【住職の法話。考え方を少し変えるだけで、苦しい人生が、楽しい人生に。2294話目】 時折ですが、次の言葉を掛ける事がある。「他人の人生まで背負えとは言わん。が、自分の人生くらいは、自分で背負いな」と。
四六時中夫婦喧嘩する檀家が。「誰が働いて飯が食えてると思ってんだ」と。「誰が買物行って飯を作ってると思ってんだ」と。で、拙僧が「島田紳助さんが、以前『何かと言えば滋賀が、偉そうにすな、京都、大阪。琵琶湖の水、止めるぞ、と。はっ、なら琵琶湖の放流させんぞ。大洪水になれや』と。どうよ、これ」と。
【追伸】
人間には生涯のうち何度か、チャンスというものがやって来る。その時に自分が『0(無努力,
力量)』なら、何度チャンスがやって来ても、得られるものは何もない。0×1度=0、0×2度=0、0×3度=0、なので。その時に自分が『1』の努力、力量なら、1×1度=1の実り。その時に自分が『2』の努力、力量なら、2×1度=2の実り。その時に自分が『7』の努力、力量なら、7×1度=7の実りとなる。結局、人間は、努力をしただけ、力量があるだけの実り、しかない。上記のものは、紳助さんの「人生は掛け算だ。どんなにチャンスがあっても、君が『0』なら、意味がないんや」を参考にしたもの。紳助さんの言葉は、実に、法話の参考になる。