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オリンピックあれこれ(10)

◎仕事休んだ(?)50万人
 「物見高いは江戸の華」という言葉があるかどうか、知りませんが、ロンドン・オリンピック凱旋の銀座パレードに50万人(主催者発表)が集まったとは驚きでした。
 新聞の上空写真をみると、数10メートルも後ろにいる人は、行進がまったく見えなかったのでは。それほどギッシリと人の波が身動きできないくらい連らなっていました。どうやって50万人を計算したのかわかりませんが、好奇心旺盛というか、すごい大衆心理、これこそオドロキです。
 各紙によると、発案は石原都知事とか。立候補している2020年オリンピック招致の支持率にに良い結果をもたらすだろうとホクホクだったそうです。「わずか1キロの行進とは惜しい。何度も往復すればよかったのに」ともらしたとも報じられています。
  私などは、宮城横や警視庁前を通って新宿か渋谷あたりまで行進し、鼓笛隊でも使ってジャンジャカジャンジャンと徹底的に騒げば面白かったのにと思いました。
 だが、果たしてオリンピックの宣伝になったでしょうか。物見高い割りには、人情が薄いのが現代の江戸っ子。パンダか花火大会でも見物するつもりの人も多かったのではないでしょうか。
 新聞によると、メダリストたちはみんな笑顔で手を振り、感激していたようです。卓球の愛ちゃんは、さかんに投げキッスをしてはしゃいでいたとか。大きな写真が載っていました。「こんなにたくさんの人に応援していただいたんですね」「メダルをとった実感が湧いてきました」「お礼を言いたい気持ちでいっぱいです」などなど、選手は口々に感謝の言葉を述べていたそうです。
 ただ一人、これはテレビで見たのですが、さすが金メダルをとる人は観点が違うワイと、私だけ(?)が感心したのは、柔道で唯一の金メダルをとった松本薫さんの感想でした。
 「工事現場のおじさんたちが仕事をやめて見物していました。きっと休憩時間だったのでしょうね」
 すごい。鋭い見方です。並じゃありません。50万人は銀座在住ではないでしょう。ほとんどがサラーリーマン。それに、月曜の朝ですよ。きっと仕事を放りだして見物にきたのでしょう。不況といっても、日本人にはまだまだ余裕がある。本当にみなさん、休憩時間だったのでしょ。オープン・バスの上から、工事現場を観察する松本さんの冷静さ。すごい。それにしても、松本さんのテレビに出る回数が少ない。残念です。

◎八田、近藤両氏の功績
 今度のオリンピックは金メダル7個です。レスリングが男女あわせて4個とり、体操、柔道、ボクシングが各1個とりました。
 話題を変えるようですが、ちょっと日本オリンピックの歴史を振り返ってみますと、第二次世界大戦前は、1928年アムステルダム大会で織田幹雄さんが三段跳びに優勝して以来、陸上と水泳が中心でした。水陸以外では1932年ロス大会で馬術の西竹一さんが金メダルをとっただけでした。
 私が日本体育協会(JOCを含む)を取材し始めたのは1952年のヘルシンキ・オリンピックからです。戦前のオリンピックの成績の影響を受けてか、当時の体協の偉いさんは陸上と水泳が中心で発言力があり、学閥としては東大、早大出身がおおかたでした。ほかの競技では、漕艇の東竜太郎、東俊郎、サッカーの竹腰重丸(ともに東大出身)さんらが威張って(?)いました。
 ところが1955年あたりから、勢力分布がガラリと変わりはじめました。新興勢力ともいうべきレスリングと体操が台頭してきたからです。その象徴的な人物が八田一朗さんと、近藤天さん(ともに早大出身)です。一時は体協の理事会を牛耳っていて、ともに私の親密な取材対象でした。
 八田さんは1950年から亡くなるまで33年間、アマチュア・レスリング協会の会長をつとめました。ライオンとにらめっこするなどユニークな選手強化法を考え出し、戦後日本が初参加した1952年ヘルシンキ・オリンピックで石井庄八選手が日本選手団唯一の金メダルをとったのをはじめ、次の1956年メルボルン大会では2個、1964年東京大会では5個の金メダルと当たるべからざる勢いでした。
 八田さんは東京大会後、『剃るぞ』という本を出しました。負けたら選手を坊主頭にするだけでなく、局部の毛も剃るという激しさでした。この本は(本当は言ってはいけないことでしょうが)、私がゴーストライターでした。忙しい八田さんの自宅へ、連日朝5時ころから出掛け、話を聞いてまとめたのですが、時流に乗ってベストセラーになりました。
 体操は1952年ヘルシンキ大会で竹本正男、上迫忠夫選手が銀メダルをとり、次の1956年メルボルン大会以降、男子団体で5連勝しました。その他、個人種目での優勝数知れず。近藤さんはメルボルンと1960年ローマ大会の監督をつとめ、体協理事としての発言力もたいしたものでした。
 体操は、もともと東京教育大(現筑波大)と日体大の2校が張り合う形で進歩してきました。オリンピック選手も、体操協会の役員も、ほぼこの両校のOBで占められていました。近藤さんの出身の早大には、いつもたいした選手がいない中で、近藤さんがどのようにして監督の座を掴んだのか、不思議でした。時には、慶大や明大の役員を味方につけるなど、相当な権力争いが協会内部であったと想像されます。
 もちろん近藤さんは、戦前の1932年ロス大会の選手だったので、体操への情熱は並々ならぬものがあったのですが、1975年には遂に日本体操協会の会長にまで昇りつめ16年間もつとめました。

◎最後に残るは名誉欲
 近藤さんは外国との交渉を一手に引き受けていました。それが日本体操界で発言力を維持する原動力でした。外国からの手紙は、すべて近藤さんのカバンに入っていました。外国から電話があっても、ほかの役員はわけがわからず、外交は近藤さんの“独占的な仕事”になっていました。
 私はサッカー以外にも、体操を担当していたので親しくしてもらっていたのですが、私がときどき「カバンをどこかに忘れたらたいへんですね」と、からかったことがあります。
 おかげで近藤さんはアジア体操連盟の会長になり、国際体操連盟の第一副会長も長く勤めました。オリンピック功労賞銀賞も受賞しています。1989年には参議院議員に立候補、これは残念ながら落選しましたが、体操のような判定競技は国際舞台での発言力が絶対必要です。今日の体操界を築き上げた功労者であることには間違いありません。
 近藤さんが日本体操協会の会長になった時、私は「いろんな役職をかかえていて、この要職。たいへんですね」と意地悪な質問をしました。すると、こういう返事でした。
 「この年になると、うまいものは食ったし、女性にも興味がなくなった。残るのは名誉欲だけだよ。キミもこの年になると分かるはずだよ」
 名誉欲は地位とか権力と置き換えてもいい。そういえば、政界はもちろん、いまのスポーツ界にも、会長だ、名誉会長だ、と醜く権力にしがみついている連中がウヨウヨいますね。表彰されるのも好きです。それを公言していた近藤さんは正直な方でした。
(以下次号)

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