ンデンデキ外伝

僕の話をしよう。

ある仮説

2007年10月19日 01時53分24秒 | 糞ぼやき関係
最近あるひとつのことについてずっと考え込んでいます。

仮に、「わたし家にいるとき目茶目茶ネクラですよー。休みの日なんてずっとヒッキーだし、ほぼアキバ系ですもん」みたいなことを言う女の子が居たとしましょう。
彼女は普段あなたが見かける時はいつでも誰かと一緒に楽しそうにして居て、あなたが着いていけないような流行の話から仕事や勉強の話まで何かと楽しそうにしています。

その彼女が自分のことを根暗だとのたまうわけです。

あなたは彼女の言うことを信じられますか?
白々しいと思うんじゃないでしょうか。
僕はそう思います。


けれど仮に、仮に彼女の言うことが本当だとしたらどうでしょう。
彼女の言う根暗とは、もう完全に自分を見限ってしまったような恐ろしく寂しい冷たい感情で、普段の彼女からは到底想像できない波ひとつ立たない底なし沼のようなものだとしたら。



あなた自身がネクラだろうがネアカだろうが、ひとつ確実なことは人が人と接するのはまさに点と点くらいに過ぎないということです。
その人が一人になったときのことなど誰にも分かりようがない。

彼女の抱える闇が実は救いようのない深遠であるように、自分で自分をダメな奴だと思いつつ自意識ばかりが膨らんでいき、根拠のない疎外感や孤独感を抱いているあなたが実は、相対的に見てけっこうピースな人間なのかもしれない。

そもそも各々の抱える闇に相対的な大きさや濃さがあるのでしょうか。

愛する家族やまだ見ぬ子孫たちのために毎日一生懸命学び働く感情と、猟銃で自分の頭を吹っ飛ばす感情になんら違いはあるのでしょうか。

正気なんていうものは狂気のひとつの顔にすぎず、狂気もまた正気のひとつの顔に過ぎないのかもしれない。

なにもかも同じなのかもしれない。



こう考えると、時々ニュースなどで議論されている人々の没個性化も、近視がちの考え方をマクロの目で見たときの正常な振る舞いなのかもしれません。
ヘーゲル哲学で言うところの、全ての具象に存在するテーゼとアンチテーゼの衝突の先にあるもの、それがたったひとつであることは自明であります。

没個性ではなく、言うなれば、ある意志が働いた結果の「絶個性」ではないでしょうか。







どんな下ネタよりも引くであろう講釈でした と。

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