英語と書評 de 海馬之玄関

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京都☆保守主義の舞台としての生態学的社会構造

2010年02月22日 08時53分40秒 | 日々感じたこととか


ドル箱の修学旅行が少子化の影響もあり往時に比べ減少したとはいえ、沖縄県や海外からの修学旅行獲得等々京都市によるここ数年の「攻めの観光客誘致活動」の結果、2007年、京都を訪れた観光客は史上初めて五千万人を超えたそうです。実際、アメリカで仕事をしている時、(今も下手だけど)英語が話せなくて、でも、なんとか話題を提供しないと商談にも進めないという切羽詰った折、「I graduated in law at Doshisha University, in Kyoto. Do you know Kyoto?」というフレーズが私の<命綱>でした。それだけ京都は世界的にも知名度が高いということ。

私は京都に7年間住んでいた。修学院離宮近傍の修学院薬師堂町と京大西部講堂というか百万遍交差点近辺の吉田上阿達町。高校卒業してからの丸7年。京都、懐かしい~♪ と、この記事は「京都の思い出」や「京都の観光案内」を記すものではありません。<京都>を切り口にして、私が保守主義の舞台と考える(すなわち、保守主義がそこで生まれ、そこで生長し、そして、そこで自己を恒常的に再構築していく営みの舞台としての)「生態学的社会構造:eco-system」そのものの本性について考えてみること。随想になるにしても、保守主義のその拠って立つ基盤の特徴的な性質と思われるものを幾つかスケッチすること。それが本稿の獲得目標です。尚、「保守主義」に関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照ください。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145893374.html

・日本語と韓国語の距離☆保守主義と生態学的社会構造の連関性
 いろんな意味で結構根深い日本語の韓国起源説
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d8a7ec627fab192570817c9c7038e195 

・保守主義とは何か(上)~(下)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-474.html
 


■京都-Inside-Out
京都は学生の町。2008年4月1日現在の京都市の人口は147万人、その内、大学生は約11万人、つまり、人口1,000人あたりの大学生数は約74.8人。この比率は2位の東京(23区)の45.9人を大幅に上回る断トツの数字です。ちなみに、東京に続く3位以下は次のようなラインナップ(文部科学省『学校基本調査 平成18年度』から転記)。

3位:福岡市45.5人、4位:仙台市 39.0人、5位:神戸市 36.0人、
6位:名古屋市 31.7人、7位:札幌市 24.1人、8位:広島市 24.1人、
9位:千葉市 23.5人、10位:北九州市 20.3人
参考・11位:川崎市 20.0人、16位:大阪市 9.2人


さて、地方から京都に来た新米の大学生の少なからずは最初の半年くらい市内の観光に夢中になる。関西の観光は(古墳を見たいとか、倉木麻衣さんが通っていた立命館大学近辺の風景をしみじみ味わいたいとかの特別な目的があるわけではない限り)、最短で、かつ、それでも名所旧跡を一通り全部見て廻る場合、京都で3日、奈良で2日、神戸・大阪で1日が<相場>だと思います。

所謂「洛中」(JR東海道線より北、東の東山、西の桂川、北の北山に囲まれたエリア)は縦横大体「10×8」キロで、東京の山手線内よりもむしろ狭いですから、京都市内に下宿している大学生にとっては、徒歩と地下鉄と叡山電鉄でも十分、チャリンコがあれば余裕で京都市内すべての名所旧跡を半月で廻ることも可能です。そして、大体、1回生と2回生の夏休み前後には郷里の友人が宿目当てに訪ねて来てくれる(押しかけて来る?)から、平均的な地方出身の大学生は2回生の秋までには、一通り洛中の名所旧跡は「I have been there.」状態になる。では、京都出身の大学生は如何。

はい。遺憾ながら京都出身者はほとんど市内観光はしません。これは東京タワーに登るのはほとんど地方出身者だけというのと同じこと。そして、2回生の秋も深まる頃、この「京都不感症」は地方出身者にも漸次蔓延して来る。こうして、銀閣寺や竜安寺、金閣寺や清水寺に通じる道筋で、キラキラ目を輝かした東京のOLさん一行と銭湯や餃子の王将に向かう、ジャージの上にチャンチャンコを羽織った大学生がすれちがうという光景が続出するようになるわけです。

上で、「京都の思い出」や「京都の観光案内」は書きませんと言いながら、少し詳しく京都の情景を描写してしまいました。しかし、長い助走に比べ主題はシンプル。すなわち、「本当の京都なるものは存在しない」ということ。

換言すれば、「京都=玉葱の皮」。つまり、京都とは「観光に来た東京のOLさんにとっての京都」「修学旅行で来た沖縄や釜山や台北の高校生にとっての京都」そして「京都市出身の大学生/福岡県大牟田市出身の大学1回生/福島県南相馬市出身の大学3回生にとっての京都」等々でしかあり得ないということです。このことは当たり前のことのようですが、日本の歴史の精髄、あるいは、日本の文化伝統の真髄が京都に行けば落ちているわけはなく、蓋し、それらは、京都ではなく京都を見る人の意識の中にしか存在しないということ。すなわち、<京都>とは「京都」にあるわけではなく、「京都」は<京都>を感じるための<メディア>の一つにすぎないこと。この経緯が長い助走部分から演繹できると考えます。

而して、ここである認識のパラダイムが措定できるのではないか。例えば、「日本国憲法」という現行の憲法典は<日本の憲法>そのものではなく、「日本国憲法」は<日本の憲法>を認識するための<メディア>の一つにすぎないと。あるいは、神社仏閣に物象化した「日本的な文化伝統」は<日本の文化&伝統>そのものではなく、物象化した「日本的な文化伝統」は<日本の文化&伝統>を我々が感得するための<メディア>のパーツに他ならないという認識。このような認識もまた底礎できたのではないかと思います。





