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オリンピックあれこれ(22)

◎様変わり開会式
 最近のオリンピックは変わりましたね。とくに開会式がひどく派手になりました。ジャカジャカドンドンと楽器が大音声をあげ、有名シンガーが叫びまくる。大画面を使って、人類の進歩をたどる歴史劇やオペラなどもやっている。少年少女やダンサーがくりひろげる集団演技。きれいなドレスを着てみんな真剣、この日のために猛練習をしてきた(犠牲を払った)様子がよくわかります。
 これは間違いなくショーです。「スポーツの大会なのに、あんなことまでやらなくてはならないのですか」と、評論家の故川本信正さんに聞いたことがあります。「仕方ないですね。テレビ時代だから。派手にやって世界の耳目を集め、視聴率を上げたいんですよ」
 やっぱりテレビか。それにしても、意外にも、川本さんはどんちゃん騒ぎを肯定的にとらえていることに驚きました。
 それから花火。すごいですね。ロンドン五輪では花火だけで30億円もかけたとか。何かの間違いですよね。開会式全体の費用が30億円じゃないですか。北京五輪もそうでしたが、「どうだ、オレのところはこんなにスゴいんだぞ」と国の力を自慢する道具になっています。スタディアム全体が花火で盛り上がった。みんな前回に負けないように張り切るから、止めどもありません。
 もし2020年に東京にオリンピックがやってきたら、コンパクトな大会などと言っているくせに、東京都の形をした大きな花火が、都全体に上がるんじゃないですか。月からも見えますよ、とか何とか言っちゃって。

◎簡素だった東京五輪
 約半世紀前の1964年東京オリンピックの開会式は午後2時から始まりました。昼間ですから花火なし。型通りの入場行進、聖火点灯、放鳩、飛行隊が大きな五輪マークを描きました。簡素にして感激に満ちたものでした。いまから考えるとすばらしい、後々のオリンピックの模範となるべき開会式でした。それなのに、開会式を見た作家・石川達三氏はこう書いています。
 「私もオリンピックにかなり批判的だった。たかがスポーツではないか。何のためのそんな大騒ぎをするのか……(段落)。開会式はかねのかかったセレモニーだ。この日のために、参加各国はどれだけ犠牲をはらったことだろう。聖火を東京に運ぶだけについても、何万という人たちが苦心を払い犠牲をはらったはずだ。スポーツの技を競うためだけに、なぜこんな大きな犠牲を払わなくてはならないのか」
 簡素だった東京五輪の開会式でしたが、少年鼓笛隊が約1年前からの練習で学校の授業そっちのけだった、と批判を受けました。あれやこれや、オリンピックはやってもいいが、あまりシロウトさんに迷惑をかけないことですね。
 次のリオ大会はどうなるでしょうね。多分、じゃんじゃん花火が上がって、何千人もの半裸の女性がグラウンドいっぱい踊りまくるんじゃないですか。たのしみ??
 
◎共感と違和感
 私は1952年ヘルシンキ・オリンピックの年にスポーツ記事を書き始めたのですが、外電などで「IOCなるもの」に初めて接した時の共感と違和感を忘れることができません。
 「IOCは国家を超越した組織であり、IOC委員はそれぞれの国家・地域に属するものではなく、IOCからそれぞれの国家・地域に派遣された大使のようなもの。つまりローマ法王庁が各国へ派遣する枢機卿のようなもの(バチカン方式)である」
 IOCとは「超国家的な存在」であり、政治に左右されない絶対的なもの、それが平和の権化のように思えて共感を覚えたわけです。が、その一方で、IOCは強いことを言っている割りには、いつも政治にゆさぶられ、政治を利用し利用され、政治に屈することばかりやっているじゃないかという違和感が、やがて生じてきました。
 私が接するIOCは、私にいわせれば、独善的な「ヘマ」ばかりやっている。現実の前には、オリンピック研究家が説く「クーベルタンの理想」はゴミみたいなもの。大国がボイコットすれば何もできない。現実に妥協する実例ばかりです。だんだん失望感に変わっていくのも当然でしょう。
 1964年東京五輪の標語に「世界はひとつ、東京オリンピック」というのがありました。たしか毎日新聞が公募した中の一つでした。この精神は美しく、蜜のように甘くて尊い。だが、現実はといえば、残念にも東京大会を含めてオリンピックで「世界が一つ」になったことはありません。
 「オリンピックは国と国の戦いではない。個人の戦いである」などと、国家やナショナリズムを否定するようなポーズをみせながら、国家を都市という形で競り合わせ、たっぷりと国家権力を利用し、その財政の裏付けという恩恵に浴し、ナショナリズムを逆用しながら発展してきた。それがIOCの実態です。「色男、カネも力もなかりけり」ではなくて「IOC、カネはあるが根性なし」です。

◎IOCと結婚したい
 IOC委員という存在も不可思議で、私はいま一つわかりません。彼らは完全に特権階級です。加盟する国・地域は200を越えているのに、委員は100名あまり。しかも、欧州に偏っている。これがバチカン方式で(勝手に)選ばれています。
 かつてのソ連(当時)が、不平等を訴え「1国1人の国連方式にしろ」と動議を出しましたが、簡単に却下されました。いま中国の委員が3人、韓国が2人、日本は猪谷千春、岡野俊一郎が定年でやめても補充されたのは竹田恆和1人だけ。そういうアンバランスな人選で選ばれた人々が、投票して開催地を決めるわけです。
 オリンピックが始まれば、夫人同伴で豪華なホテルに無料で泊まり(前サマランチ会長が1998年長野冬季五輪で泊まったホテルは40万円と聞きました)公用車があてがわれ、貴賓席に座り、周囲の人から最大級の尊敬のマナザシを受ける。そのような、名誉欲を満足させながら、ゆったりと観戦する。うらやましい。
 どこのオリンピックだったか忘れましたが、友人の記者がボランティアで働いている女性に「将来、どんな人と結婚したいか」を聞いた時、そこにいる女性たちが、口をそろえて「IOC委員の奥さん」と答えたそうです。
 出演してくれるプロの有名選手はギャラなし。喜んで手伝う何万人ものボランティアすべて無料奉仕。下支えしているのは開催国家のナショナリズム。喜んで寄付する協賛業者やイベント屋のコマーシャリズム。しかも開催希望都市は引きもきらず。IOCは3日やったら止められない商売です。
 IOCは外部の人が手をつけられない治外法権的な現代稀な存在です。かつて古代ギリシャでやっていた「運動会」を近代に復活させたクーベルタンも、さぞかし地下でホクソ笑んでいることでしょう。
(以下次号)

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