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グローバル化の時代の保守主義☆使用価値の<窓>から覗く生態学的社会構造

2010年04月23日 14時18分14秒 | 日々感じたこととか



グローバル化の昂進の中で日本はどこに漂着しようとしているのか。本稿はこの些か大仰なテーマについて描いたデッサンです。而して、その理路は、グローバル化の時代というものの措定、そして、グローバル化が歴史的に特殊なある社会に影響を及ぼす様相の検討の順に進みます。尚、本稿の基盤である私の社会思想に関しては下記拙稿を併せて参照いただければ嬉しいです。

読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
  -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/385e8454014b1afa814463b1f7ba0448

保守主義-保守主義の憲法観
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/18b7d4f888aed60fa00309c88637f9a3
  



1920年代に世界は同時性を獲得した。と、そうしばしば語られます。

1930年代、昭和初期の上海を舞台にした斎藤憐作の『上海バンスキング』に漂う多国籍風の異文化趣味を想起するまでもなく、都市型のライフスタイルと勤め人という働くスタイルが世界中に広まった1920年代。それは、阿片戦争(1840年)とペリーの黒船来航(1853年)を尖兵とし、日露戦争におけるバルチック艦隊の来襲(1905年)を露払いとした「世界-西洋」と「日本-東洋」の<接続>の帰結でもある。

而して、西洋と東洋の<接続>の後、世界の資本主義の圧力は、更に、第一次世界大戦(1914年-1918年)、ロシア革命(1917年)大恐慌(1929年)を引き起こし、世界金融恐慌(2008年)を経て現在に至っている。    


この観点からは1945年3月10日の東京大空襲、同年夏の廣島・長崎への原子爆弾投下は、「世界-西洋」と「日本-東洋」の<接続>がアップグレードされた事態なの、鴨。重要なことは次のポイント、

世界の同時性とは「時間の同一性」ではなく「時代の同一性」である。すなわち、後者は前者の物理的時間の同一性(編年的同一性)に一応底礎されながらも、しかし、それに吸収され尽くすものではないということ。蓋し、「世界の同時性-時代の同一性」とは、世界中の人々が、他の国の人々も自分達と同じような課題を抱えている現実を意識していることに他ならない。    


こう私は考えています。例えば、1918年-1933年、ワイマール期のドイツは「埋もれたモダン」であると語られます。すなわち、1930年代の極めて自由主義的な1920年代のドイツは、一方、市民が個に分断され、顔の見えない<大衆=マス>としてしか政治に参加できなくなった社会、しかし、市民が大衆として政治に決定的な影響力を及ぼすようになった、そして、ファシズムを準備した社会。而して、この社会的な構造の変容の中で「自由主義=モダン」なワイマール体制は歴史の中に埋没した、と。

このワイマール期ドイツの光と影は、マクロ的には、大恐慌や昭和恐慌に向かっていたアメリカや日本の社会にもそれと類似の構図は容易に確認できる。では、このような基本的な歴史認識の枠組みを採用するとき、グローバル化に日本はどう拮抗すればよいのか、否、グローバル化とはそもそもどのような事態なのでしょうか。




■社会思想の地平におけるグローバル化の位相
2010年現在、人類の生産力と資本主義的な生産様式は地球全体を覆っています。温室効果ガス問題や大量破壊兵器の制限問題、そして、何より世界金融恐慌を想起するまでもなくこのことは誰も否定できない現実でしょう。(たとえ、その国が「鎖国」をしていようとも、物流や金融、環境問題や情報通信を媒介にして)現代では世界のどの国も民族も他のどの国や民族とも無関係ではありえない。

旧ソ連を崩壊させたのは市民が視聴可能な西側のTV映像であったという<神話>は置いておくとしても、ブラジルやロシアがアマゾンやシベリアの森林を本格的に開発することは、もしそうすれば、地球規模での酸素の需給均衡が崩れるから、国際政治の力学の中では不可能に近い。けれども、ある国家が自国の資源を自由に利用できないという事態を正当化する論理は、最高独立(国内では最高の他国に対しては対等独立)の<国家主権>を核とする古典的な国際関係の原理とは別系統のものと言わざるを得ない。


では、絶滅の可能性が科学的に証明されているわけでもない現状で、アプリオリに「鯨を殺すとは恥を知れ!」とか「知能の高いイルカを殺すのは可哀想!」とほざく西洋の声に、縄文時代以来、食糧としての鯨と共に生きてきた日本人は道を譲るべきなのでしょうか。あるいは、「宗教色の公的施設からの払拭」「治安の維持」を名目に、イスラーム女性からブルカ・ニカブ・チャドル・へジャブを奪い去ろうとするフランスやベルギーの野蛮で傲岸不遜な立法の企ては(それがある主権国家内部の合法的措置である以上)許されることなのでしょうか。

・イスラム女性からベールと尊厳を奪う傲岸不遜なフランスの詭弁

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c5adb326e331632e8e39aaa1b44d47e5


蓋し、ロシアやブラジルの開発を制限する論理と日本の食文化やイスラーム女性の尊厳とアイデンティティを制限する論理は同一のものか、否か。この点こそ、グローバル化の本性を照射する好個の事例なの、鴨。

マルクスは『経済学批判』の序言でこう述べています。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。(岩波文庫, p.13)   

⬆意味不明♪ ということで、

The general conclusion at which I arrived and which, once reached, continued to serve as the leading thread in my studies, may be briefly summed up as follows: In the social production which men carry on they enter into definite relations that are indispensable and independent of their will; these relations of production correspond to a definite stage of development of their material powers of production. The sum total of these relations of production constitutes the economic structure of society—the real foundation, on which rise legal and political superstructures and to which correspond definite forms of social consciousness. The mode of production in material life determines the general character of the social, political and spiritual processes of life. 

