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オリンピックあれこれ(14)

◎眠れないのが普通
 「試合の前夜から緊張していて、ぜんぜん眠れませんでした」
 ロンドン五輪の女子レスリングで3連勝した吉田沙保里選手がテレビで、こう言っていました。レポーターは「えっ、一睡もしなかったのですか。それで優勝。びっくりです」と、吉田選手の超人ぶりにあきれ顔。世界選手権でも9回も優勝している百戦錬磨の吉田選手ですら、こういうことなのか。すごい。
 私は1956年メルボルン五輪の男子レスリングで優勝した笹原正三さんを思い出していました。彼も「前夜、一睡もしなかった」と言っていました。大試合の前で緊張している上に、あれこれライバルの特徴や作戦を考えていて、まったく眠れなかったと言います。
 「試合への不安ですね。不安があるから研究し対策を練る。考える。一流選手は昼も夜も試合をイメージしながら考えている。考えているから眠れない。結局は、いままで練習してきた正攻法でいくしかないと開き直るしかない、ということですね」
 吉田、笹原さんのような「眠れない選手」は意外に多いようです。私のような下手なゴルフでも、若いころはコンペの前など一睡もできなかった経験があります(笑)。
 1936年ベルリン五輪の女子平泳ぎで優勝した前畑秀子さんはこう言っていました。「私も決勝の前夜は眠れなくてつらかったですね。ライバルのラップタイムなど考えていると、ウトウトしていてもすぐ目が覚める。ほとんど眠れませんでした」「決勝の日、集合のアナウンスがあった時、お手洗いに行っていたので少し集合に遅れました。オジギをして顔をあげて、相手の6人の顔を見たら、みんな血の気が失せて灰色でした。私も眠れなかったけど、ほかの人たちも同じように眠れなかったのか、と少しは気が楽になりました」
 笑ったのは、同じ1936年ベルリン五輪の陸上長距離で、北欧の長身選手とせりあって満場を湧かせた村社講平さん。「日本にいる時から、レースの前夜ずっと眠れなかった。早々とベッドに入ると、いろいろ考えてかえって眠れなくなる。それで寝る前に中央公論とか改造といった難解な雑誌を読むんですね。すると不思議に眠くなるんです。ベルリンへは、もちろん中央公論を睡眠薬として持っていきましたよ」。

◎眠らないと決めよ
 海外遠征では時差や環境の違いで、どうしても睡眠が浅くなる。日本レスリング協会会長だった八田一朗さんは別名ハッタリング、選手に度胸をつけるため虎とにらめっこさせたりして、話題つくりも上手でしたが、スパルタ練習で鳴らした人です。
 レスリング協会は貧乏でした。だが、経験を積むため海外遠征をしなければならない。だから、貧乏旅行ができるように平生から、どんなところでも眠れて、どんな物でも食べれる、苛酷な環境にも耐えられる訓練をしておかねばならなかった。
 というわけで、日本での合宿は、広い体育館でゴロ寝、電灯の光りを明々とつけ、トイレに行く時は足音を立てさせ、ほかの選手の眠りをワザと妨げさせました。食事ナシはしょっちゅう。
 笹原さんは八田会長の思い出をこう振り返りました。
 「眠れない選手が八田会長に『どうしても眠れない。睡眠薬ありませんか』と言ったら、八田会長が『これ睡眠薬だよ』と、小さな袋に入れた白い粉を渡した。あとで聞いたらメリケン粉でした。それで暗示にかかる人がいるんです」
 「試合の前日は、眠れない方がいいと思います。緊張していたら眠れませんよ。若い人には『眠れない時には、眠るな』と言っています。眠れとといっても急に眠れるものではない。むしろ眠れない時のことを考えて、平生からコンディションを整え、眠れなくても試合できる習慣をつけた方がいい。オレは眠らないんだと最初から決めて、試合のことを考えて考え抜こうという方が自己暗示になります。1週間くらい食べなくても、寝なくても平気だ、くらいの鍛練をしておかなくては金メダルはとれませんよ」
 吉田さんも、寝なくても勝てる準備をしていたのでしょう。

