今日は家族で食事に行きました。
帰りに昔からの馴染みの道を歩いて近所の公園「さくら公園」のあたりまで来ると、
公園の隣の民家があった辺りが工事中のフェンスに囲まれていることに気がついた。
そして思った。
「この辺も昔はカエルがいたよなぁ」
さくら公園は僕が高校生の頃に改修されて綺麗な公園になった。
それまでは木がうっそうとし、今では危険とされ撤去されつつある箱ブランコや丸いジャングルジムが地球儀みたいに回る遊具などもあった。
確かにそれらの遊具では無茶な遊びをしたものだったが、小学生の頃の自分は遊んでいるときにふと木の葉の間から見える空が好きだった。
そして何よりも公園の一番端っこ、水場の近くには珍しい木の実がなる大きな木があった。
幹は太く穴だらけでぐにゃぐにゃに曲がりたくさん枝分かれしているその木は子供にとって格好の遊び場だった。
そしてその木に登ると、公園の隣の塀に囲まれた民家に池があることを発見できるのだ。そしてその池にはなんとウシガエルだかヒキガエルだかが巣食っていて、水面には卵が浮いていたのだ。
一応都会っ子のつもりでいたからこんなに近所でカエルとカエルの卵に出会えるとは思っていなかく、僕達は衝撃を受けたものだった。
そして、今になってそれは子供しか知りえないことだったのだと気づく。
家族といるのに一人で軽く心ワープ。
いてもたってもいられなくなり、ただちに一人で小学生の頃の登校ルートツアーを慣行。
改めてその道を辿ってみるとメインルートなんて少しも歩いてなかった。
公園のフェンスの隙間や家と家の間とか秘密の裏道や近道ばかりだった。
今は道は道でしかない。
毎日仕事や学校へ行くための常識的な通り道。
高校や大学への裏道・近道なんて一つも知らない。
子供にとっては道を歩くことそれ自体が遊びだ。
今は遊ぶためにお金や場所を確保しなくては楽しみながら時間潰すことも出来やしない。
「井の中の蛙大海を知らず」という言葉には「されど天の深さを知れり」という言葉が続くことがあります。
まさにその通りなのではないでしょうか。
小学生の頃、「旅」と称して友達と自転車で遠乗りしたことを考えてみると、今自分が毎日通ってる学校までの道の方がずっと遠いのだ。
随分遠くまで行ったものだとばかり思ってましたが、電車で数駅、または自転車で行ける距離だったのです。
しかし今、毎日快速電車で通過している町がどんなところなのかを僕は全く知りません。
さくら公園が改修されたり古い家がマンションや駐車場になったりとこの町はどんどん変わってきてます。
モンシロチョウの蛹がびっしりついてた木の電柱ももうとっくにありません。
夏の虫の声もあまり聞かなくなりました。
慣れ親しんだ町が自分の知らない場所になっていくのはなんとなく恐ろしいことですが、そんな変化にさえ気づけないのが大抵です。
気づくと昔友達が何人か住んでいた古い集合住宅の辺りを歩いていました。
そして車道に軽石か何かで書かれた子供の落書きを見たとき涙が出そうになりました。
町が変わっていくのではなくて、変わるのは人なんだ。
子供はいつの間にか遠くばかり見るようになって秘密の裏道なんて探そうとしなくなり、慣れ親しんだ公園が綺麗になったことも哀しいことにしか思えなくなる。
何万回も新陳代謝を繰り返した末にいる今の自分は小学生の頃の自分とは完全に別人だ。
ここまで色々捨ててきて何を得たんだろうか。
子供は何のために大人になるのだろうか。
変わらないものは本当に何もないのだろうか。
インターネットのログに残るこの文を次に見るとき既に自分は別の自分だ。
ネバーランドに大人がいないのは、子供が大人になったらピーターパンが殺してしまうからだそうです。
そんなこと知りたくもなかったよ。
なんだか疲れました。
早く寝て次の自分にシフトしなくては。
毎度のことだけど今回特に文が雑になってしまいました。
