 横田騒動といって 元服したばかりの中村一忠と言う若殿に横田村詮と言う家老が斬りつけられ その縁の家臣がすぐそばの飯山城に立て篭り隣国の力を借りて鎮圧 一忠も20歳で急死 改易 そして令和の今でもその亡霊が出ると言う噂の城に赴任するも 江戸城普請 大阪冬の陣では天満口 大阪夏の陣では神崎口の押さえで功績あり 伊予大洲城に転封 中江藤樹のような天才引き連れ 砥部焼など産業も起こし 最後には 勤皇藩として 鉄砲隊を率い鳥羽伏見の戦いでも活躍 坂本龍馬の海援隊にいろは丸と言う蒸気船を貸し出したりした 大洲藩の始祖となる 令和になり 黒野城 米子城 大洲城 に同じ種類のタンポポが咲くという また 鵜飼も伝承されているらしい

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