■京都-Upside- Down
名所旧跡以外に「京都」という言葉から多くの方が連想するもの。それは、「閉鎖的」「本音と建前の乖離」という京都人のネガティブな傾向かもしません。確かに、京都は閉鎖的と言っていい。京都・大阪・東京・川崎、そして、アメリカで過ごしてきた九州出身者としてそう思います。

実際、大学1回生の時、割の良いバイトということで、下宿の大家さんにも力添えいただいて家庭教師の口を隣の部屋の同じ福岡県出身の京大医学部の新入生と一緒に捜した。けれど二人とも全く相手にされなかった。而して、それから幾星霜。進学志望の大学4回生であと2-3年は京都にいるという状況になった途端、「うっとこの馬鹿娘に勉強教えてもらしまへんやろか」という問合せが殺到した。要は、一旦、コミュニティー内でその存在が認知されようものなら引く手数多になったということ。もちろん、こんな経緯は大なり小なりどこの土地でも一緒でしょうが、京都はやはり特異であることは間違いないでしょう。

蓋し、「閉鎖的」という京都人のイメージは、相手の正体が不明な段階での京都人の防衛本能の発露(というか、端からお互いに過度な期待を持って、結局、お互いに傷つくのは勘弁というconsiderate な性質の裏面)なの、鴨。よって、京都人の性悪さを示す場合に人口に膾炙する「ぶぶ漬け食べはる~?」も京都人コミュニティーの中では中庸を得た表現なの、鴨。

ちなみに、「ぶぶ漬け食べはる~?」とは。訪問した京都人のお家で「ぶぶ漬け(=お茶漬け)食べはる~?」なんてすすめられたら、「もう帰えって欲しんやけど・・・」と、やんわりと言われているというもの。而して、「ぶぶ漬け食べや~♪」と言われたら、さっさと帰るのがマナーという<京都の都市伝説>です。閑話休題。


個々人の京都人だけではなく、マクロ的に見ても京都は裏面の径庭が大きいコミュニティーかもしれません。実際、生臭坊主や強欲和尚は日本全国どこででも見られる<品種>でしょうが、まだ輸入車の関税が高かった20数年前、京都市出身の後輩が「京都でベンツ乗ってんのは坊主とヤクザだけなんですわ、そいで、うっとこの叔父さん結構大きな病院経営してはるんですけどな、(僧侶と任侠系の人々に)間違われるのが嫌やさかいクラウン乗ってるんですわ」と教えてくれました。

けれども、重要なことは、彼等が表では院家としてそれなりのパフォーマンスをしていることではないか。すなわち、僧侶の表裏の乖離は、TVドラマで貞淑な妻女役を入神の域で演じている女優さんが、実生活では「ドロドロのW不倫状態」であるとしても、彼女の演技の価値がそう大きく下がるとは限らないこととパラレルなのかもしれません。而して、この経緯は、(世間を騒がせず事を収める器量と甲斐性がある限り)片端から教え子に手を付ける大学教授についても同様かもしれない。要は、京都はごく普通の人間がある「聖なる役回り」を社会的に演じることで、観光都市、学生の町としてのValueを再生産してきたとも言えると思います。

本項も助走が長くなってきました。而して、本項の私の主張の眼目は、京都は、度重なる生態学的社会構造(自然を媒介にした人と人との社会関係の歴史的に特殊なあり方)の変遷を乗り越える中で「1000年の都」という価値を再生産してきたのではないかという仮説です。ならば、「京都」という言葉と「京都」という町には、複数の意味内容が「歴史的-論理的」に折り重なって憑依している。逆に言えば、「京都」に憑依する<京都>もまた重層的構造をなしているということ。それはあたかも、ある家の建っている敷地に時間を違えて建っていた複数の家々にまつわる複数の<幽霊>が、その同じ敷地にそれぞれ独自に存在している世界、阿刀田高「家」(『恐怖同盟』(新潮文庫), pp.101-128)が描く表象とパラレルなの、鴨。


蓋し、武士の独立政権を樹立した鎌倉幕府が朝廷の容喙をミニマムにすべく関東に拠点を構えたのに対して、なぜに室町幕府は京都にその本拠を置いたのか。それは、鎌倉時代後期には、商業・手工業・流通業が発展したこと、かつ(それらの産業を担う「ギルド組織」にその権益を保証する)寺社・公家という権門が密集する京都を始点と終点として富が集積し流通する状況が成立したからでしょう。要は、鎌倉幕府は農業を基幹とした生態学的社会構造に順応した政治体制であったのに対して、「悪党」と呼ばれる勢力の跋扈、あるいは、嘉吉の一揆や山城国一揆の炸裂に顕現した、非農業セクターに軸足を移した生態学的社会構造への変遷に対応するためには尊氏公は幕府の所在を京都に定めざるを得なかった。

ことほど左様に、江戸期半ばまでは江戸に比べて京都を中心とする上方の労働生産性と製品付加価値は東日本を凌駕していた。而して、京セラやオムロンが再度雄飛する1世紀前までは京都は間違いなく日本随一のハイテク産業都市だった。

そして、鳥瞰すれば、明治維新以来、現在まで一貫して続く関西の地盤沈下の中で、京都は(井沢元彦氏の言葉を借りれば日本初の「総合仏教大学」としての比叡山延暦寺以来の伝統をなぞったのか)世界水準の観光都市として再生を図り、また、学生の町として再生を果たした。畢竟、「1000年の都」の伝統と名声はこのような、数次に亘る生態学的社会構造の変化に対応する、伝統の再構築の営みを通して維持されてきたのではないか。と、そう私は考えています。そうだ、機会があれば一度京都へ行きましょう。





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