帰りに昔からの馴染みの道を歩いて近所の公園「さくら公園」のあたりまで来ると、
公園の隣の民家があった辺りが工事中のフェンスに囲まれていることに気がついた。
そして思った。
「この辺も昔はカエルがいたよなぁ」
さくら公園は僕が高校生の頃に改修されて綺麗な公園になった。
それまでは木がうっそうとし、今では危険とされ撤去されつつある箱ブランコや丸いジャングルジムが地球儀みたいに回る遊具などもあった。
確かにそれらの遊具では無茶な遊びをしたものだったが、小学生の頃の自分は遊んでいるときにふと木の葉の間から見える空が好きだった。
そして何よりも公園の一番端っこ、水場の近くには珍しい木の実がなる大きな木があった。
幹は太く穴だらけでぐにゃぐにゃに曲がりたくさん枝分かれしているその木は子供にとって格好の遊び場だった。
そしてその木に登ると、公園の隣の塀に囲まれた民家に池があることを発見できるのだ。そしてその池にはなんとウシガエルだかヒキガエルだかが巣食っていて、水面には卵が浮いていたのだ。
一応都会っ子のつもりでいたからこんなに近所でカエルとカエルの卵に出会えるとは思っていなかく、僕達は衝撃を受けたものだった。
そして、今になってそれは子供しか知りえないことだったのだと気づく。
家族といるのに一人で軽く心ワープ。
いてもたってもいられなくなり、ただちに一人で小学生の頃の登校ルートツアーを慣行。
改めてその道を辿ってみるとメインルートなんて少しも歩いてなかった。
公園のフェンスの隙間や家と家の間とか秘密の裏道や近道ばかりだった。
今は道は道でしかない。
毎日仕事や学校へ行くための常識的な通り道。
高校や大学への裏道・近道なんて一つも知らない。
子供にとっては道を歩くことそれ自体が遊びだ。
今は遊ぶためにお金や場所を確保しなくては楽しみながら時間潰すことも出来やしない。
「井の中の蛙大海を知らず」という言葉には「されど天の深さを知れり」という言葉が続くことがあります。
まさにその通りなのではないでしょうか。
小学生の頃、「旅」と称して友達と自転車で遠乗りしたことを考えてみると、今自分が毎日通ってる学校までの道の方がずっと遠いのだ。
随分遠くまで行ったものだとばかり思ってましたが、電車で数駅、または自転車で行ける距離だったのです。
しかし今、毎日快速電車で通過している町がどんなところなのかを僕は全く知りません。
さくら公園が改修されたり古い家がマンションや駐車場になったりとこの町はどんどん変わってきてます。
モンシロチョウの蛹がびっしりついてた木の電柱ももうとっくにありません。
夏の虫の声もあまり聞かなくなりました。
慣れ親しんだ町が自分の知らない場所になっていくのはなんとなく恐ろしいことですが、そんな変化にさえ気づけないのが大抵です。
気づくと昔友達が何人か住んでいた古い集合住宅の辺りを歩いていました。
そして車道に軽石か何かで書かれた子供の落書きを見たとき涙が出そうになりました。
町が変わっていくのではなくて、変わるのは人なんだ。
子供はいつの間にか遠くばかり見るようになって秘密の裏道なんて探そうとしなくなり、慣れ親しんだ公園が綺麗になったことも哀しいことにしか思えなくなる。
何万回も新陳代謝を繰り返した末にいる今の自分は小学生の頃の自分とは完全に別人だ。
ここまで色々捨ててきて何を得たんだろうか。
子供は何のために大人になるのだろうか。
変わらないものは本当に何もないのだろうか。
インターネットのログに残るこの文を次に見るとき既に自分は別の自分だ。
ネバーランドに大人がいないのは、子供が大人になったらピーターパンが殺してしまうからだそうです。
そんなこと知りたくもなかったよ。
なんだか疲れました。
早く寝て次の自分にシフトしなくては。
毎度のことだけど今回特に文が雑になってしまいました。