難経69難による選穴、自身のアタマの中ではいかなる像が描かれているのかを視る。
難経69難による選穴のプロセスで自身のアタマの中ではどの様な像が描かれているのだろうか、どの様な像が本来描かれるべきなのだろうかを具体的に視ると、以前に「難経69難による選穴」について覚えるべきこと(本日おこなわれる実技試験に関わって)は、僅かである、とした背後には、アタマの中には、とても「僅か」とは言えない像がある。
例えば「肝の虚証」で視ると、知識としては「左尺中と左関上が虚→肝の虚証→治療穴は曲泉と陰谷」である、でしか無いのであるが、その背後にある(自身の)像は、アバウトに視ても、以下である。
「左尺中と左関上が虚」に対応するアタマの中の像は、「自身が相手を脈診している姿」に重ねて「教科書にあるような左右手首の寸口、関上、尺中を○で示している図で左尺中と左関上が●になっている図」である。
そこから、「肝の虚証」へとなるのには「六部定位の図から左尺中は腎、左関上は肝という六部定位と六臓との対応」を描いて......と、その像を見て行くと、そこには、生きた患者の像がどこにも無い、病気の像すらない、ということに気づかされる。
難経69難による選穴、というものは(少なくとも自身のレベルでは)中身のない単なる形式的なもの、と思える。
デカルトが馬鹿にしたという「中世の弁証法=問答法」と重なって、思える。そのことを踏まえて、難経69難による選穴については、改めて説きたい。
難経69難による選穴のプロセスで自身のアタマの中ではどの様な像が描かれているのだろうか、どの様な像が本来描かれるべきなのだろうかを具体的に視ると、以前に「難経69難による選穴」について覚えるべきこと(本日おこなわれる実技試験に関わって)は、僅かである、とした背後には、アタマの中には、とても「僅か」とは言えない像がある。
例えば「肝の虚証」で視ると、知識としては「左尺中と左関上が虚→肝の虚証→治療穴は曲泉と陰谷」である、でしか無いのであるが、その背後にある(自身の)像は、アバウトに視ても、以下である。
「左尺中と左関上が虚」に対応するアタマの中の像は、「自身が相手を脈診している姿」に重ねて「教科書にあるような左右手首の寸口、関上、尺中を○で示している図で左尺中と左関上が●になっている図」である。
そこから、「肝の虚証」へとなるのには「六部定位の図から左尺中は腎、左関上は肝という六部定位と六臓との対応」を描いて......と、その像を見て行くと、そこには、生きた患者の像がどこにも無い、病気の像すらない、ということに気づかされる。
難経69難による選穴、というものは(少なくとも自身のレベルでは)中身のない単なる形式的なもの、と思える。
デカルトが馬鹿にしたという「中世の弁証法=問答法」と重なって、思える。そのことを踏まえて、難経69難による選穴については、改めて説きたい。