【5月15日投稿分】
5月10日投稿分に続き、5月13日に他界した拙僧の爺様(明治41年〜平成2年、行年83歳)の話を供養の為にさせて頂きたいと思います。時折、年忌法要に来られた檀家さん達に「故人への悪口も供養にて、じゃんじゃん悪口を言ってくださいな。1番あかんは、忘れ去る事、無視する事にて」と。この話(爺様の生き様)は、昨今のコンプライアンスに照らすと不適切な場面も多少出てきますが、まあ、昔の事として読んで頂ければ。
戦時中、満州で土木業の親方をしていた拙僧の爺様ですが、この時期に満州国政府に奉職しておられた三原朝雄(文部大臣、防衛庁長官)さんと知り合い、帰国後も長くその付き合いは続く事に。拙僧18歳の頃、爺様(当時73歳)から「遠賀(福岡県内の町)に連れて行け」と頼まれ、何度か爺様を車に乗せて三原朝雄事務所に。三原さんと爺様がソファーに座って話をしている姿を見ると、ここは怖い事務所(極道)なの、という様な雰囲気でしたね。事務所に地域の土木の親方衆が入ってくると、いきなり「親父(三原さんの事)さん、仕事をくれや」と。対し、三原さんが返す言葉で「俺の取り分(マージン)は」と、こうくる。このやり取りを見ていた拙僧に爺様が「博(拙僧の俗名、博文)よ。この言葉の掛け合いで、仕事が成立するんだ。談合があるから、よそ者(裏社会など)が入ってこれず、みんなに仕事が回るんだ。談合を批判する人間がおるが、その意味(世界)のわかっていない知識なき連中(無関係者)が、勝手に訳もわからず、文句、批判を言ってるだけだ」と。
対し、拙僧「ところで爺ちゃん、取り分、って何よ」と尋ねると「人を動かすには、金が掛かるんだ。自分の贅沢に使う訳じゃない。一般庶民の間でも、この国(日本)の風習として、お世話になった人達に夏と冬、お礼を込めて、中元、歳暮を送るじゃろ。お金に関しても、親は子供に『お金の貸し借りは、しちゃならん』と教えながら、親は銀行からお金を借りて、家を建て、車を買っておるがな。綺麗事や建前だけじゃ、世の中は動かん。特に政治家は、人間の欲を相手の仕事だ。そう簡単なものじゃない」と18歳の拙僧に。こんな話をすると、現代の基準(常識)に当てはめて、文句を言ってくる人達がいるかもしれませんが。数十年前の事を掘り繰り返して、大叩きされている芸能人の様に、正義感を暴走させて。それだけはご勘弁頂きたいですね。何せ、50年以上前の事ですからね。
爺様は満州から引き上げて来た後、北九州で山本工作所を初代社長と立ち上げ、その下で三友工業という会社を起業。その起業資金は婆様が満州時代から、鉄砲の弾の下をかい潜って闇酒を売って稼いだもの。新日鐵八幡製鐵所本社勤務を辞めて、わが寺(金剛寺)を継いだ拙僧の父(爺婆の長男)をも同時に支えていた婆様は、過酷な生活環境により、拙僧9歳(婆様59歳)の時、脳内出血で倒れ、左半身が不自由に。1年1ヶ月入院後、主治医(北九州市戸畑病院の副院長)から「婆ちゃんの左半身は、もう動かない」と宣告を。が、退院後、婆様は本堂内を動かす事が出来る右半身を使って、這いながら傷だらけでお百度参りを。1年後、握力は5まで戻り、チンタカしながらも歩ける様に。その根性たるや、その間、誰にも愚痴を言わず、文句も言わず、黙々と百度参りのリハビリを。
身体は不自由でも口の達者な婆様に、ある日の事、爺様が「社員を連れて、鹿児島の長崎鼻に行って来た」と言うと、婆様が「ほんとに社員旅行だったかどうか、わかったもんじゃないわい。長崎県にあるから、長崎鼻と言うんじゃ。何が鹿児島じゃ、アホか」と、この一言で爺様がブチ切れて、外に飛び出して行った。まあ、爺様は若い頃から『飲む、打つ、買う』のうち『飲む(酒飲めず)』だけはしなかったが、婆様に苦労を掛け続けてきたは間違いないから、信用はないかな。対し拙僧、婆様に「長崎鼻という岬は、鹿児島県の指宿市にあるよ。日本には、長崎鼻という岬は、8つ(千葉、香川、長崎2つ、鹿児島、大分、熊本、愛媛)もあるんだよ」と言うと「ほう、そんな事ね」と。数時間後、爺様は何処ぞから地図を買って来て「ほれ、見ろ、長崎鼻は鹿児島じゃろうが」と鼻息荒く、勝ち誇った顔で地図を突き付けると、婆様はその地図を見ようともせず「あんたがそう思うなら、そう思っとけばいいじゃろ」と。爺様は唖然として、次の言葉が出ませんでしたね。