 

引用箇所の直後から、マルクスは「資本主義崩壊」の必然性と所謂「アジア的、古代的、封建的、および、近代ブルジョア的生活様式」の類型論を展開しているのですが、このような唯物史観が<法則>であるなどとは、現在、化石のようなマルキストも主張しないので割愛します。蓋し、保守主義の立場に立つ我々が、グローバル化(資本主義的生産様式の地球規模での拡大深化)に関してマルクスの思索から学ぶべきは次の点ではないでしょうか。

(1)グローバル化は歴史的必然である
(2)グローバル化にともない各国民・各民族はその文化の組み換えを迫られている   


蓋し、歴史の発展段階論を<法則>としてではなく<傾向>として見ること。すなわち、その<傾向>を各国民・各民族に歴史的に特殊で具体的な<社会的実存>として捉える「論理的-歴史的」な保守主義の立場からは、<傾向変容>の動因の一つとして生産力と社会的な生産様式を抽出したマルクスの思索は今でも十分に参考にするに値するのではないか。と、そう私は考えます。




■保守主義はグローバル化の波濤に拮抗し得るか
民族の歴史とは、民族に特殊な「生態学的社会構造」(エコシステム:自然を媒介にした人と人とが取り結ぶ社会関係の総体)の変容に促さされた社会・経済、法制・イデオロギー(すなわち、「食文化」「居住文化」「余暇文化」等をコロラリーとする「言語」「性」「交換」「権力」の諸制度)の変遷であり、民族の文化とは「生態学的社会構造」の上に花開いた表象であり観念形象に他ならないのでしょう。

ならば、人類の生存を脅しかねないシベリアやアマゾンの開発は生態学的社会構造を民族理解の補助線とする立場からは批判され、他方、反捕鯨論やイスラーム女性からベールを奪い去る野蛮は、欧米の生態学的社会構造の変容に対する欧米人の応戦にすぎず、それはグローバル化に適合的な社会思想からはサポートされることはない。と、そう私は考えます。尚、私の言う「生態学的社会構造」の内包と外延についてはとりあえず下記の拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・日本語と韓国語の距離☆保守主義と生態学的社会構造の連関性
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/790c8bbded92bf52c9c06f913ac6ae2c

 

・京都☆保守主義の舞台としての生態学的社会構造
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/199b39baca575f644c9accc68fbc5700



使用価値の体系は文化の体系。これが川勝平太『日本文明と近代西洋』(NHK・1991年6月)の核心的メッセージであろうと思います。例えば、明治の日本、廉価なイギリス製綿製品が日本製綿製品を駆逐するという大方の想定が見事に外れたのは、実は、英国製品が専ら薄手の夏物を得意としており、他方、日本製品は冬物の材料として主に使われていたからだと(ibid., pp,72-73)。つまり、同じ「木綿」といっても両者は使用価値を全く異にしていたということです。この点を踏まえて私はかってこう書きました。

『西洋の没落』は70年以上も前にシュペングラーが語った。しかし、ヨーロッパ後の社会思想は未だ具体的には提示されていない。それは、ポスト=ヨーロッパの時代の実定的な社会思想を、ヨーロッパ以外の文化にヨーロッパの眼鏡を通して探す傲慢な態度と不毛な異文化趣味。没落するヨーロッパにさえ劣ったヨーロッパ以外の文化をそのまま次の時代の主役として扱おうとする一層不毛な厚かましさとに原因があるのではないか。   


・揺らぎの中の企業文化-日本的経営と組織は国境の消失する時代に拮抗しうるか
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-199.html


グローバル化が及ぼす地球規模の生態学的社会構造の変容は、しかし、それに対する応戦のやり方や帰結を必ずしも均一化しないということです。蓋し、日本の文化と社会の中で育った者のみが日本人である。日本の文化と歴史を共有し、その社会の構成員と自己を規定する者のみが、而して、日本国と運命を共にする覚悟がある者のみが日本人である。ならば、生態学的社会構造の変容に対する日本の応戦のスタイルは、どこまでも日本の文化伝統の延長線上で決められるべきだし、また、決まるのでしょう。



例えば、それが製作された支那では庶民の日常使いの食器であった多くの陶器を、室町期・織豊期の茶人は茶道の茶器として使用した。磁州窯、そして、天目茶碗にはそのような例が枚挙に暇がない。そこには「日本―支那」の間に使用価値の差異、文化コードの差異が存在したということです。

私達の郷里には、それまでミカン農家であった方が、もう40代の半ばすぎに自分の土地で良質の粘土を発見したことから、有田・伊万里等への粘土販売を経て日本有数の陶芸家になった方がおられる。靖国神社への奉納が認められた程の全国区の陶芸家。要は、グローバル化の昂進著しい現在、材料と情報と技術は万人に開かれている。而して、伝統ある日本の陶芸文化に参画するという覚悟と才能があればこのようなことも不可能ではないのです。

私はこれらのことで何を言いたいのか。蓋し、ここには、グローバル化の波濤に抗していかに日本人が新しい日本の文化伝統と歴史を形成していくべきかの指針が埋め込まれているのではないか。それは生態学的社会構造の変容に抗して使用価値の体系に代表される日本的な文化を組み換える道。すなわち、伝統の恒常的な再構築という保守主義の道がその応戦の指針である、と。ということで、九州自動車道、熊本と福岡県境の南関インターチェンジから大牟田市街方面に40メートル足らず。よろしければ、その「陶芸-文化の再構築」の営みに触れていただければと思います。今は才能溢れる二代目が活躍中です。

・三池焼
 http://www.miikeyaki.com/






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