昔、本当に小さかった頃、テレビで二週連続で「バタリアン」と「バタリアン2」が放送されて、二週とも漏れなく見てしまい、トラウマになりました。
バタリアンとは、いわゆるゾンビもののホラー映画で、科学物質でゾンビになった人たちが生きてる人の脳みそを食べて、脳みそを食べられた人もゾンビになってしまうというパニックものの名作です。
小さかった僕はそれから何年も、もしかしたらそんなに長くないのかもしれないけど(子供の時間は大人のそれより物凄く長い)、バタリアンのように脳みそを食べて食べられる悪夢を見続けました。
それから数年間、僕は一人で眠る時は自然と、お祈りするように手を身体の前で組んだり、蛹のように身体を丸めた格好で眠るようになりました。
あの夢をあまり見なくなっただけでも、僕は昔より今のほうが幸せだと思ってしまうほどです。
僕はゾンビものやスプラッターものなど、ホラー映画は結構好きな方で、チョコバーやピザ、コーラなんかを用意してみんなで見ると、とてもハッピーになるのですが、小学校高学年の頃に友達の一人がレンタルしてきた「バタリアンリターンズ」をみんなで見ようとなったときは、迷わず逃げました。
だって怖かったから。
それから、友達が飽きて忘れるまで僕の臆病さは笑いものにされました。
もっともっと怖い映画を見てきた今でも恐らく、バタリアンだけは見れないでしょう。
さて、今日一番話したいのはバタリアンなどに登場するゾンビがなぜ怖いのかということです。
あくまで僕の個人的な意見ですが、ゾンビに感じる恐怖の一番の要因は「自分が少しずつ自分ではなくなる」という事ではないかと思うのです。
昔、僕が見続けた悪夢の中でも、僕はいつも友達や家族など、知っている人に脳みそを喰われて、そして僕もまた友達や家族など大好きな人たちの脳みそを喰らう化け物になっていました。
僕たちはお互いによく見知った姿を留めながら脳みそを喰らっていました。
全然人間の姿を留めていない化け物だったらこんな嫌悪・恐怖・悲しみは感じなかったことでしょう。l
怖すぎてあんまりやっていないのですが、ゲームの「バイオハザード」に「G」という敵キャラの化け物が出てきます。
それは開発者が、僕が持っているような恐怖や嫌悪を理解しているんだなと思わされるキャラクターでした。
Gはもともと人間の科学研究員で、自分が開発したウィルスを身体に打ち込んで化け物に変貌するのですが、ストーリーの進行と共にその姿は変化していくのです。
初めて登場するときはほとんど人間そのままで衣服も着ているのですが、徐々に身体が化け物らしくなっていき、最後には巨大な肉塊になってしまいます。
声もはじめは人間の「ウォー」って声なのですが、どんどん獣染みていき、最後にはグチュグチュ音をたてるだけになります。
当時中学生だった僕はその姿のグロテスクさに恐怖を覚えましたが、それ以上に魅了されていき、ノートや机、そこらじゅうにGをモチーフにした落書きをしていました。
何故だか分からないけど、一部の人間はやたらとグロテスクなものに惹かれるものです。
僕もそのくちの人間です。
僕はきっとどんな映画を見ても感じられない衝撃をバタリアンに感じていたのでしょう。
ゾンビから僕が導いた事柄を二つ。
よく見知ったもの、愛したものが、少しずつ知らない化け物に変貌していく姿ってのは、恐らくこの世で一番グロテスクなのではないでしょうか。
そして一番恐怖を感じることってのは自分が少しずつ自分じゃなくなることなのではないでしょうか。
そのせいか時々思います。
いつか死ぬときはしっかり自分が自分でいて、そのまま綺麗に死にたいけど、きっと叶わないから木端微塵になって死にたいなと。
大切な人の脳みそを食べるなんてそんな恐ろしいことはないでしょ。映画だけどさ。
実はこれを書いてる現在の自分こそゾンビ状態なので寝ます。
文の出来に自信なし。
いい夢見れると良いなぁ。