5月13日の朝5時、爺様が他界を。家に連れて帰ってくると、婆様は爺様にしがみついて大泣きを。若い時に苦労を掛けられた爺様に対し『江戸の仇は長崎で』と言わんばかりに晩年は、爺様をイジメ倒した婆様でしたが、長年連れ添った爺様、やはり悲しいんだな、と。葬式には600人を超える会葬者が。その中に3人、中国人の方がおられ「満州(戦時中)時代、親方に命を助けられて」と大泣きを。通夜、葬式には、家族の知らない故人の一面を、会葬者から知らされる事が結構にある。それで拙僧、檀家さん達には「家族葬はあかん。故人に助けられたは、家族、親族だけにあらず。故人にお礼を言わにゃならん、という人は数多に。その人達の場所を奪う事はならん」と。葬式が終わって、皆々(親族)が帰ると婆様が、爺様の写真を箪笥の中に。「どうしたの」と拙僧が尋ねると「迎えに来られたら、たまらん。これからが、わしの人生じゃ」と。『あんた、さっきまで泣いとったんじゃないんか』と拙僧、心の中で呆れて。やっぱ、女性は生き物が違いますばい。
爺様が他界して1年後、お手伝いさんの夢の中に爺様が出てきて「婆さんを連れていく」と。咄嗟にお手伝いさんが「爺ちゃん、あと3年待って」と返すと「3年じゃな」と生前中の力強い声で。そこで夢が覚めたと。見事に3年後、婆様は爺様に連れて行かれました。お手伝いさんが「あの時『あと10年待って』と何故言わなかったんだろ」としょげるので「口から出た3年が、婆様の寿命だったんじゃないの」と拙僧、そのお手伝いさんに。
世のご夫婦さん達、向こうの世界もまた、伴侶(夫、妻)と一緒の様ですばい。この世の世界では、数十年の縁ですが、向こうの世界では、どうも、未来永劫の様で。特に奥様達、諦めましょ。こういうのを、腐れ縁と言うんでしょうかね。
【付録】
拙僧はこれまでに法話の本を3冊、世に出して頂きました。そのご縁がきっかけとなり、テレビ(約半年、週1回)、ラジオ、新聞、雑誌などや、教育委員会、学校、幼稚園、病院、老人ホーム、デイサービス、町内会老人の集い、倫理法人会、他宗寺院、葬儀斎場、社員研修などへの講演(北九州在住の拙僧が、遠方では九州南部、関西、関東、北陸、東北まで)にも呼んで頂き、方々で法話交流を。あらゆる話とまでは言えませんが、様々なジャンルである程度(仏教仏事系の他にも、癒し系、漫談系、人生系、目から鱗系、子育て系など)の話が出来ると思いますので、何かのお役に立ちそうでしたら、時間調整の許す限り、集いの大小問わず(参加者数人でも)足を運ばせて頂きますので、お気軽に、facebook、X、Instagram のメール(コメント欄)で、お声を掛けてくださいませ。勿論、この様なお話でいいなら、でございますが。拙僧も今年で62歳。これより先の残された時間を、1人でも多くの人のお役に立てれば、との思いです。『今、自分に出来る事を、今やる』ですね。
約10年間でSNSに投稿した3000話の長短法話を下記で読む事が出来ます。
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拙僧が持つグループ「出会うは運命、出会ってからは努力、最後は感謝」
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【追伸】尚「法話が長い」と不快感を示されておられる方々には、大変心苦しく申し訳ないので、拙僧の法話が目に入らない様に『ブロック』をさせてもらっております。楽しみにされている方々もおられますので、ご理解頂きまして、それでどうか、ご容赦くださいませ。
次回の投稿法話は、5月20日になります。添付写真は、わが寺の達磨大師。拙僧の爺様に極似。
