醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  249号   聖海(白井一道)

2016-03-29 16:38:16 | 随筆・小説

  横綱が泣いた


 横綱が泣いた。大相撲三月場所千秋楽結びの一番、横綱白鵬の相撲にブーイングが渦巻いた。優勝旗の授与を待たずに席を立つ観客が続いた。怒号の中のNHKアナウンサーによる優勝インタヴューの中で横綱白鵬は泪をながした。この涙は本人にとっても悔し涙のようだった。なぜこんな相撲を取ってしまったのかという悔し泪だった。しかし、男の泪に観客は白けてしまった。女の泪には許しがあるが男の泪には許しがない。
 相撲は男の文化だ。男の文化に生きる世界が相撲のようだ。男の文化の厳しさが強い男、白鵬の心を打った。この痛みに耐えかねて横綱は泪を流した。同情を求める涙ははねつけられる。これが男の文化なのだ。
 観客は強い男を見に来ている。強い男はがっちり相手を受け止める。これが相撲なのだ。受け止めて寄り切る。これが相撲だ。じっくり仕切り、満を持してぶつかる。これが相撲だ。肩すかす。これは相撲ではない。相撲は勝負ではないのだ。相撲の結果が勝負なのだ。相撲に勝って勝負に負けることがある。それがいいのだ。結果として勝負にも勝ち、相撲でも勝つ。これが横綱なのだ。
 相撲は観客のものなのだ。力士のものではない。観客あっての力士なのだ。勝負は力士のもの。力士にとっては勝負が相撲なのだ。勝つことによって力士の生活は成り立っている。勝負に勝つことが力士の生活を豊かにする。いい相撲を取っても力士の生活は豊かにはならない。勝負に徹するといつもいい相撲が取れるわけではない。いい相撲が要求される力士が幕内力士なのだろう。
 相撲と勝負、相反する可能性がある土俵に生きるのが力士なのであろう。相撲と勝負、このせめぎ合いの中で白鵬は相撲に負けて勝負に勝った。観客は勝負に勝った横綱にブーイングし、席を立った。相撲に負けた横綱白鵬は涙を流し、優勝した。ほろ苦き「優勝」だった。
 プロスポーツとは全て観客あって初めて成り立つものである以上、勝負に徹したスポーツは観客から見放されてしまうだろう。観客が見て満足する勝負をしなければプロスポーツはなりたたないだろう。フェアなプレイでなければ、スポーツではない。フェアなものだから観客は喜ぶ。八百長や博打はスポーツを堕落させる。スポーツをスポーツでないものにする。スポーツは楽しむもの。楽しむものだからこそスポーツなのだ。
 相撲は国技というが、プロスポーツになっているのだ。なぜなら楽しむものだから。楽しむものだから相撲はスポーツなのだ。大相撲春場所千秋楽結びの一番、白鵬対日馬富士、集中してぶつかった日馬富士に対して白鵬が変化した。勝負に徹した白鵬に日馬富士は土俵をわった。白鵬の変化に観客は楽しむことができなかった。楽しみを求めて大阪府立体育館に高い入場料を支払って来たのに、楽しむことができなかった。白鵬にフェアなプレイを見ることができなかったからだ。
 大相撲春場所千秋楽結びの一番、白鵬対日馬富士戦はプロスポーツとしての相撲ではなかった。観客は相撲を見に来たのに相撲を見ることができなかったからだ。
 スポーツは体育とは違う。スポーツは楽しむものだが、体育は楽しむものではない。学校教育にあって体育は当然正当な教育科目である。スポーツは楽しむもの、遊ぶものなのだ。だから部活動としての野球はまず第一に遊びであり、生徒たちが楽しむものでなければならないのに教育活動の一環として部活動が行われていることは実に不幸なことである。特に甲子園野球が高等学校の教育活動の一環として部活動の一部としてあるにもかかわらず、プロスポーツ化しているのは不幸なことである。
 今、春の全国高等学校野球大会が開かれている。相撲と高校生の野球をテレビ観戦しながら感じたことである。