今なら人によるけど脳みそ食べたり食べられたりする夢も悪くないかもね。
バタリアンとは、いわゆるゾンビもののホラー映画で、科学物質でゾンビになった人たちが生きてる人の脳みそを食べて、脳みそを食べられた人もゾンビになってしまうというパニックものの名作です。
小さかった僕はそれから何年も、もしかしたらそんなに長くないのかもしれないけど(子供の時間は大人のそれより物凄く長い)、バタリアンのように脳みそを食べて食べられる悪夢を見続けました。
それから数年間、僕は一人で眠る時は自然と、お祈りするように手を身体の前で組んだり、蛹のように身体を丸めた格好で眠るようになりました。
あの夢をあまり見なくなっただけでも、僕は昔より今のほうが幸せだと思ってしまうほどです。
僕はゾンビものやスプラッターものなど、ホラー映画は結構好きな方で、チョコバーやピザ、コーラなんかを用意してみんなで見ると、とてもハッピーになるのですが、小学校高学年の頃に友達の一人がレンタルしてきた「バタリアンリターンズ」をみんなで見ようとなったときは、迷わず逃げました。
だって怖かったから。
それから、友達が飽きて忘れるまで僕の臆病さは笑いものにされました。
もっともっと怖い映画を見てきた今でも恐らく、バタリアンだけは見れないでしょう。
さて、今日一番話したいのはバタリアンなどに登場するゾンビがなぜ怖いのかということです。
あくまで僕の個人的な意見ですが、ゾンビに感じる恐怖の一番の要因は「自分が少しずつ自分ではなくなる」という事ではないかと思うのです。
昔、僕が見続けた悪夢の中でも、僕はいつも友達や家族など、知っている人に脳みそを喰われて、そして僕もまた友達や家族など大好きな人たちの脳みそを喰らう化け物になっていました。
僕たちはお互いによく見知った姿を留めながら脳みそを喰らっていました。
全然人間の姿を留めていない化け物だったらこんな嫌悪・恐怖・悲しみは感じなかったことでしょう。l
怖すぎてあんまりやっていないのですが、ゲームの「バイオハザード」に「G」という敵キャラの化け物が出てきます。
それは開発者が、僕が持っているような恐怖や嫌悪を理解しているんだなと思わされるキャラクターでした。
Gはもともと人間の科学研究員で、自分が開発したウィルスを身体に打ち込んで化け物に変貌するのですが、ストーリーの進行と共にその姿は変化していくのです。
初めて登場するときはほとんど人間そのままで衣服も着ているのですが、徐々に身体が化け物らしくなっていき、最後には巨大な肉塊になってしまいます。
声もはじめは人間の「ウォー」って声なのですが、どんどん獣染みていき、最後にはグチュグチュ音をたてるだけになります。
当時中学生だった僕はその姿のグロテスクさに恐怖を覚えましたが、それ以上に魅了されていき、ノートや机、そこらじゅうにGをモチーフにした落書きをしていました。
何故だか分からないけど、一部の人間はやたらとグロテスクなものに惹かれるものです。
僕もそのくちの人間です。
僕はきっとどんな映画を見ても感じられない衝撃をバタリアンに感じていたのでしょう。
ゾンビから僕が導いた事柄を二つ。
よく見知ったもの、愛したものが、少しずつ知らない化け物に変貌していく姿ってのは、恐らくこの世で一番グロテスクなのではないでしょうか。
そして一番恐怖を感じることってのは自分が少しずつ自分じゃなくなることなのではないでしょうか。
そのせいか時々思います。
いつか死ぬときはしっかり自分が自分でいて、そのまま綺麗に死にたいけど、きっと叶わないから木端微塵になって死にたいなと。
大切な人の脳みそを食べるなんてそんな恐ろしいことはないでしょ。映画だけどさ。
実はこれを書いてる現在の自分こそゾンビ状態なので寝ます。
文の出来に自信なし。
いい夢見れると良いなぁ。
今なら人によるけど脳みそ食べたり食べられたりする夢も悪くないかもね。
今度一緒に克服してみっか。