◎金栗さんの荒行
 第二次世界大戦前のオリンピックに参加した、代表的な日本選手は誰でしょうと聞かれれば、私は次の3人の方々の名前を挙げます。初めて金メダルをとった織田幹雄さん、女子の初金メダリスト前畑秀子さん、そして日本が初参加した、ちょうど100年前の1912年ストックホルム大会のマラソン選手、金栗四三さんです。
 金栗さんの名前は、いまでもオリンピックのたびに、新聞紙上に出てくるので知っている方が多いでしょう。いろんな新聞の記者が、「日本マラソンの父」として、金栗さんの物語を紹介するのが、まるで4年毎の恒例のようになっています。
 金栗さんが初出場したマラソンは、40度近い暑さのためバタバタと倒れる人が続出し、史上最も苛酷なレースといわれます。完走したのは68人中37人。1人が死亡しました。日射病にかかった金栗さんは、途中で倒れ農家に運び込まれて気がついたのは翌日のこと。現地の新聞に「消えた日本人」として紹介されました。
 私は、ご存命だった1980年1月、熊本県玉名市のご自宅を訪ね、コタツで向き合ってお話しを聞いたことがあります。
 「ストックホルムへは、まるで日露戦争にでも行くような気持ちでした。死んでも勝ちたかった。それなのに、あんな無様なことになって、生きて帰れないと思いました」
 「団長だった嘉納治五郎先生が、キミはまだ若い。4年後があるではないか、がんばれ、とおっしゃってくださった。それで、忠臣蔵の大石良雄が主君の仇を討つため、いろんな苦労を重ねた。そんな気持ちでやろうと恥をしのんで、もう一度がんばろうと思い直したのです」
 金栗さんは、敗因を「暑さ」「馴れない洋食」「馴れないベッドでの睡眠不足」とし、この3点を克服しなければと勝てないと思いつめました。いまなら、暑さ対策の帽子とか飲料を準備するところでしょうが、金栗さんは違っていました。
 夏休みの3カ月、千葉県の房州海岸で、わざわざ暑い日の直射日光がギラギラ光る時を選んで走りました。最初は、とても走れたものではなかったが、3年後にはどんな暑さでも80%の力が必ず出せるようになったといいます。
 「食事の違いと睡眠不足は、要するに生活様式の急変でしょう。だから、それに順応するため、房州での耐暑訓練では、1日絶食したり、1晩徹夜したあと走るようなこともしました」
 昔の人はすごいですなぁ。いまなら食事が口に合わなければ、日本食を、眠れなければ睡眠導入剤を、というところでしょう。金栗さんは、こう付け加えました。
 「それでも、人間は走れるんですよ」
 いまはスポーツ科学が発達して、食事やトレーニングの管理や休息などが厳しく管理されています。選手団には医者、料理人、マッサーが付き、現地ではマルチサポートとやらの基地が作られる。まさに至れり尽くせりです。筋トレの道具も酸素マスクも、栄養剤も完備しています。
 すべてが便利になりました。だが、昔と今とでは、どちらがスポーツらしいか。人間らしいか。昔は、いろいろ自分で考え、工夫しながら、強くなろうと個々人が努力しました。今はコーチが決めたコースをこなし、栄養士が決めた食事が与えられる。まるでエスカレーターに乗せて、科学の力で強い選手を製造するさまです。これではブロイラーか人造人間です。
 文科省はロンドン五輪での選手育成・強化事業の検証チームを作って、次の2014年ソチ五輪や2016年リオ五輪にそなえるそうです。これって、JOCや日本体育協会がやる民間の仕事じゃなかったのですかな。昔の東欧圏なみの国営ブロイラーが製造される。怖い、怖い。これ、老人の寝言ですか。
(以下次号)

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