これから数世紀後には魏志倭人伝に記された国の一つになったかもしれんな。航海術に長けていたのであればそうなったのではないかな。
整然と並べられているのだが・・・うーむ、この様な状態で検出されたのだろうか。ある程度は検出の状態がいかようであったかを報せるべきではないのかな。ただ展示すればいいと言うものではないと思うのだがな。説明によると貴重な線刻もあったと書いてあるのだが・・・うーむ、せめて写真を載せるぐらいはしてもらいたいと思うぞ。
毎日新聞切り抜きである。世界遺産に登録されたことは嬉しい。ただね、マナーも守れない、ルールも知らない外国人には来てもらいたくない。何をされるか判ったもんじゃない。ゴミは捨てられるは・・はたまた下のものまで目に付くようになるのではないのか。懸念されるのである。やってはいけないことや、目に余る行動に出るのではないかと今から思いやられるのである。遥拝所があるのは日本人なら判るだろうが・・理解してくれるだろうか。まずもってしっかりと勉強してきてもらいたいのだがな。あるテレビ局の女性が古墳探訪をしていたが目の前にあるのに判らないでいた。勉強して来いよ。
古墳に興味がないからこんなものだ。世界遺産になったから手のひらを返すような行動はやめてもらいたいな。面白半分で行くなよと言いたい。
いろいろと意見はあるだろうがな。
写真右下に見えるのは丸保山古墳、その奥に小さな前方後円墳の様に見えるだろ。樋の谷古墳である。
そうそう、被葬者が確定していないから仁徳天皇陵、履中天皇陵とは言わずに地名に基づく名称で呼ぶべきだと言う声があるが・・我輩は天皇陵で良いと思うがな。賢明なる読者諸氏はどのように思われるかな。
雌塚が主体の様になっている遺跡の様だが弥生時代の土壙墓から支石墓などが検出されている。ここでは少し判りにくいのだが3基の石槨(石棺)が残されている。弥生時代から古墳時代までの遺跡がある訳で、この地に数百年もの間生活の営みがあったということである。
「脊振山系の支峰、石峰山から延びる標高約55mの段丘上に立地する。弥生時代から古墳時代にかけての墳墓である。この遺跡からは、弥生中期から後期の甕棺墓約400基・土壙墓8基、後期から古墳時代初頭の箱式石棺墓32基、古墳時代初頭の古墳2基・方形周溝墓1基などが発見され、墓制変遷を知る上で重要な遺跡である。
このうち、雌塚・方形周溝墓・環状列石土壙墓の3カ所が保存されている。
雌塚は直径32m、高さ35m余りの円墳で、礫槨墓を内部主体とする。方形周溝墓は南北14m、東西15m。内部主体は不明である。環状列石土壙墓は、直径20~50cm程の礫を1メートル幅で環状に配したもので直径は2.9~3.5m、中央に土壙墓が設けられている。」出典(佐賀県文化財データベースより)
すぐそこに墳丘が見えるがこれは雌塚古墳である。別にアップするのでお楽しみに。
姫方遺跡